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淡江大学日本留学試験同好会コミュの幕末の日本―戊辰戦争と幕府の滅亡(日本史)

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分野別:日本史
作者:川手晴雄
出所:「日本近現代史」(過去に目を閉ざす者は未来にも目を閉ざすことになる)
掲載年月日:2006年9月29日
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(本文)


 薩摩と長州の軍事同盟の成立によって、倒幕のシナリオが完成したが、その前に、長州における尊皇倒幕派の復権の重要性を上げなければならない.明治維新と呼ばれる.日本の近代化革命は、長州によって切り開かれた点をしっかりおさえておかなければならないからである.

 幕末日本最大の尊皇攘夷派根拠地であり、最過激派であった長州、そのため第1次長州征伐によって壊滅的打撃を受け、朝敵の汚名を着せられた長州.その長州を再び、倒幕派の拠点として立て直し、後の戊辰戦争の口火を切らせるまで鍛えたのが、高杉晋作である.

 藩内の尊皇派粛清によって追われた高杉は、残された数十名の同志と長州藩内武力クーデタを決行したのである.藩政を再び自分たちに取り戻し、倒幕派として立たせるにはこれしかなかったのである.わずか数十名の同志とは、彼が創設した奇兵隊志士のことである.奇兵隊とは、高杉が欧米の近代軍隊から学んだ民衆軍隊である.農民、町民層の若者を集め、軽装に銃という、それまでの日本にはなかった軍隊だった.この行動力と集団的戦闘という近代的戦法が幕府軍を完璧に打ち破り、明治を切り開くことになった.日本における最初の近代的軍隊がこの奇兵隊である.奇兵隊によるクーデタの成功により再び藩政を取り戻した高杉らによって、薩長同盟が成ったのである.その意味で、高杉の数十名のクーデタこそが明治を切り開いたといってもいいだろう.

 長州藩の再度の翻意は幕府を怒らせ、1865年の第2次長州征伐を起こした、しかし、これが幕府の息の根を止める引き金となったのである.幕府の命令にもかかわらず、第1次長州征伐の主力軍であった薩摩が出兵を拒んだのである.薩長同盟の結果である.薩摩抜きで行われた第2次長州征伐は高杉率いる奇兵隊の前に幕府軍の敗北という無残な結果を生んでしまったのである.このことは、全国に幕府の無力を示すこととなり、取り返しのつかない事態へと歴史は展開していったのである.1866年14代将軍徳川家茂が若くして病死すると、幕府はそれを理由に一方的に兵を引き上げ、長州との戦争を止めてしまった.幕府は急遽、一橋慶喜を15代将軍として即位させた.最後の将軍徳川慶喜である.この徳川慶喜こそ、最後の逆転を図り、幕府による日本近代化を進めようとした人物である.

 薩摩、長州にとって、倒幕の大きな障害となっていたのは、孝明天皇であった.彼が公武合体派だったからである.尊皇を掲げる以上倒幕の詔勅なくしては、兵を上げることはできなかったのである.しかし、1866年12月、まるで計ったようなタイミングのよさで、孝明天皇が病死したのである.そして、父とは違って、倒幕派の明治天皇が即位したのである.

 この明治天皇こそ、岩倉、三条らの攘夷派公家によって育てられてきた人物であり、明治以後の日本の近代天皇制最初の天皇となった人物である.
 倒幕派天皇のもと、薩摩、長州は天皇に倒幕の詔勅を出させ、倒幕の軍を上げる準備をすすめた.これに対して、1867年10月、将軍慶喜は天皇に政権を返上するという先手を打って対抗した.大政奉還である.これによって、天皇の命に従わない幕府を討つという倒幕側の大義名分を失わせたのである.慶喜は、フランスに接近するとフランス軍将校を招き幕府軍の近代化を図り、幕府の改革を行い、近代化政策を推し進めた.幕府軍の近代化が成ると倒幕の可能性が低くなると見た薩摩長州は次の手を打った.幕府から実権を奪うことである.

 1867年12月の王政復古の大号令がこれである。天皇への政権返還だけでなく、実質的に朝廷が日本の政治を担うという宣言である.これによって、将軍の地位は消滅するのである.そのことは、徳川将軍の権威と領地の消滅を意味した.幕府と徳川将軍の権力を一気に打ち砕こうとしたのである.将軍慶喜は朝廷の領地返還命令に従わなかった.これをすれば、幕府による近代化も幕府そのものもなくなってしまうからである.朝廷の命令に従わない幕府、ここに薩摩、長州にとって、倒幕の大義名分ができたのである.倒幕軍は江戸に向かって兵を上げた.これに対して、幕府についた藩兵を中心とする幕府軍も迎え撃つべく西に向かった.

