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フリードリヒ・ヘーゲルコミュのヘーゲルの素敵な言葉

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皆さんがヘーゲルの素敵な言葉だなあ、素晴らしい文章だなあと思うものを教えて下さい。ともに味わいましょう。
感じたことや思ったことなども分かち合えたら嬉しいです。

コメント(28)

「有の区分の諸規定は、むしろ有そのものの運動から初めて生じ、それによって定義され、権利づけられるものである。」
(『大論理学』より)


ぼくがいかなる人間かということは、何か始原とか本質にさかのぼれば見出されるだろうなんて空想されるものではなく、
ぼくの生きてゆく道がまさに一歩一歩ぼくを初めて定義しているのだ!




Wenn die Philosophie ihr grau in grau malt,
dann ist eine Geschtalt des Lebens alt geworden,


und mit grau in grau laeβt sie sich nicht verjuengen,
sondern nur erkennen:


die Eule der Minerva beginnt erst
mit der einbrechenden Daemmerung
ihren Flug.




Das ist vielleicht das beruehmteste Wort Hegels
und ich halte es auch fuer schoen und groβ und
glaube,daβ es die hoechste Wahrheit zeigt.
>>[002]〜[006] Kaiserさん

ぼくはドイツ語が読めないから、ドイツ語の辞書を散らかった本棚から探そうと思ったけど見つからない。Kaiserさんが気に入ってるそれらの言葉の意味を知りたかったあ。
「しかし、この確信(感覚的な確信)の本質であり、この確信こそ自らの真理としている純粋存在には、それだけでは済まないそれ以上のことが足元で繰り広げられているのだ。
すなわち、実際の感覚的確信はこうした純粋の直接態であるにとどまらず、この直接態がそこにおいて繰り広げていることをも含んでいる。
この繰り広げの中に現れる無数の区別の中にも主要な区別と言えるものがある。それは純粋存在から繰り広げられるところの、この私という自我と、これという対象といった二つの〈これ〉が主要な区別として現れている。
この二つの主要な区別されたものは、私たちが反省してみればわかることだが、どちらも直接的に無媒介なものとして感覚的確信の中にあるだけではなく、実は同時にお互いがお互いによって媒介されたものとしてある。
自我は対象を待って確信を持ち、対象も自我を待って確信されているのである。」

(ヘーゲル著『精神現象学』「意識」の章より)
(つづき)

「感覚的確信の本質たる純粋存在と、これ自身の展開という区別――すなわち感覚的確信の純粋の無媒介なる直接態と、媒介されてあるものという区別は、私たちが作ったのではない。
私たちはこの区別を、感覚的確信の中にただ見つけるだけである。
だからこの区別は、今規定した通りに受け取るというよりも、感覚的確信の中にまさにある通りのものとして受け取られるべきである。
感覚的確信においては、この二者は、一方は単純な直接的存在者、実在、そして対象として措定されているが、
他方は、決してそれ自体であるのではなく、もう一方を基体として初めて有るという非本質的なもの、媒介されたものとして措定されており、
自我および知が後者であって、これらは対象を対象があるがゆえに知るわけだが、自らは有るわけでもないし、有ることもできない。
だが、対象=真理=実在は現に有るのだ。
対象は知られようと知られなかろうとに関わらず現に有るものである。
対象は知られずともそのまま有るのだ。
だが知は、対象がなければ存在しえない。」
>>[9]



Alles,was ist,ist vernuenftig!
アルレス ヴァス イスト イスト フェアニュンフティヒ


全て、存在する物は理に適って居る!



此短い一言にHegel哲学の全てが凝縮されて居る!
>>[012]、どうもありがとうございます! お陰で、確かに日本語で受けとめることができました。
しかし問題は、さらにこの文章を日本語にされてもさらにいかに受けとめるか、ですね。

親に虐待されている子や、同級生から酷いイジメにあっている子供や、飢えや殺戮におびえる人たちが、この文章をどういう意味のものとして受けとめるか。


理と言う物は、万人を幸せにする為、存在して居る訳では無く、其自体として存在する。例え如何なる事が起きようと其は理に敵って居る…と言う事と、道義や正義や人間性に照して如何か?と言う事は別問題!



[6]は有名なミネルヴァの梟の一節!

