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フリードリヒ・ヘーゲルコミュの他人と仲良くする仕方

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論理というのは、通常、二値論理のことを言う。

真値か偽値かという二つしかないとする大前提に立って、白黒ハッキリさせようとする、論理である。

ところが、このような論理によっては割り切れない、現実も、ある。

たとえば、自分と違う考え方の持ち主が現れたとして、一方が正しければ他方は間違っているはずだという大前提に立って、白黒ハッキリさせようとして言い争ったとすれば、やがて、どっちも真理の一面を突いていると同時にどっちも間違いを含んでいて、どっちもグレーだった、ということが判明するだろう。

どっちかが全面的に正しくてどっちかが全面的に間違っているということは、実際には、まずないからだ。

このように、もしも両者の言い分が半面づつの真理であるとすれば、両面が縫合されることによって和解が成立するまでに、自分が全面的に正しくて相手は全面的に間違っているという最初の思い込みが訂正されるだろう。

和解が成立するその都度、今度こそ自分は全面的真理に辿り着いたぞ、という傲慢な思い込みが発生するけど、色んな他者たちと出会って対話すれば、いつもその鼻っ柱はへし折られて、自分を含めて人は皆、どこまで行っても、白でも黒でもない、グレーなのだ、ということを、思い知らされる。

科学が想定して目指す所にしているような、黒という部分を含まない純粋な白は、キリスト教の神を信じる西洋人たちの幻想にすぎないのだろう。

その意味で現実は、全体の中にそれと同構造の部分が入っているという無限の入れ子構造だから、いくら細分化しても黒を含まない純粋な白を抽出できることはありえない。

そして人は、白か黒かしかないとする二値論理を乗り越えたところに、中間値としてグレーもあることを認めて、第三の道に、妥当性を見出すのだろう。

対立し合っていた両者がじつは両立するような、一段高い視点が確立された暁には、矛盾を許容しない二値論理は超克されて、矛盾し合っていた二値を統一的に捉える、第三値という妥協点に、到達するのだろう。

このように、敵か味方か、正義か悪か、という二極しかないとする、二分法は、いずれ克服される。

多くの人々との対話は内面化されて、一面的だった見方が多面的になってゆくのだろう。

多種多様な人間がいて、人それぞれの正しさがある、という認識を踏まえた、多値論理という道もある。

白から黒までグラデーションで虹色のようにつながっているとしたらいくらでも多くの値へと細分化できるからだ。

二値論理と三値論理と多値論理という、論理学上の諸立場を挙げたけど、他にも色々ある。

人間の数だけ論理があると言うことさえできるのかもしれない。

コメント(12)

自我と自己主張を持った一人一人が、お互いの自由な主張と人格を認め合いながら意見を交わして、それぞれに妥協し合ったり、よりよい考えを見つけたりしながら個人においても公共においても変革と前進を実現してゆくというのが、ヘーゲルの考えた近代国家の姿だったように思います。
私たちはヘーゲルの深い原理的な思索からまだまだ学ぶべきことは多いように思います。
>>[1]
このトピで展開した議論の論理は、ヘーゲルの弁証法というより、それを方法として採用しつつも、近代的理性に対するラジカルな否定を突き付ける、アドルノの否定弁証法のほうに、近いのかもしれません。
ヘーゲルの深い思索から学んで、それを踏まえた上で、それを乗り越えよう、ということです。
自己が、対話を通じて外界の他者たちをどんどん内面化してくことによって、一面的だった物の見方をどんどん多面的にしてく過程を、精神発達の発達段階を、描き出して見せた、ヘーゲルの精神現象学から、まだまだ学ぶべきことは多いと思うけど、世界は無限に多様な局面を示すテキストだから、有限な時間をしか生きられない個人が、現実の真実をどこまで追求しても、全面的真理に辿り着ける時がやってくることはありえない、という原理的考察を抜きにして、絶対精神へ至ろうとする、ヘーゲルの弁証法は、他者の他性への配慮を決定的に欠いてる、という批判もまた、的外れなものではない、と思うからです。
>>[2]

