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労働組合(職場の悩み・運動)コミュの革マル派と中核派の違い。

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革マル派と中核派の違い。


1963年、革共同(革命的共産主義者同盟)が分裂して革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)と中核派(革命的共産主義者同盟)が誕生した。

集会、デモ、火炎ビン闘争、ストライキ、サボタージュなどの大衆運動を展開しても前衛党組織が、大衆運動だけで出来るものではない。

そこには大衆運動とは区別された組織建設の営為が必要である。

この組織建設を、ないがしろにし、大衆運動の拡大ばかりを追求したのが中核派である。こうした傾向を「大衆運動主義」と言う。

この点は共産同と同じである。

解放派は「前衛党」を必要としたレーニン、トロツキーはスターリンと同じくらい悪いとし、自然発生性に拝跪し、前衛党を全面的に否定した。

しかし、組織の強化・拡大無くしては大衆運動の展開も不可能になる。

前衛党組織の建設においてはブルジョワ的、スターリン主義的、社会民主主義的イデオロギーに汚染され革命とは縁遠い存在になっているプロレタリアートの人間変革が必要であるとの立場を革マル派は取った。

フロイトの言う「下意識」のレベルからの変革が必要だと主張した。

中核派、共産同、解放派、日本共産党、社会主義協会は人間変革の必要を認めなかった。

中核派、共産同、革命妄想の下に、少数の学生が「先駆」になって火炎ビン闘争をやれば、労働者が武装蜂起して革命が成就すると考えたのは、人間変革と強大な前衛党無しに革命が可能だという考えからであった。

中核派の組織は日共と同じ地域別組織で、産別委員会は形骸化していた。

元学生活動家の「官僚」が労働者を支配するためには「地域別」の方が好都合である。

産業別に労働者党員が団結すれば「官僚」に反抗するようになるからである。

革マル派は地域別組織と共に強力な産別委員会を持っている。

1970年代で言えば、国鉄委員会、全逓委員会、全電通委員会、教育労働者委員会、自治体労働者委員会、重工業労働者委員会などである。

中核派の官僚が労働者を火炎ビン闘争に投入できたのは産別委員会が形骸化し、官僚による労働者に対する支配が強固なものだったからである。

革マル派は、前衛党組織の弱体化、縮小を招く闘争は絶対、やらない。

1964年、中核派は全逓東京地本羽田空港支部で、組合の機関決定を経ない実力行使をやり、組合から除名を含む統制処分を受け、当局からは懲戒解雇などの行政処分を受け、全逓の中核派は大打撃を受けた。

それ以降、中核派は組合内部で運動を展開するのを基本的にやめ、街頭武装闘争に傾斜していった。

共産同は、東京都の交通局で7人の山猫ストをやり、組合からは除名処分、当局からは解雇され、街頭武装闘争に傾斜した。

その後は大阪中央電信電話局で3人のストライキをやり、その3人のストが「北大阪武装制圧」を結果するとの妄想を抱いた。

解放派は、東京都の路面電車廃止反対闘争で、山猫実力行使を行い、組合からは統制処分、当局からは行政処分を受け、大打撃を受けた。

その後の東京都、横浜の水道局、国労高崎地本、全逓東京地本南部地方支部、同多摩地方支部の解放派は「普通の社会党員」に先祖がえりした。

新左翼三派が労働組合を指導して戦闘的な闘争を実現できなかったのは、前衛党建設と人間変革の必要を理解できなかったからである。

革マル派が1970年6月、日本で唯一、立川機関区で反安保ストライキを打ちぬき、

1971年、マル生粉砕闘争に勝利し、72年、動労の83日間の順法闘争を実現し、73年に動労主導の日本初のゼネストを打ち抜き、74年には650万人が参加した巨大なゼネストを領導した。

