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最新邪馬台国コミュの邪馬台国の場所はどこですか?

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今は、近畿説が有利というか、ほぼ定説化してます。しかし、
南を東に変えないといけない。一方、北部九州説は、距離
的に短いとされる。はたして、邪馬台国はどこにあったの
でしょうか?

コメント(217)

>177 自然科学者?の弁

名前判明:生物学者・長沼毅氏(細菌学)でした。
偶然、NHKで再放送していました。

紀元前200年には多くの大陸に住んでいる渡来人が日本に渡って来ているようです。
NHKの番組日本人はるかな旅では1万年以上昔から縄文人が樺太北海道から日本に渡ってきて全国各地に住み始めたそうなので、日本全国に縄文人は住んでいました、渡来人も紀元前2世紀から住み始めて縄文人と仲良くなったので濃尾平野以西までは渡来人も完全に日本の国に住んでいたようです。
紀元前2世紀には青森北海道まで日本国全土に人々が住んでいたのに、西暦150年頃に九州の宮崎か鹿児島か川内か知らないが比較的小さな国を大きな魏の国の人が大々的に報道するだろうか。
個人的には邪馬台国は畿内だったと思います畿内の古墳で知られてない事が有るなら早く発表してほしいものです。
魏志を読む限り、近畿は、無理です。どう書き換えても近畿をしめさない。
橿原研究所は、予算もらうためおおげさに、そして、邪馬台国に強引に
むすびつけて発表してるのが現状でしょう。
はじめまして。素人ながら自分も畿内説支持です。

魏志倭人伝は細部の記述が曖昧すぎます。

考古学的にはほぼ畿内で決まりですし、九州説は支持しかねます。
魏志をよまないで語る人おおいですね。まあ、強制はできませんけど。
考古学はわかりません。近畿できまりならそれでいいでしょう。
魏志は陳寿が見たものではなく過去の文献や他者からの伝聞を総合して書いたものでありまして、
甚だ曖昧な文章なのです。まあ魏志を鵜呑みにしても
邪馬台国は九州だとも読めませんよ。

そう言えば、あんまり信憑性のない雑誌に掲載されていたのですが、アメリカのFBIの捜査に協力する超能者・マクモニーグル氏が透視したところ、卑弥呼の住んでいたのは近畿と山口の二カ所だそうです。

何でも山口で息を引き取り、そこに塚を作ったとか。

あせあせ(飛び散る汗)すいません。レベルの低いコメントで。

(^-^;)


スルーして下さい。

ヤラセニーグルのことですかw

透視でなんでも分かればとっくにビンラディンも捕まってますよね。
魏志を読めば、九州ですよ。1度よまれるといいですよ。非常に詳しく
かかれています。読み方がわからなければ、ご質問されれば、おこたえしますよ。まあ、岩波文庫は、事前にお読みください。
いやいや、自分も何度か読みましたが、投馬国への水行二十日、邪馬台国への水行十日陸行一月を
合理的に説明できない限り九州も無理ですよ。昔から言われてる定番のことですが。
放射説や帯方郡からの総日程説もこじつけにすぎません。
水行二〇日が何キロメートルかは不明であるが、隋書を参考にすると倭人の距離単位と考えられる。
邪馬台国への陸行一月の起点国名、方位がない。一大国から伊都国では上陸国名がある。
陳寿は、省略したのは連続式に読むのではないことをしめしている。つまり、あるいは式に読む
のである。投馬国から邪馬台国へいたるには、南に水行すれば、一〇日、陸行すれば一月。
邪馬台国を示すのが目的で起点の国だけ示したのに、ここで2つの方法を示したのは、当時の
ものさしを示すためと考えられる。つまり、水行一〇日は、陸行一月で三倍である。さらに、
九州の東海岸で南に水行も出来、陸行もできるということは海岸が南北になっている。今の
地図で調べると延岡市から宮崎市の日南海岸でそれを測ると七五キロメートルになる。
つまり、陸行一月は七五キロメートルである。不彌国から邪馬台国までは水行三〇日であり、
水行一月であり、陸行三月を意味する。行橋から宮崎市までの直線距離は、内陸部に
なるが、二〇〇キロメートルである。七五キロメートルの三倍は二二五キロメートルで
あり、国東半島迂回を考えれば妥当である。
邪馬台国は、『後漢書』から一を台にした。
隋書によれば、
夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。

