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小説家たちの酒場コミュの第二章 リング

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 1週間たった朝、枕元に黒い首輪が転がっていた。
 この1週間、私の周りでは奇妙なことばかり起こった。あの男だ、私を不運に巻き込んだのは。あの得体の知れない男はまたやってくるのだろうか。

 さっぱり常連客のつかないことなどよりもあの男のことが気になって仕様がないのだ。私はガラにもなくイライラしていた。

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遠くから音が聴こえた。

そこへ行けば人がいるかも知れない。

私は音のする方向へ走った。
靴を履いていない足の裏は、アスファルトで傷だらけだったが、もうそんな事は気にならなかった。

服も泥だらけになってしまった白のネグリジェの上からムートンのコートを羽織っているだけだった。

今頃病院では私が居なくなった事で夜勤の看護士達が騒ぎ出した頃だろう。
だけどあんなところに帰る気は毛頭なかった。
ベッドにしばりつけられるのも、看護士に見張られてする入浴も私には地獄だった。
延々と続くあの牢獄から私はやっと抜け出す事が出来たのだ。

だんだんと音が近づいてきた。

フルート?
こんなところでこんな時間に‥

どうしてかわからないけれど私を惹きつける音だった。
私は大雨の中佇み、演奏を終えた男を見つめた。
 どこからか、フルートの音が聞こえた。

 BARに近づくほどその音は鮮明になっていく。あのマスターが楽師でも雇ったのか、などと考えて、まさかと否定した。私の知る限り、あの店が繁盛していたことはない。というより「閑古鳥が鳴いている」と言う表現の方が正しい。楽師を雇うような余裕はないはずだ。楽師だって客のいるところでこそ演奏したいはずだった。

 BARにたどり着くと、みすぼらしい男がちょうど演奏を終えたところだった。ストリートミュージシャンだろうか。隣にはマスターもいる。周囲には聴衆も5,6人ほどいるようだ。野良猫も何匹かいるが、これを聴衆にカウントしていいのかどうか、よく判らなかった。
 とりあえずマスターに「特別ボーナス」を押し付けなくてはならない私としては、こういうイベントはなるべく避けたかった。自然と、彼らの視界に入らない場所からさりげなく様子を伺うような格好になった。

 観察していて、私の目を惹くものが二つあった。
 一つはフルートの男。あんまり堅気に見えない。私自身が堅気とはいえない商売の男で、トラブルこそを商売にしているからだろうか。私はこういうことに敏感だった。へらへら笑っているが、どこか隙のない挙動が気になった。
 もう一つは聴衆の中の一人だった。その女性は裸足だった。おまけにムートンのコートなど羽織っているが、その下はおそらくネグリジェか何かだということが少し離れたこの場所からでもはっきり見て取れた。どう見てもただの聴衆ではなさそうだった。

 「さて、足を止めてくれたのは計5人と3匹。どうにも微妙な数字だってのは分かるが、どうだい?」
 演奏を終えたフルートの男がやや得意げにマスターに言う。マスターはフルートの男と何かの賭けでもしていたのか。そんなことが私に判るはずがなかった。この状況を鑑みて判ることなど、ただ一つしかない。

(当分の間はトラブル続きのようだ、このBARは)
 「Englishman in New York」
  
 80年代のものだ。たしかstingの曲だ。フルートが使われているのは聞いたことがある。このガサツな男にフルートは不似合いな気もしたが、思いのほか演奏はよかった。

 客は…。呼べたようだ。店からキンバリーと白猫がでてきた。それと、見知らぬ女が一人…。ほかに足をとめた人間もいるようだが皆演奏が終わるとそのまま歩いていってしまった。白猫のお仲間もいたようだが、そいつらもどこかへ消えた。

 女はどこかから逃げ出してきたのか、着のみ着のままだ。足から血がにじんでいる。この雨の中、はだしでここまで来たようだ。コートは着ているがずぶぬれでカゼをひきそうだ。

 また面倒だなこれは…。私は額に手を当てた。
 
 「え〜と、あんた。今夜は泊まらせてやろう。ただし、一晩だけな。世話になりたかったらなまた明日客を呼んでみな」
 店のドアを開けて男を中へ入れた。
 「あ、それと…。そちらの女性を見てやりな、あんた医者のはしくれなんだろ?病人のようだぜ」
 