確かに私たち一人一人は限られた時間しか生きられない。だから個人がすべてのことを自分の中に包摂し尽くすということは常にかなえられないままに終わる夢であり続けるのかもしれない。
そんな中で、「私の理性はついにすべてを呑み込み終え、最終的な答えに到達したのだから皆、従いなさい」という態度(ファシズムや社会主義による独裁)に出たならば、20世紀の悲劇のようなことになりますね。
しかし、僕はヘーゲル哲学の可能性は必ずしもそういった態度を示唆するところにあるものではなく、別の解釈にこそあるようにも思います。
>>[3]

確かに僕たちの中の最も優れた人でさえ常に個人的限界や時代的限界をしょっているんだと思います。また、おっしゃるようにどうしても人間ではたどり着けない秘密の真理というものもあるんでしょうね。
私たちはそれこそ知りうる限りの真理、利用できる限りの真理に満足して、それを用いながら、少しでも自分の人生や人々の暮らしがよくなったらいいなあと願って生きているのかもしれません。
>>[3]

目に見える通りの世界が存在するという考え方は、素朴実在論と言われていて、近現代の物理学によって否定されている考え方です。
たとえば、赤いリンゴは存在するかと言えば、赤という色は、近代に完成された電磁気学的によれば、一定の波長領域の電磁波が、物体を構成する原子分子に当たって跳ね返ってきて目に入って網膜像を結んで電気信号になって脳に送られて視覚野で、赤と解釈されているにすぎないわけだから、ヒトの脳に依存している主観にすぎず、客観的実在ではないわけです。
ヒトにはヒトの世界があるのに対してダニにはダニの世界があると主張する生物学者ユクスキュルによれば、ダニの一種であるマダニは、嗅覚と触覚と温度感覚しかなくて、世界を視覚的に捉えるということがないから、赤という色は、あくまでもヒトの脳に依存している主観的な性質であるわけです。
ヒトの脳にとってのみ存在する、色は、脳のないダニにとっては存在しないわけです。
じゃあ温度は存在するかと言えば、温度という物理量も、物体を構成する原子分子のぶつかり合いながらのてんでばらばらな運動の激しさが、温度として触覚によって解釈されているにすぎない、という意味で、主観的な性質である、ということが、やはり近代になって熱力学の完成と共に、判明したわけです。
このように、物体という客体から色や温度を始めとする主観的な諸性質をどんどん剥ぎ取って行けば、最終的に物体は残らず消えてしまう、というのが、フッサールやマッハによって創始された現象学の考え方です。
現象学によって、主観と客観の対立が乗り越えられた、と言われるのは、すべての客観が同時に主観であるということで、言い換えれば、ヒトの脳にしか心はないのでなく脳以前である最初からすべての物に心はあるということです。
このように考えれば初めて、「観念論」と「唯物論」という認識論上の立場の対立も乗り越えられます。
すなわち、観測が物を生み出しているのだから観測以前からは物は存在しないとする「観念論」と、ヒトの観測以前から物は存在するとする「唯物論」は、すべての観測対象が同時に観測主体であるとすれば、両立するのです。
観測とは、量子力学と相対性理論という二大現代物理学の定義によれば、お互いに相手を観測対象とする観測主体同士の相互作用として、現れるものです。
つまり、まず物と物があってついでそれらが作用し合うのでなく、一つの相互作用が物と物という二つを生み出している、というふうに、「観測という行為ありき」である、とするのが現代物理学の考え方で、「世界は実践の総体である」という言い方がされることがあるのは、このような意味でです。
未分の一つが再び一つになろうとして努力する二つへと常に既に分裂しているという現代物理学の考え方は、陰陽思想として東洋では昔から先取りされていた考え方の焼き直しであるわけだけど、「一即二」とも言える、このような考え方に則って、語り得る現象界と語り得ない物自体界という二つへの線引きは不可能である、と、僕は考えています。
理性の限界内と限界外の領域確定はできない、ということです。
内から外までが虹色のようにグラデーションでつながっているということで、内に外を包摂し尽くすということは原理的にありえないということです。
>>[4]
たとえば世界を数式記述する物理学は、現代においては量子論と相対論という二つの理論から成り立っていて、二つの相互に排他的な理論が一つになれることはありえない、というふうに、世界は相互に排他的な無数の解釈を許す不思議なテキストであるわけですけど、ヘーゲル哲学はこのような他者の他性への配慮を決定的に欠いている、というアドルノの批判は的外れである、と仰りたいのですか。
>>[8]