1975年にはスト権奪還ストライキを実行し、1978〜79年には全逓越年反マル生闘争において、全逓、国労、動労の三単産共闘を構築した。

中核派も反帝反スタを掲げているが内容は革マル派とは大きく異なる。

中核派は「現代世界の起動力」は帝国主義にあり、スターリン主義は、巻き込まれるだけだと考える。

したがって、彼等は「反帝」に力点を置き、「反スタ」を没却する。

革マル派が「ソ連のアフガン侵略弾劾」を掲げた時、「侵攻」ではなく「侵略」と言うのは「反共主義」だと非難した。

革マル派が「ソ連による北方四島支配反対」の闘争を行った時にも「反共主義」だと非難した。

コメント(2)

ソ連のアフガーニスターン介入は、アフガーニスターン革命政府の度重なる要請に基づいておこなわれたものであり、反革命ゲリラを一掃するため必要でした。
ソ連による千島列島接取は、日本軍国主義の再起を許さないために必要でした。
解放派とは。

前衛党を作る事に反対し「前衛党」からの自由「感性の無限の解放」「絶対自由」を掲げたサンディカリストである。

解放派は社会党、社青同の分派として形成された。

労働者解放派は普通の社会党員(民同)が60年安保闘争によって少し急進的になったものでしかなかった。

学生解放派は火炎ビン闘争、革マル派との暴力的党派闘争を実行したのに対し、労働者解放派は、やらなかった。

労働者解放派は70年安保闘争が終わると再度、民同の中に埋没し右翼労組幹部となった。

解放派は「前衛党」は「プロレタリアートを支配する小ブルジョワ集団」であり、「前衛党」を建設せんとしている革マル派と解放派の武力闘争はプロレタリアートと小ブルジョワジーの間の「階級闘争」であり「階級闘争で死者が出るのは当然」だとして自分達の殺人を正当化した。

前衛党を建設したレーニン、トロツキーはスターリンと同じくらい悪いと唱えた。

解放派は1968年の早稲田祭で「感性の無限の解放を」というスローガンを掲げた。

「セックスしたい時にセックスせよ。殴りたい時に殴れ、火炎ビンを投げたい時に投げろ、殺したい時に殺せ」という意味である。

フリーセックスを導入し女性活動家は「共同便所」であった。

1966年の社青同東京地本大会では協会派に激烈な暴力を振るい多数の重傷者を出し、その結果、社青同全国大会は「解放派=テロリスト」の放逐を決定した。

「今が革命前夜」だという情勢分析ではなく「感性」によって火炎ビンを投げた。

解放派学生が大量逮捕されている間に、革マル派は火炎ビン闘争をも闘いつつ、学生組織、労働者組織を強化していった。

学生自治会は全員加入制であり、全共闘は1人でも作れる組織である。

学生自治会には、右翼的学生、ノンポリ学生も居る。

闘いたい少数派だけでも闘うというのが全共闘の理念である。

右翼的な学生は無視するというのが全共闘の路線であった。

革マル派は全共闘に加盟しながらも、全員加入制の自治会の強化、学生全体の左翼化を目指した。

突出したラディカルな少数派の闘争ではなく学生全体による闘争を追求した。

その結果、早稲田の学生大衆は解放派を見捨て革マル派を支持するようになった。

早稲田の文化系サークル連合では解放派執行部が打倒され、革マル派執行部が確立した。

解放派は狂乱的になり、早稲田の学生会館に火炎ビンを投げ込んだ。

こうして、解放派は革マル派との暴力的党派闘争に突入した。

解放派内部の殺人も陰惨なものだった。

学生解放派は労働者解放派を襲撃し、多くの者が全国指名手配になった。

学生解放派のボス=狭間はライバルの長井を殺した。

労働者解放派は、解放派である事をやめた。

元学生の解放派は山茂派と千木良派に分裂し、白昼堂々と衆人環視の下、ドスで刺し殺すという逮捕される事を全く恐れていない方法で、多数の殺人を繰り返した。

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