 女は何も言わず立ちつくしている…。

 「コートは脱いだほうがいい。中でこの女に渡しな、うちのウエイターだ。部屋もある。とにかく入りな」 
演奏が終わる少し前から視線を感じていた。だが、その視線を送っている者は巧みに己の存在が視界に入らぬようにしながらこちらを見ていた。
まあ、国は違えども同じ世界だ。そういったテの者がいてもおかしくない。最初はさすがに緊張の電流が俺の体中を駆け巡ったが、すぐにそれを解いた。敵意を感じなかったからだ。
演奏が終わって物の数秒で、その視線は感じられなくなった。

「ありがとさん。いい眼と耳してんな。一生モンの財産設けたぜ♪」

今夜は泊まらせてやろうと、はっきりとした店主の言葉に俺は狂喜乱舞する寸前に躊躇って、あくまでもゆるい感じに返事をした。手っ取り早くフルートを解体してケース共々鞄にに仕舞い込み、店の中に入る事にした。
これであのボロ屋のマイホームともお別れだ、未練なんてあったほうがおかしい位のあの場所とも。

(明日、本格的に客を呼ぶ為には何を弾くかな?)

レパートリーはかなり多い方だと自負している。慎重にその中からえりすぐりの曲達を選ぶつもりだ。
入り際に店主・・・いや、マスターに言われた通り、羽織っていたモスグリーンのコートを店のウェイターらしき女性に手渡した。茶髪が印象的だ。

「仲良くやろーぜ、お嬢さん」

コートを手渡す際に俺は彼女にウィンクして見せた。
緊張の糸を解すのは、こちらから歩み出る方が良い。
唯一見える階段を眼にし、上がろうとした瞬間マスターに呼び止められた。

「あ、それと…。そちらの女性を見てやりな、あんた医者のはしくれなんだろ?病人のようだぜ」

「あん?」

振り返ってみると、マスターの横に別の女性が立っていた。さっきの演奏を聞いてくれた観客の一人だ。よくよく見てみると俺より酷い格好だった。そしてその血まみれの足を見た時にマスターの言った事に合点いった。

「お安い御用だ。とりあえず治療は開いている部屋でさせてもらうぜ」

タオル、お湯、救急セットもくれ、と付け加えたらすぐにウェイターの嬢さんが渡してくれた。ご丁寧に俺のコートは置く場所が無いからとでも言うように早速地べたに突っ伏して雑巾の扱いを受けている。ははは・・・一応大切な物なんだから、もう少し大切にしてくれねーかな?
二階に上がって、一番奥の開いている部屋に女性を案内して、早速治療に取り掛かる。彼女は終始無言のままだった。

(お安い御用とは言ったものの、専門が違うんだよなあ。俺は歯医者で・・・・ま、素人よりは専門家だけどよ)

女性に一応確認してから足の裏を診てみる。重症というわけではないが、かなり酷い。長い距離を必死に走らなければ、痛みのせいで途中で挫折していただろう。

「こりゃ痛てーなぁ。ちょっと辛抱しろよ」

手当てをしている間も、女性は話さなかった。それどころか傷の痛みを訴える様な仕草も表情すらも皆無だった。

「さて、これで終了。包帯は毎日変えた方が良いな。・・・じゃ、俺は外の階段で寝るからよ、好きに休んでろ。マスターには泊まっても良いと言われたが、部屋をいくつ使っていいかまでは聞かなかったんでね。いまさら確認するのもメンドイ」

何か事情がある身の上なのだろう。誰だって同じようなもんだが。彼女の答えは期待しないで、俺は自分の荷物だけ部屋に置いてドアを閉めた。
部屋は階の一番奥にあり、階段の方まで行くには残り全ての部屋の前を通り過ぎる必要がある。俺は変わらぬ歩調で横切って言った。

ただ・・・ちらりと見えた部屋の片隅に転がっている黒い首輪が俺を捕らえた。その漆黒の色とデザインは一瞬であれ、俺の頭の中を自身の存在だけで満たした。それほどの印象があった。階段に座り、背を壁に預ける。すると、今度はさっき見た白猫が一階から俺を見つけているのが伺えた。

「お前もここの住人だったのか・・・よろしくな♪」

そう言いながら、俺の意識は霧がかった雪山の様に静かに曇っていった。アスタ・マニャーナ(おやすみ)・・・・。
どうやらここはBARのようだった。
だが客と呼べるような人間はいなかった。店主のような男とウエイターが一人、年は私より少し上に見えた。そして、さっきまで演奏をしていたモスグリーンのコートの男。