自由と必然の対立も乗り越えられねばならない問題ですね。
もしも心が物理過程のうちの脳生理過程の随伴現象にすぎないとする脳科学の大前提が正しければ、原理的に心に自由意志はなく、心は物で出来た世界の事態の推移に何らの影響も及ぼせないはずだけど、実際は、学校に遅刻しないために足を動かして走ったり、授業中に手を動かして挙手したり、というふうに、心が身体という物体を動かしています。
このように、心という意志が物を自由に動かしているという自由意志の問題は、脳以前からは心は存在しないのでなく、最初からすべての物に心が存在する、という存在順を、仮定すれば、初めて解決します。
つまり、自由意志で動いているままが科学の法則的必然に従っていることになる、というふうに、自由と必然は両立するのです。
人間にだけでなく素粒子にもやはり自由意志がある、ということになりますね。

さて、陰陽二元という考え方は、デカルト的な物心二元論と違い、未分な中性的一元が再び一つになることを目指して努力する物心二元へと常に既に分化している、という意味で、一元論でもあるわけですけど、このような「一即二」という考え方によれば、心とは、己に内包している物を、己とは異なる物として、つまり異物として、常に既に異化している、という自己外化のことで、内でも外でもない中性的一元が同時に内と外という二元に分かれているのです。
このような、物象化にこそ、心の本質があるとすれば、心が外にある物を己の内に回収し尽くすということはありえない、という意味で、常に既に己を対象化しているという心から物への「ずれ」が付きまとう以上は、知がヘーゲルの想定しているような絶対知へと至ることはありえない、と僕は考えています。
理性の光が照らしている範囲内である陽から、理性の光が照らしていない範囲外である陰までは、虹色のようにグラデーションでつながっている、つまり明るみから遠ざかっていくにつれて漸進的に暗がりになっていく、ということです。
意識だけが心であるのではないとするフロイトの無意識の理論によれば、心の最内奥が自己疎外されている、というふうに、内外という反対者は転化し合うわけですけどね。
>>[11]
>ただ「科学」というからには哲学的な思弁に留まらず実験・観測で検証可能でなければならないのが基本ですが。

もしかして科学は形而上学的な思弁ではないという思い込みがあるのですか。
科学は一般に、直接観察によって確かめられる純粋に形而下学的なものではなくて、間接的な状況証拠の観察から出発する正しい論理的手続きによって導かれた結論であるという意味で、形而上学的な思弁です。
量子力学の多世界解釈や相対性理論のミンコフスキー空間は形而上学的な思弁以外の何物か、大昔の恐竜やミクロの素粒子は目に見えるのか、などなど、具体的な例示によって、形而上と形而下の線引きが不可能であることが分かります。
ミクロの素粒子のマクロの物体との相互作用のことを量子力学で観測と定義していることから分かるように、現代の科学においては、観察や観測という言葉の意味の内に、形而上学的な思弁も内包されているわけでして、科学は現代においては一般に目に見えないものについての形而上学であり、目に見える通りの形而下的世界が実在するという考え方は素朴実在論として否定されています。
また、もっと分かりやすい例を挙げれば、他人の心の存在を想定する、精神医学や脳科学や認知科学は、自分にも心があるから他人にも心があるだろう、という、心に関する形而上学的な思弁だけど、これらは科学です。
であるとすれば、脳以前である最初からすべての物に心がある、という、心に関する主張にも、科学的主張としての資格がある、と言えます。
少なくとも、脳が初めて心を生み出したとする脳科学において大前提となっている無根拠の信念よりは、根拠がある、という意味で、科学的に正しいです。
このように考えてくれば分かるように、脳にしか心はないという考え方は、客観的事実でなく科学者集団の共同主観である、という意味で、一つのパラダイムです。

>思考を弱めれば無意識のうちの同化されるのだけれども、ふと気がつけば異化する。
>「絶対」という言葉が既に、数学の極限のようにす実際には到達不能で限りなく近づいていくだけだというニュアンスを感じます。しかし、ありえないかというと、これは悟りの境地のようなものでしょうか。

ひがしかぜさんの立場は、どういうものですか。
赤子時代の言語以前の純然とした主客未分のうちに絶対知があるという立場ですか。
悟りを無垢な赤子時代に帰ることとして捉える立場ですか。

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