南北より東西が長いので、九州ではなく近畿から西日本が統一されたと考えられる。
南北は、紀伊半島から若狭湾より、九州の南北が長いので、この三月行は、九州の
南北と考えられる。九州の南北は三〇〇キロメートルである。なお、福岡市から
奈良までの直線距離は約五〇〇キロメートルである。つまり一月行は約一〇〇キロ
メートルと言える。
つまり魏志の陸行一月は七五キロメートルと言う仮説は、隋書で正しいと証明された
と言える。
魏志は250年ごろで、隋書は600年ごろであるので数値がぴったりとはあわないが
特にとっぴともいえない。妥当とみるのがよい。
携帯からなので詳しくは書けませんが、陸行一月が75キロとのご指摘、
到底納得できません。一日2キロちょっとしか進まないのはいくら古代でも不自然すぎます。

また帯方郡から女王国まで12000余里という記述もありますし、
これをそのまま信じればむろん畿内でもないですし宮崎にも届きません。
つまり松本清張説をとり、遠くにあるという意味での使われ方です。

次に、投馬国と邪馬台国だけ日数表記な点。近くにあるなら里数表記のはず。
つまり魏の使者は伊都国までしか行っておらずあとは伝聞です。
なぜなら邪馬台国は遠くにあったからです。九州ではありません。


数冊本読んだ程度の素人の意見ですが単純にこう思います。
納得されるかどうかは、自由です。
私は、魏志と現在の地図から陸行1月は75kmという仮説を提案しました。
それを隋書でうらずけたので仮説でなく事実になったのです。
魏志のどこに1日は24時間だと書いてあるのでしょうか?不彌国から投馬国
まで20日ですが、船は夜は港にはいります。20回も寄港した国が何故
かかれないのですか?投馬国はかかれてますが。

12,000里は、西の大月氏に対して東の倭国として呉をけん制してる
ので、12,000里の数字は信用してはいけません。郡から狗邪韓国まで
7,000里ですが、これではインド程度の大きさになります。

日数:188に引用した隋書をもう一度みてください。倭人の単位といえます。
伊都国までで行ってないというのは、あなたの考えです。文献に書いてあること
ではありません。邪馬台国は遠くにあったというのも、根拠のないあなたの
考えです。九州ではないというのもあなたの根拠ない考えです。文献で
しめさずに考えをのべるのなら、他に邪馬台国のコミュあるので、そちらへ。
文献で邪馬台国が宮崎市に有ると仮定しても

発掘して何も出土しなければ洒落にならない。

畿内なら発掘すれば何かが出土して大和朝廷研究の手掛かりになる。
発掘もしないで、何もないといいうのは、すばらしい見解ですね。天才
だとおもいます。天孫降臨が近畿になってる理由がわかります。近畿の
さらなる発掘たのしみですね。
素人意見ですいませんが、邪馬台国はヤマトのことで畿内にあった可能性大でしょう。

しかし女王国と邪馬台国が別物だと考えれば、神功皇后が宮を北九州に置いたときのように
女王国は九州にあった可能性というのも残ります。つまり投馬国と邪馬台国の記述と不弥国までの記述の間に連続性はなく、
前者は単に情報として入れただけという考えです。日数表記になってる部分からも
そうした節があります。稚拙な文章ですいませんが可能性として自分はこう考える次第です。
普通研究の前にいままでの研究読んで疑問点をみつける。つまり、あなたが150の頭で、私が50だとしたら。0から始めると、あなたは150のレベルの結果がでます。しかし、いままでの研究を読んで、自分の考えをたすと、いままでが1000だとすると、1050の結果がでる。150対1050です。
今までの研究読むの大変なので岩波文庫の青色の魏志を読まれるといい。
値段500円くらいです。この本から出発するといいです。アマゾンで買えます。
ちなみに、邪馬台国と女王国は、同じです。邪馬台国という首都は、1回しか書いてはいけないのです。中国の表記方法です。洛陽だったかな?何回でてきてるかな?
そうですか、まあ一つの可能性としてあるかなと思いましたが
やはり少し無理がありますね文脈上でも。しかし宮崎が女王国では
女王国の東の海渡ること千余里又国ありという文章において矛盾が生じませんか?
宮崎の東は海です。しいていえば東北でかろうじて四国。千余里以上かかる気もします。
さらにその国の南にも国があると書いてありますし宮崎ではこの魏志の部分において苦しいかなと思いますが
いかがお考えでしょう?
東は、海。そのとおりです。私の説の弱点です。
魏志倭人伝の全体を箱に入れてゆすると。一番空白(矛盾)の少ないのが、邪馬台国宮崎県説なのです。
たとえば、甘木説では、海じたいがない。吉野ヶ里も東には、海もない。近畿の奈良説も東海がない。1箇所ずつつめていくのもいいのですが、全体をながめながらも必要。前にも書いてるけど、天孫降臨が宮崎県になっている。神武天皇も宮崎から出発している。大和政権の前に宮崎に何かがあったことが考えられる。ここらへんも、考えて、魏志を読むと、宮崎説もっとも妥当と思いませんか?
その考え方でしたら自分は山門郡のほうが可能性が高いと考えますが。