他の生物が自然に行って居る、(摂)理を受入れると言う行為を、人は意識的に行わねば成ら無い。勿論、認識したからと言って理を曲げる事は出来無い。然し、運命と和解する事は出来る。其が人間 に与えられた唯一の救い、慰めで有る…と、私は解釈して居ます!
>>[014]

すなわち、そうなる理由・原因があってそうなっているのだ、理由・原因なしにそうなっているのではない、という意味でしょうか。
>>[015]

>運命と和解する事は出来る。其が人間に与えられた唯一の救い、慰めで有ると私は解釈して居ます


運命というか、起こってしまったことについては、その原因・理由をしっかりと見渡せたなら、「あ〜当然だなあ。こういう結果が起こるべくして起こったんだなあ」と納得が得られるに至りますね。
しかしこの納得と結果の受け入れ、結果との和解はそこで終わるものではなく、
「ではいかに行動したら、いかなる結果を起こせるか」というさらに積極的な生き方の基礎ともなるものだと思います。
>>[17]


然し、次の段階では又、矛盾が生じ、試行錯誤の犠牲者が生れ、是は永遠に繰返される!
>>[019]

もちろん、今ある状態への深い納得が得られたからといって、人間は完璧にあらゆる因果関係を見渡せるわけではないし、できることは常に制限されたものであろうから、現実の行動とその結果は常にすったもんだしたものとなる。
しかし、だからといって現実からは手足を引っ込めて観想にだけ浸るひきこもり的ニヒリズムに落ち着くのも間違いだと思います。

運命への深い納得と、現実への制限された関わり合いを、ともに自らの中に統合できることこそが尊いのではないでしょうか。
>>[20]


Nihilismと言うのは、Schopenhauerとか仏教とかグノーシス主義の様に実在世界を否定して解脱を望む思想で、Hegelは単に善や幸福の予定調和を否定して居るだけです!
>>[021]

予定調和も、現実世界からの脱出もない以上、現実の一歩一歩の歩みがとても大事だということでしょうか。
「悟性というものは、規定し、またその規定に固執するものだ。
これに対して理性は、悟性による諸々の規定を無に解消してしまうものである。
したがって理性は、否定的で弁証法的だ。
しかし理性はまた、普遍を産出して普遍の中に特殊を把握するから、肯定的でもあるわけだ。
一般に悟性は理性とは別のものだと考えられているし、また同じように、弁証法的理性は肯定的理性とは別のものだと考えられている。
しかし、理性とは本当は精神である。理性は悟性的理性とか理性的悟性などよりも高次のものであるところの精神に他ならない。
精神は否定的なものであり、弁証法的理性と悟性の両者の本性をなすものに他ならない。

精神は単純な存在を否定して悟性の規定的区別を措定する。
さらに精神はこの区別を解消する。
その意味で精神は弁証法的である。
けれども精神はこうした結果としての無に落ち着いてしまうものでもなく、無の中にあって同時に肯定的でもあるから、最初の単純な存在を回復することになるのである。」

(『大論理学』第一版の序文より)
>>[22]


まあ、大概は良かれと思って事を為す訳ですが、何が正しいか前以て判ら無い以上、其鬩ぎ合いの中で、悲惨な出来事も生じるのは歇むを得無いと言う事です!
>>[024]

悲惨な出来事はなるべく起こらないような生き方をしたいものですね。






Die Knospe verschwindet
in dem Hervorbrechen der Bluete,


und man koennte sagen,
daβ jene von dieser widerlegt wird,


ebenso wird durch die Frucht
die Bluete fuer ein falsches Dasein
der Pflanze erklaert,


und als ihre Wahrheit
tritt jene an die Stelle von dieser.


Diese Formen
unterscheiden sich nicht nur,


sondern verdraengen sich auch
als unvertraeglich miteinander.


Aber ihre fluessige Natur
macht sie zugleich zu Momenten
der organischen Einheit,


worin sie sich
nicht nur nicht widerstreiten,
sondern eins so notwendig
als das andere ist,


und diese gleiche Notwendigkeit
macht erst
das Leben des Ganzen aus.








Das ist aus der Vorrede der
“Phaenomenologie des Geistes”
und ist auch
eins der beruehmtesten Worte
in seinen eigenen Metaphern,
worin sein Gedanken
des Organismus dargestellt ist.


Wer anders als Hegel koennte
frueher solch eine Ausdrucksweise
gebraucht haben?

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