「あ、それと…。そちらの女性を見てやりな、あんた医者のはしくれなんだろ?病人のようだぜ」

演奏を聴き終えた人々も去り、私と白い猫だけが道に佇んでいた。

‥私の事か。

店主からの目配せで言葉も交わさぬままBARの中へと通された。


一刻も早く街を出たかったが、こんな夜更けにこの大雨、さらにこの傷だらけの裸足の足では到底無理そうであった。
話のわかる人達のようだ。誰も私の身の上については一切触れてこない。それともそういう人間の集まりなのか、BARには独特の雰囲気があった。
階段を登り、いくつかの部屋を横切り、一番奥の部屋へと案内される。

濡れたコートを脱ぎ、ずぶ濡れで芯まで冷えていた身体を部屋の中で十分に暖める。

さっきの楽師はどうやら医療にも携わっているらしい。
私の足を見ると「こりゃ痛てーなぁ。ちょっと辛抱しろよ」と一言だけ言い治療を始めた。

痛みなどなかった。私は黙ったまま男の治療をただ見ていた。
私の足には包帯が巻かれ、見るからに痛々しい有様になってしまった。

「さて、これで終了。包帯は毎日変えた方が良いな。・・・じゃ、俺は外の階段で寝るからよ、好きに休んでろ。マスターには泊まっても良いと言われたが、部屋をいくつ使っていいかまでは聞かなかったんでね。いまさら確認するのもメンドイ」


そう言うと男は部屋を出ていってしまった。

周りを見渡したが、随分長い間使われていない部屋のようだった。うっすらと埃が溜まり、人が入った形跡もない。
無機質なその空間で思う存分くつろぎ、身体を伸ばす。
時間が経っても眠気が訪れる事はなかった。


相当な距離を走ってきたはずだ。すぐには見つかりはしないだろう。だけど今夜は薬を飲まないと眠れそうもない。

私は部屋を出て数時間前に通ってきた廊下を今度は逆に向かって歩く。
階段の所でさっきの楽師が寝ていた。脇には外にいたはずの白い猫。よく見るととても特徴的な猫だ。
「ここの住人だったの?あんた。まぁいいわ、今夜はあんたの家をちょっと借りるわよ」
男を起こさないように小声でそう呟いた。
どうして猫になど話しかけているのかわからない。


男を横切る形で階段を降りようとした矢先、話し声が聞こえてきた。
その怪しい雰囲気に私は思わず足を止めた。
電話がかかってきた。
俺を「アリス」と呼ぶ電話だ。
もちろん俺は外見の通り、たとえ女のような名前であろうとも女ではないし、またそれを変換しようと試みている者でもないのだが、異議を申し立てたところでどうにもならないことはわかっているので、なにも言わない。
それよりも、
「……は?BAR?」
電話の内容はそこに行け、ということらしかった。だがそれだけではサッパリ訳がわからない。しかし、用件以上のことを言わないのもこの発信源の常だった。
そしてなにも言われなかったのならば、それ以外は好きにしてよい、ということなのだ。
「雨、じゃねぇかよ」
通信の切れてしまった携帯電話をもてあそびながらつぶやく。だが行かなければ行かないで、後々面倒だ。
玄関までぺたぺた歩き、ストライプの傘を持ち出そうとして、ふと首をひねった。
雨の降りは相変わらず、なかなかにひどい。
俺は傘も持たず合羽も着ないで、その中へと歩き出した。



洋服やら髪の毛やらがすべて身体にはりつくころ、俺はくだんのBARの軒先にたどり着いた。さすがに指先が凍えている。おかしな気を回した数分前の自分が呪わしい。しかも、俺がアーケードに滑り込んだとたん、雨の勢いが弱まった。
毎日この通りを歩くので10日ほど前に開店した店だということは知っていたが、ここにお客の来ているところなどほとんど見たことが無かった。それでも印象に残っていたのは「アルバイトと常連急募」などという張り紙がしてあったせいだ。同じ家業の友人が聞いたらふざけているのかと眉をひそめるだろう。
(客………か?)
硝子越しに中をのぞくと、マスターのほかに数人、人影が見えた。雨で曇っていてそれ以上細かくは見えないが、逆にこちらの姿もほとんど見えないだろう。
むしろ雨足が弱まったぶん、中の物音が聞こえる。硝子をよけて壁に背をあずけ、耳をすませた。行儀の悪いのは昔からだ。
「取り込み中………か」
中で交わされている会話に、唇の端がつりあがった。
 外に誰かいるようだ…。
 