万二千余里も文字通りの距離と考えていいですし、東に海もあります。
別にすぐ東に海がある必要性はないと考えます。海を渡った国とは四国のことでありその南の国も四国、ここまで女王国から四千余里ですし、
山門郡からの距離に近いものがあります。宇佐では距離がもっと短い気がします。
それから山門という地名、邪馬台に通じるものがあります。
矛盾点は水行陸行の点ですが、これは郡から女王国までの総日程として挿入されたと考えればよいわけです。

以上のことから矛盾点が少ないのは山門郡のほうがふさわしい気がいたします。
まあ九州最有力地ですしここではつまらないかもしれませんがやはり九州ならここかなと。
ちなみに僕は畿内説のほうを支持してますがねw

携帯から乱文乱筆ですいませんが自分の考えは以上です。
付け加えで女王国の南にクナ国があるのでクナ国は熊本と考えると位置関係もしっくりきます。
山門説は、甘木よりかなりいい考えですよ。明治ごろからあるのでは?
同じように近畿も古くからありますね。振り出しに戻りましたね。
クナ国は、女王国の南でなく、女王の境界の南です。その南の、そのは、
奴国をさしてますので、奴国は、博多ですから、クナ国は、熊本で、説
一致しましたね。
まずもって魏志の記述から矛盾の少ないものを正解だとする思考が僕は誤りだと思っております。

我々が目にしている魏志は原本ではなく、何世代にも渡り複写されたものですし
その過程で誤字や文章の欠落等のあった可能性が高いです。
なのであのようなつじつまの合わない文章になった可能性もあります。

つまり魏志自体が矛盾を含んだ文献だということです。そこから正解を読み取ろうとしても無理です。

やはり僕は状況証拠から邪馬台国の場所を推測するしかないと思っております。となるとやはり邪馬台国は畿内巻向です。
当時の日本の中心地は巻向ですしここが一番可能性の高い場所です。
何度もかくけど、三角縁の景初3年の鏡は、日本製であり、日本製が近畿中心にでることは、邪馬台国は、近畿ではないことを証明してる。考古学的にも違うし、魏志の記述もあわない。邪馬台国近畿説の可能性は0%です。学問的なことは、無視されて近畿説信じるのは自由ですが。
三角縁神獣鏡に関しては中国から出土してないので
たしかに日本製の可能性が高いですね。景初4年という本来ありえない年号の鏡もでてきているので。

その問題よりも当時畿内が九州をコントロールできていたかのほうが重要なのです。
巻向からは東海、吉備、讃岐、丹波、出雲、そして北九州の土器が出土しており
当時の日本の政治経済の中心地であったことが確認されていますし、
年輪年代法でも巻向が栄えてた時代と卑弥呼の時代は一致しています。

