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淡江大学日本留学試験同好会コミュの幕末の日本―尊王攘夷運動と安政の大獄(日本史)

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分野別:日本史
作者:川手晴雄
出所:「日本近現代史」(過去に目を閉ざす者は未来にも目を閉ざすことになる)
掲載年月日:2006年9月25日
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(本文)


 幕府の開国政策による国内の混乱と、不平等条約への不満は幕府への批判として急速に国内に広まった。その中心になったのが、西南の雄藩といわれた長州藩と薩摩藩であった。これらの藩では、藩政改革に成功し経済的にも政治的にも充実した時期にあった。特に、改革にあたって、身分の上下を問わず、能力のある者を藩政の中心に取り上げたので、優秀な人材が輩出した。これらの人材の中から、明治新政府の中心となる人物がほとんど出たのである。幕府への批判は開国政策への批判であり、それは当然のこととして、それらの混乱の原因を作った外国勢力へと向けられた。「外国を追い払え」…いわゆる「攘夷運動」である。

 諸悪の根源は外国にあるというナショナリズムの高揚である。この運動は瞬く間に全国に広がった。もともと黒船来航以来、民衆は開国には反対だったのである。攘夷運動は、幕府が開国にあたって、朝廷の勅許(許可)を受けなかったことから、天皇こそ日本の最大権力者(元首)であるという思想と結びつき、尊王を掲げ、尊王攘夷運動へと発展していった。幕府を批判し、その政策を批判するために、将軍にその位を与える役割を担う形式的には上位にある天皇を持ち出したのである。ここに、1000年の眠りからさめた、新たなる天皇制が近代日本に登場したのである。

 天皇が歴史の表舞台に登場したことは、その後の日本の150年にきわめて大きな影響を与えることになった。その意味で、尊王攘夷運動は、その後の日本の道を決めたといってもいいであろう。尊王攘夷運動の盛り上がりとともに、日本における天皇の偉大さを宣伝する尊王思想が形成された。その代表的人物が長州藩士、吉田松陰である。吉田の思想の基、その後の日本を担う人材が長州から多く輩出したことは、明治日本の近代的天皇制形成に大きな役割を果たした。尊王攘夷運動は、長州藩、薩摩藩だけでなく、御3家の一つ水戸藩を始め、土佐藩などでも有力となった。それらの藩の大名達は、幕府に対して、攘夷の実行を迫る一方、朝廷に接近して、幕府に攘夷の実行を命令する勅許を出させようとした。それまで、日本の政治とは離れた場所であった、京都がにわかに政治の舞台となったのである。

 一方で攘夷派の下級武士達は、各地で外国人を襲い、攘夷を実行したのである。尊王攘夷運動の盛り上がりと朝廷の発言力の強まりに危機感を感じた大老井伊直弼は、大弾圧を持ってこれにこたえた。安政の大獄である。井伊直弼は、公然と幕府を批判した大名達を処罰し、幕政から遠ざけると、尊王攘夷運動の思想的指導者であった吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎らを捕らえ処刑した。しかし、この結果井伊は1860年江戸城桜田門外において、水戸藩士によって暗殺されてしまった。有名な桜田門外の変である。

コラム 天皇制
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 日本の天皇制を永遠普遍のものあると主張する人達がいる。しかし、天皇が実際に権力を持っていたのは遥か遠い昔で、鎌倉、室町、戦国と時代が下るとともに形式的な存在でしかなくなっていた。特に、戦国期には存在すら知らない国民が大多数を占め、織田信長ですら、学者に指摘されるまで知らなかった。彼は天皇の権力など信じず、あまり利用しようともしなかった。これは豊臣秀吉も同じである。天皇の権力を再び最大限利用したのは、徳川家康である。彼は天皇家に1万石を与え、大名なみの待遇にするとともに、積極的に徳川家と縁組を行い、自らの権威つけに利用した。

 これによって、天皇家と、それに従う公家たちの生活は、やっと人並みのものになったといわれる。それほど経済的にも窮状状態にあったのである。しかし、徳川幕府は、天皇の権力が再び大きくなることを防ぐために様々な法規や制度もつくった。ために、江戸時代を通して、天皇は形式的存在でありつづけ、庶民にとっては遥かに遠いものであり、あまり知られてもいなかった。江戸時代の国民にとっては、日本を代表する権威と権力は、公方様、つまり徳川の将軍であったのである。それを覆し、歴史の暗闇から天皇を引きづり出したのが尊王攘夷運動であり、それを担い明治の指導者となった長州、薩摩の人々である。

コラム 井伊直弼
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 従来、日本の歴史の中では、大老井伊直弼を尊皇攘夷派弾圧の大悪人としてきた。しかし、井伊は当時の幕府内最大の開国派であり、近代主義者でもあった。
 彼は、偏狭なナショナリズムである尊王攘夷運動を日本の近代化の障害と考えていた。彼は、幕府主導による上からの日本の近代化しか、日本を欧米列強の強圧から救う道はないと考えていた。朝廷の妨害もこれへの障害でしかなかった。その意味では、維新後の明治新政府の政策とまったく同じ道を歩もうとしていたのである。

 この時点では、尊皇攘夷を唱える、以後の明治の指導者よりも先をいっていたといえるだろう。その彼を大悪人にしたてたのは、明治政府の指導者たちであり、やはり、阿部正弘と同様に、近代化を自分たちの専売にしようとしたためである。その意味で、井伊直弼の再評価は必要である。

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