 中には2階で寝ている女がひとり。
 階段で寝ている変わった男もいる。
 ウエイターが少し板についてきたキンバリー。
 あいかわらずぐうたれている白猫。

 この店もにぎわってきたが、客らしい客はいない。

 目の前に男がいる。やっと奴がやってきたのだ。
 
 「…この『リング』はなんだ?ただの猫の首輪じゃあるまい」
 
 1週間前、私は幻覚を見たのか。腕にはめたリングはたしかに消えたように見えたし、その腕の中から何か聞こえたのも事実だ。そしてリングをはめた左手でもったグラスは全て使いものにならなくなった。

 だが、これらは私の思い過ごしだろう。こんなことが現実に起こるはずがない。何か別のウラがある。おそらくあの猫のヤツも関係しているのだろうが。


 男は分厚い封筒を差し出した。
 聴衆たちも去り、BARの前が静けさを取り戻した頃、私はBARを訪れることにした。

 入り口に近づいたとき、窓際の壁に男が一人張り付いているのに気づいた。追っ払ってやろうかとも考えたが、あえて気づかなかったことにした。特に害がありそうには見えなかったし、懐の封筒さえ渡してしまえば私の用件は終わる。立ち聞きされたところで何の問題もないはずだった。

 BARの中には、マスターだけがいた。デルタもキムもいない。もう閉店なのか。さっきの男女はどこにいるのだろう。やはり二階か。
 マスターはしばらくの間私を警戒心たっぷりに見つめていたが、やがてカウンターの上に置かれた腕輪を指して言った。
「…この『リング』はなんだ?ただの猫の首輪じゃあるまい」
 私は返事の代わりに、懐の封筒を差し出した。
「以前確かに話したと思うが、今回の謝礼を支払えることになった。アンタはついてるな、こっちの要請を無視して、自分の腕に首輪を付けたのに、法外な金が手に入るんだから」
 マスターは封筒を受け取ろうとすらしなかった。それも当然か、私が差し出すものなら金の延べ棒でも金剛石の原石でも、この男はきっと受け取らないに違いなかった。
「安心し給え。それはただの首輪だ。ほれ、この通り━━」
 わざとおどけた態度を見せながら、私は黒い首輪を自分の左腕に巻きつけてみせる。何も起こるはずがない。電池交換でもすれば別だが、今やこの首輪は首輪以上の代物ではなかった。そして首輪と一緒に、分厚い封筒もカウンターの上に置いた。
「この封筒の中身も、ただの金さ。そう心配しなさんな」
 封を切り、中身を取り出してみせる。真新しい札束が間違いなくカウンターの上に姿を現した。が、何やら便箋のようなものも一緒に入っている。
 そういえば私は封筒の中身を一度も確認しなかった。自分がこの金を受け取るつもりは全くなかったからだ。私にとってこの封筒は、マスターがいらないと言えば元依頼人に返すだけの代物でしかなかった。
 便箋を手に取ろうとしたとき、不意に誰かの気配に気づいた。建物の外にいる男のものじゃない、おそらくはカウンターの向こうのドア越しにこちらの様子を伺っている者がいる。こういうことに敏感すぎるのも問題だ。それに気をとられ過ぎたのがいけなかった。
 タッチの差で、マスターが便箋を取り上げてしまった。
 何か短い文章が書かれているらしく、マスターはじっとそれを読んでいる。誰が誰に当てた文章なのか、無性に気になった。誰が誰に、だと? そんなこと、決まっている。私の元依頼人以外にこの封筒に便箋を入れられる者はいない。そして彼女がこの便箋をこの封筒に忍ばせておいたのは、おそらく私に読ませるためだったに違いない。

 やがてマスターは便箋を置くと、あろうことかにっこりと笑ってみせた。他でもない、私に向かって。
私は表情こそ動かさなかったが、心の中では冷や汗が止まらなかった。
好奇心とはとても恐ろしいものだ。私は物音を立てないように階段を降りてドアごしに聞き耳を立てた。

話し声はマスターともう一人、知らない男の声だった。

‥こんな時間に客か?
確かにこの店は四六時中経営しているようだったが‥

おもむろにマスターが口を開いた。
「…この『リング』はなんだ?ただの猫の首輪じゃあるまい」

確かにそう聞こえた。

「以前確かに話したと思うが、今回の謝礼を支払えることになった。アンタはついてるな、こっちの要請を無視して、自分の腕に首輪を付けたのに、法外な金が手に入るんだから」

もう一人の男はそう答えた。

リング?猫の首輪?法外な金?