また高地集落も西日本全域に渡っていますし、倭国大乱が九州限定ではないことがわかります。

つまり九州の一国が魏に朝貢するなど考えづらいのです。すでに三世紀の日本は
畿内が九州をコントロールできる状態にあったのに。

まあすでに邪馬台国論争など畿内で決着してますしね。
問題はそれより大和朝廷と邪馬台国とのつながりですよ。
三角縁は、景初3年とあります。魏の皇帝は、3年1月1日に崩御されてます。
つまり3年は、喪中なのです。中国は、1年喪です。このとき、朝貢したら
死んでよかったですねとなりころされます。また、行ったとしても、お土産に
喪の年号は出しません。正始元年までまってから、鏡をおくるはずです。
つまり3年銘は、日本製を証明してるのです。
また、森浩一さんもおっしゃってますが、学生の頃、現地説明会いって見て
きたそうです。三角縁の鏡が出土してた。そして紐見たら、鋳型の砂が入って
て、イバリ(鯛焼きのはみだしたようなもの)がついていた。今、兵庫の
博物館にありますが、イバリはとられ、砂もなく綺麗にして展示されてる。
いくら本物みてもいまからではわからない。その研究いくらしても、無駄。
考古学では邪馬台国を論ずるのは、無理です。岩波文庫読んでから、考えて
ください。近畿で確定ならそれでいいですから、もう1つあるはず、邪馬台国
のあつまり。そちらへ行ってください。
邪馬台国の場所はどこですか?というタイトルだから

三角縁神獣鏡を作る技術を日本人が習得出来た事は良い事だと思う
1950年代〜の日本と同じように、当時の日本人も製造が得意だったのだろう。

「最も古い国道・竹内街道」

竹内街道は最も古い街道だそうです、偶然見ていたNHKで昨晩放送されていました。
港→堺市金岡→松原市岡→羽曳野市古市→太子町山田→葛城市長尾→橿原市今井を
結んでいたそうです。
今日NHKの総合、21時から三角縁テレビでするみたい。
管理人様、皆様
はじめまして…<(_ _)>

この場で挨拶とさせていただきます

魏志倭人伝を読みとる限り、邪馬台国は九州でしかないと思っています。
今では、出尽くした感が多いですが
本当に邪馬台国論は出尽くしたと思いますか…

この場をお借りして楽しくお話し出来たら良いと思っています。
宜しくお願いします。

みなさまはじめまして。

こういう場を与えていただきまして管理人さんありがとうございます!

邪馬台国が存在した場所について私の見解を…

魏志倭人伝を何回も読む限り、私の個人的見解としては
邪馬台国は畿内しかないと思っています。

あれだけの規模の大国が九州で成立できたとはオコメの収穫(食料調達)
から考えても到底ありえないことだと思います。

この時代の食料がお米でなく、水産物であれば逆に九州説が有利ですが…

一大卒がおかれた伊都国の何倍も大きい邪馬台国

距離の話もそうです。 意図的な方角の間違いは当時の世界情勢を鑑み
れば説明できます。

敵国にこの報告書を読まれてしまうことを考えて、わざと間違った方角を
記載したと考えれば納得できます。

実際、報告書通りに東日本が南北に延びる古地図が朝鮮(魏国同盟に属す)
などに伝わって存在していることもこの説を補強します。

邪馬台国が敵国の呉の背後に悠然と控えているよう思わせる。そう呉に思わ
せれば魏志倭人伝の「存在意義」が浮かび上がります。

魏志倭人伝は魏と呉が血で血を争う弱肉強食の世界に書かれた官僚のペーパー
とすれば、「至る」と「到る」の使い分けをみても相当に優秀な報告書であると思います。
畿内というか伊勢遺跡を中心に琵琶湖、丹後、畿内、尾張と伊勢。
この円の中の中心が纒向遺跡で尾張と伊勢を中心に吉備、越、出雲、近江の土器が発見されていますし、桃の種が国内最高のダントツの2000個発見されました。桃はまじないに使う果物です。

こうみる時代的にも合致する纒向こそ卑弥呼都かと思いますが、
畿内説になった瞬間に

東方の海の向こう1000里の国がどこにもなくなり、狗奴国も誰の駿河のことか?となり暖かいからみなはだしであるというのも
畿内は寒いだろう、冬はと思ってしまいます。

だから有明海と筑紫平野が邪馬台国です!
とちょっと断定気味に。
福岡平野と筑紫平野は広い。関東平野に匹敵するくらい広いです。福岡から熊本八代に至るまでの平野は。

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