 いよいよ内戦の開始である.1868年1月、京都の鳥羽、伏見で両軍は戦端を開いた(鳥羽、伏見の戦い)。戊辰戦争の始まりである.この時点では、まだ幕府軍は薩摩、長州を主力とした倒幕軍(官軍)の数倍の兵力を持っていた.しかし、戦闘は奇兵隊を模範とした近代的軍装と戦法の倒幕軍の前に幕府軍は敵ではなかった.幕府軍総司令官として大阪城に陣を張っていた将軍慶喜は、幕府軍敗北の知らせを受けると、さっさと船に乗り、江戸に帰ってしまった.総司令官を失った幕府軍は総崩れとなり、幕府軍は大敗北となったのである.幕府軍敗北の報が全国に広がると、各地で反幕府の武力蜂起が起きた.それは、下級武士の集団であったり、農民であったりした.また、江戸の町では“ええじゃないか”と踊り叫びながら、金持ちの商人や質屋を襲う民衆が現れ、農村では“世直し”を叫ぶ農民一揆が起きた.

 将軍徳川慶喜は江戸に帰ると、朝廷に恭順の意思を示し、自ら隠居してしまった.1968年4月、倒幕軍(官軍)総司令官西郷隆盛は、幕府軍総司令官勝海舟と会談し、江戸城明け渡しが合意され、倒幕軍(官軍)は江戸無血入城を果たした.倒幕軍(以後新政府軍)はその後、東北地方の幕府側勢力との戦闘を続けたが、1869年5月の北海道の函館に立てこもった最後の幕府勢力との戦闘を持って内戦は終了した.

 ここに名実ともに、徳川幕府260年の歴史が終わり、明治時代という、近代日本が始まったのである.

コラム 徳川慶喜
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 15代将軍徳川慶喜は、大政奉還後、諸藩の大名を議員とし、自ら初代大統領となる議会を開こうとした.これは、フランス議会を真似したもので、大統領と議会による共和制を目指したものである.従来、この慶喜の構想を幕府と将軍の生き残り策とする見方が多かったが、慶喜が.将軍在任中にヨーロッパの政治制度や法律の研究を進めていたことから、決して生き残り策としてだけではないとの見方も出されている.慶喜の近代化政策も、天皇制でなく共和制だったところが興味深い.

コラム 官軍と賊軍
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 薩摩、長州を中心とする倒幕軍は自らを官軍と呼んだ.これは、官、つまり天皇の軍隊という意味である.このことは、官軍にはむかうものは、天皇に逆らうもの“賊軍”ということを示した。官軍は“錦の御旗”と呼ばれる、天皇の軍隊であるしるしの絹の旗を掲げたため、これを見た幕府軍は“賊軍”(天皇に逆らうもの)といわれることを恐れ、敗走したといわれる.幕末における天皇の存在を物語るよい例である.これ以後、日本では、誰も逆らうことのできない旗(建前)を掲げることを“錦の御旗を掲げる”というようになった.また、“賊軍”という汚名はその後100年以上も日本でいきつづけることになったのである.

コラム 会津藩
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 新政府軍と戦った藩としては、会津藩が有名である.現福島県にあった会津藩は藩を上げて、新政府軍と戦い敗れた.新政府軍(官軍)と戦ったために賊軍の汚名を着せられた会津藩であったが、幕末を通じて、京都守護職として、京都御所の警護にあたり、禁門の変では天皇を守るために長州と戦った.この藩が、薩摩、長州側につかなかっただけで、賊軍とされたことは“官”“賊”の振り分けがいかに政治的だったかの証拠であり、天皇がいかに政治的に利用されたかの証拠でもある.多くの藩士を殺され、領地を没収された会津藩は、本州最北端の未開の地、下北半島に移され、多くの人々がその極寒の荒地で死んだのである.会津の人々の名誉回復はずっとあとのことである.

コラム 偽官軍
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 鳥羽、伏見の戦いによる幕府軍の敗北以後、全国で民衆の武装蜂起が続いた.武装集団は自ら、官軍を名乗ったり、世直し軍を名乗ったりした.新政府軍は進軍すると、合流しようとしたこれらの民衆武装集団を“偽官軍”として処罰した.このことは、新政府軍が、薩摩、長州主流であることを守ろうとしたことをあらわしている.明治維新と呼ばれる、日本の近代化革命を“薩摩、長州クーデタ”でしかないとする歴史家がいることは、このような例からである.明治新政府が薩摩、長州による専制であったことからも、この見方は間違いとはいえない面を持っている.

コラム 北海道共和国
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 会津とならんで新政府軍に最後まで抵抗したことで有名なのが、先にも述べた、新撰組副長土方歳三や幕府海軍長官榎本武揚がひきいて北海道の函館にこもった勢力である.彼らは、函館に、“北海道共和国”を立て、大統領選挙を行った.このことは、薩摩、長州だけが、日本の近代化を目指したのではないことの証明である.また、王政復古という天皇制の復活によらない欧米流の共和制の近代国家を目指したことも特筆すべきことである.榎本武揚は、明治新政府に対して北海道の開拓を条件に共和国の存続、共存を申し入れたが拒否され、1869年、ついに武力討伐されてしまったが、敗北後、許され、明治新政府の要人として、日本の近代化のために働いた.このことは、幕府側といえども近代主義者が多くいたことの証明でもある.

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