この店では何が行われているのか‥
私は身動き一つ取れなかった。

もう一人の男は私の存在に気付いている。直感でそう感じてはいたが、今ここで物音を立ててはいけない気がした。黙って聞いているしかない。この店で起こっている事を。

水を貰って薬を飲んで眠るつもりがどうやらそうもいかないようだ。
黒いコートの男が1人、店の中に入っていった。
眼を動かしこそしなかったものの、窓の脇に立つ俺にちらっと視線を投げたのがわかる。運の悪い雨宿りの者には見え……ないか。雨はもう弱い。
ここはBARなのだから(しかも24時間営業らしい)夜更けに客が来てもそうおかしくはないと思うが、どうもその男もあまりまっとうとは言えない者のようだった。
(なんか、苦労してそうだな)
店のマスター(らしき男)のことを考えて、俺は1人苦笑した。そのマスター(らしき男)にも気づかれているらしいし、少々雨に頼りすぎたかもしれない。そろそろ本気で気配を消した方が良さそうだ。
足音を立てて歩いて、店のドアを挟んだ反対側の窓の下に滑り込んだ。店の屋根の下から出るのと、同じような距離だ。少しはごまかせるだろう。

窓枠の下にしゃがみこんで頭の後ろをつけた。自分が自然と同じモノで出来ていると認識する感じ。俺はそれで気配を失くすことを覚えた。そうすると俺が動いても、人は気にしなくなる。

手持ち無沙汰のときの癖でタバコをくわえると、なぜ気配を消してまで窓枠に張り付き、盗み聞きをしているのか、我ながら謎に思えてきた。匂いが入ってバレるといけないので火をつけるわけにはいかない。タバコを吸うことも出来ないのに、何で律儀にこのBARにとどまっているんだろうか、俺は。

「……この『リング』はなんだ?ただの猫の首輪じゃあるまい」

おそらくマスターと思われる男の声が漏れ聞こえてきた。それに続く声はおそらく黒いコートの男のものだろう。どこかで聞いたことがあるようにも思えて、気持ち首をかしげる。さらには『法外な金』という不穏な単語まで聞こえてきて、できたら大きく肩をすくめたくなった。実際には、屋根に切り取られた空を見上げただけだ。
(ジーザス。勘弁してくれよ)
ここまで粘っても、なにもわからないのだ。指令はいつだって要件のみで最後まで意味不明だが、今回は極めつけである。
(しかもなんだ、問題は猫の首輪かよ)
心の中で盛大に文句を言いながら、部屋の中の人数を数える。入ってすぐの店に3人。マスターと黒コートとウェイターの女…これは窓の影からもわかった。それから奥におそらく2人。1人はど素人だ。
(首輪…首輪ねぇ?)
奥の部屋にもうひとつ感じられるのは、おそらく猫の気配なのだろう。この土地についている猫なら見たことがある。やたら印象的な猫だ。だがその猫は首輪などしていなかったと思うのだが。

店の中の空気が動いたのは、その時だった。
【親愛なる彼方へ。

 
 MORE AT INK ER.SKYING】


 …便箋に書いてあるのはこれだけだ。

 何かの暗号か?…この手紙はこのコートの男に宛てたものだ

ろう。だとしたら…。

 私は笑みをうかべた。

 と、そのとき猫が便箋をくわえて店の外へ消えてしまった。

 
 …コートの男は動揺を隠し切れないようだ。

「申し訳ない。ウチのバカ猫がとんだマネを。お詫びと言って

はなんだがやはりこのカネは返すことにするよ。わるいな」

 私は金を男に差し戻して言った。

「こうやって2度も会ったのも何かの縁だ。あんたの名前、聞

いてもいいかい?」
 「Mr.キートンだ。呼びにくければ、キートンで構わない」
 何とかそう応え、私はスツールに腰を降ろした。少し頭を整理する必要があった。

 困ったことになった。便箋には何が書かれていたのだろう。今すぐデルタを追うべきなのか。いや、あの白猫に追いつくことは私には不可能だ。というより、この街に住んでいる人間の誰にも無理だろう。
 便箋に書かれていた内容をマスターなら把握しているだろう。しかし尋ねれば答えてくれるのだろうか。代わりに首輪について洗いざらい話せ、などと言われると面倒極まりない。首輪について話せば、芋蔓的に私の正体も話さざるを得ない。建物の外とカウンターの向こうに正体不明の人物もいるこの状況で、身の上話などゾッとしなかった。そもそも、あの首輪の製作者は例の情報屋であって私ではない。そういう意味では私もあの首輪のことを全て知っているわけではない。私の知らないカラクリの一つや二つ、仕込まれている可能性もあるのだ。
 そういえば建物の外にいた男の気配がいつの間にか消えている。もう立ち去ったのか。

 まぁ、便箋の内容は元依頼人に確認すると言う手もある。間抜け呼ばわりされることを覚悟の上でなら、だが。

 マスターは何も言わずに水割りを差し出してきた。一息に飲み干してみる。思わず、ほう、と唸らされた。
 「大したものだ。本当に美味い水割りを入れられるバーテンは意外と少ないものだが、どこか海外で修行でもしてた口かね?」
 当てずっぽうを言ってみたが、マスターは薄く笑っただけで答えなかった。お代わりを、と言いかけたが、後ろのキャビネットにシェイカーが置いてあるのに気が付いた。そういうことなら……。
 「いや、今度はボンドマティーニでも作ってもらおうか。但し、二杯分な」
 私は立ち上がり、カウンターの向こうのドアに向かって声を上げた。
 「いい加減出てきたらどうだ? 何者か知らんが、そんなところで立ち尽くしていても仕方があるまい。シェイクしたマティーニで良ければ奢らせてもらおう。それとも、もっと別の飲み物がいいかね」
 がたっと、私が声をかけた方角から物音がする。

 マスターは少しだけドアを振り返ったが、大して興味もない素振りでカクテルグラスを二つ取り出していた。
私の横をさっきの白猫が音も立てずにさっとすり抜けていった。
何か口にくわえて外へ出ていってしまったようだが、それをきっかけにマスターとその男の話は終わってしまったようだ。

諦めて二階に引き返そうとした時にMr.キートンと名乗ったその男から声をかけられた。

「いい加減出てきたらどうだ? 何者か知らんが、そんなところで立ち尽くしていても仕方があるまい。シェイクしたマティーニで良ければ奢らせてもらおう。それとも、もっと別の飲み物がいいかね」

身体がびくっと反応する。その拍子に自分がここにいるという事を証明するかのように、がたっという物音を立ててしまった。

‥これじゃもう逃げ場はないわね。

私は動揺など億尾にも出さず、ドアを開けて二人の男の前に立った。包帯で巻かれた痛々しい足で。

「そうね、私甘いものが好きなのよ、マスター、私にはアレキサンダーを頂戴。今夜は薬がないと眠れそうにないの。薬の代わりにさせてもらうわ」

スツールに腰を下ろすMr.キートンの横に、汚れた白のネグリジェのまま何事もなかったかのように腰掛ける。

‥二人ともまるで客には見えないわね。

「立ち聞きしていた正体もわからない女に奢ってくれるなんてあんた、いえMr.キートンだったかしら?変わり者なのね、それとも何か目的でもあって?」

マスターは何も言わずにシェイカーと手に取っていた。
外はまだ雨だ。
 ボンド・マティーニ(別名ボンディアン・マティーニ)
 
 映画「カジノロワイヤル」で、ジェームズ・ボンドが、カジノ・ロワイヤルでオーダーしたカクテルで、通常のマティーニとはウォッカが入っている点で異なる。
 レシピは、ドライ・ジン6/9、ウォッカ2/9、キナ・リレ1/9にレモン・ピールを1片。


 アレキサンダーカクテル

 ブランデーにクレームドカカオ、生クリームをシェークする。シェークしすぎると生クリームが固まってしまう。
 グラスに注ぎ、ナツメグをふりかける。こうすると生クリームの匂いが消える。
 猫がメモをくわえていったのは偶然ではない。私が合図をしたのだ。
 なぜならあのメモはキートンという男に見られてはならなかったからで、彼の名前を聞いたのはメモの内容を知るためだ。
 
 MORE AT INK ER.SKYING

 ここには彼の名の文字が書かれている。

 つまりこのメモは彼にしか解けない暗号だったわけだ。

 メモの内容を理解した私は、キートンと女のカクテルを作り終えて、その真意について考えていた。
 「立ち聞きしていた正体もわからない女に奢ってくれるなんてあんた、いえMr.キートンだったかしら?変わり者なのね、それとも何か目的でもあって?」
 さりげなく私の隣に腰を降ろした女性はそう言った。足に巻かれた包帯が目に付く。ここで手当てを受けたのか。汚れたままのネグリジェと相まって、恐ろしく痛々しい印象を受ける。しかし女性はそんな身なりに、そして今の状況には不似合いなほど落ち着き払っていた。
 「目的ね……」
 そんなもの、あろうはずがない。あえて言うなら、正体不明の人間が立ち聞きしている状態では、今の事態の打開策を考えることも、純粋に酒を愉しむこともできそうになかった。ただそれだけだ。
 「そんなものはないさ。私が変わり者かどうかは知らないが、こればっかりは自己申告ほど当てにならないものもないだろう?」
 女性は曖昧に頷いてみせる。

 やがてマスターがシェイカーを振り始める。やはり腕は良いようだ。振り方が堂に入っている。期待通りのボンドマティーニができあがることだろう。
 やがてシェイカーからグラスに、ほぼ透明の液体が注がれる。少し口を付けてみたが、私好みの辛口のカクテルが出来上がっていた。この分ならアレキサンダーの方も良いデキになるに違いない。

 女性が何らかのトラブルを抱えているのは、別に私でなくても判ることだった。しかし依頼人でもない人間のトラブルまで率先して抱え込むような趣味はないし、何故か彼女が抱えているそれは探偵風情では解決できない類のもののような気もしていた。
 だが何故か━━そう、何故そんな気になったのか私にも判らないのだが、アレキサンダーが出来上がる頃合を見計らってから、私は女性に声をかけた。
 「寝酒にする、というのなら、君が眠くなるまでくらいは付き合おう。こちらから誘ったのだからな。それまでの間に何か話せることや話したいことがあるのなら勝手に話せばいいし、なければ黙って飲んでいればいい。ただ、名前ぐらいは教えてくると有難いな」

 マスターは終始無言のままで、女性にグラスを差し出す。私は自分のグラスを手にとって、女性に向けて差し出して見せた。

 「ま、とりあえずは、乾杯」
「ま、とりあえずは、乾杯」
Mr.キートンがグラスを差し出してきた。

私の目の前には、イギリスの王が王妃 アレキサンドラ に捧げたものという謂れのある今の私にはあまりにも不釣合いなカクテルが置かれていた。

「そうね‥、名前は"copyCAT"とでも言っておこうかしら。"模倣猫"、簡単に言えば"人真似屋"よ。いつからかそう呼ばれるようになったの。改めてよろしくMr.キートン」


グラスの合う音が店に響く。


久し振りの酒だ、病院では寝酒なんて出来るはずもなかった。
甘く、口に滑り込むアレキサンダー。チョカホリックな私には贅沢な味だ。

ふと、Mr.キートンの視線に気がついた。どうやら私の足が気になるようだった。


何故だか素性もわからないこの男に私は足の傷の話をしていた。

「これはね、病院から脱走して来た時に出来た傷なの。ここで楽師の男‥名前は何と言ったかしら?まぁ、その男に治療してもらったのよ。何時間も裸足でアスファルトの上を走ってきたらそりゃ足もボロボロになるわね」

私は一人笑った。

そして暫くの沈黙が出来る。
それを破るように私は話し始めた。


「私は精神障害者なの、それで病院に閉じ込められていたのよ。一見見た目では判断出来ないくらい普段は正常なのよ?だけど一度感情が溢れると自分では制御出来なくなる。それとね、何故か昔から人の目を見ただけで、その人の感情がわかったりするの」


また一口酒を口に含む。
‥甘い。今夜はよく眠れそうだわ。


彼の焦り、は目を見れば明らかだった。猫がくわえて持って行ってしまったらしい"何か"のせいだろう。


「私は明日には町を出ようと思っていたの。お金ならあるの。だけどこのBARは何だかとても面白そうな場所だわ。不思議ね、一夜の宿にするつもりだったのに‥」

そこで一旦言葉を区切り、またグラスに手を伸ばす。
「ねぇ、煙草持ってない?」
(……びみょう…すぎる……)
俺は窓枠の下で頭を抱えた。
俺は必要ならばする、というだけで、盗み聞きがダイスキというわけではない。線引きは微妙になるだろうが、自分ではそう思っている。そして自ら語られている身の上話ほど、盗み聞きにふさわしくないものはない。冒涜だ。

だから俺はその場から立ち去りたかった。とても。copyCATと名乗るその女のことなど、全く知らなかったけれど。
 
しかし、どうにも不思議なことなのだが、俺はその場から立ち去りがたかった。なんでか知らないが、このBARには興味を掻きたてられた。指令は関係なかった。もう帰ってしまったって、別に問題ないのだ。たぶん、気まぐれの神が降りてきたのだろう。

そこで俺は――屋根に上ることにした。距離があけば身の上話の盗み聞きの罪が消えるわけでもないのだが、そう決めた。
通気孔などがあれば、中の物音というのは割合よく聞こえるものだ。動きがあればすぐにわかるし、こうして気配を消す必要も無く、気兼ねなく煙草も吸えるだろう。

BARの壁の端によって、一度上を見上げる。打ち放しのコンクリートならお手上げだが、窓だのレンガだの漆喰の欠けだの、手がかりはたくさんある。
高さにして3階分ほどか。俺は屋根の部分に、顔を出した。
そこに、

「ね」

紙をくわえた猫がいた。
しかも、隣の屋根に移るところだったようだ。
いきなり人間の顔が出てきたことに、驚いた――らしい。
猫の口から、紙がはなれる。

「い…………っ!?」

その瞬間に俺の脳裏を駆け巡った思考を説明するのは困難だ。

そのときの行動としては、まず俺はその紙の端を捕まえた。風に折り目がひらく。そこからのぞいた英字の羅列に、眼が奪われる。
(――なんだ?)
意味不明だった。口癖になっているような気もするが。さらに予想を超えていたのは、猫がそれを取り返そうとしてか屋根の俺の手を蹴飛ばしたこと。

すでに傾いていた身体は簡単に壁から離れた。
(――落ちるか?)
(3階だから、体勢は間に合うけど)
(あ・声でた)

猫といっしょに、俺は落ちた。
 「ドスッ」

 タバコに火をつけようとしたcopyCATという女は身構えた。
 キートンも警戒している。

 私は音のした方へ走って行き、窓を開け放した。
 頭の上に白い猫をのせた男がうずくまっていた。すると、上からあのメモがヒラヒラと落ちてきた。猫はそれを口でキャッチしてまた逃げて行ってしまった。
 ここは塀に囲まれた中庭で、柵もしっかりとしており簡単には乗り越えられない。だからどう考えてもこの窓からでないと降りることはできないのだが。まさか屋根から落ちてきたのだろうか。
 
 男は私に背を向けたまま平然と立ち上がった。
 私は黙ってcopyCATの話に耳を傾けていた。

 探偵の仕事の半分は他人の話を聴くことだった。だからcopyCATの話を聞くことは別に苦痛ではなかったし、退屈も感じなかった。ただ、やはり探偵風情に彼女の抱える問題は解決できそうもない、そう感じていた。そして『何故か昔から人の目を見ただけで、その人の感情がわかったりするの』という言葉が本当なら、私のような職業にはどんなに有益なスキルだろうかと考えたり、ただ幸せに生きたいだけの人間には、どんなに迷惑なスキルだろうかと考えたりしていた。

 物音が裏から聞こえた。何かが高いところから落ちたような、そんな音だ。
 即座に、建物の外にいたあの男が思い浮かぶ。立ち去ったのではなかったのか。今まで気配を消して建物の裏手にいたのか。しかし、何のために? そもそも今の物音は何の音だ? 二階の窓辺りから建物内に侵入を試み失敗したのか。それこそ、何のために?

 私が逡巡している間に、マスターが一番的確な行動を取っていた。すなわち、中庭に続く窓を開けて、外の様子を確認している。カウンター越しでは外の様子はよく判らなかった。私はまだ身を硬くしているcopyCATの肩を一回だけ軽く叩いた。振り返った彼女に「心配ない」と目で訴えてみる。彼女の話が本当なら、私の意志くらいは伝わっているだろう。それからマスターの後ろに歩み寄って、一緒に外の様子をうかがって見た。

 男が立ち上がる。やはりさっきの男だ。間違いない。荒事になるとも思えなかったが、念のため愛用のジッポを右の拳に握りこんで、男のアクションを待った。
‥久々の煙草だわ。

そう思いながら火をつけようとしたまさにその瞬間だった。

ドスッ

高い所から何かが落ちる音だ、と判断した。
‥あの白猫ではなさそうね。

緊張を解いていた私は一瞬にして身構えた。
マスターは窓を開け、キートンは私の肩を軽く叩いた。


安心していいって事ね。
少なくとも私に危害はない、と。

席を立つキートンの背中を目に再び煙草に火をつける。
緩く吸い込む煙を楽しみながら、私は窓の外を見る二人の男達を見ていた。
(いっ……痛いイタイイタイ痛い。くそ、痛い……)
足の裏から突き上げてきた痺れをやりすごして、俺は立ち上がった。
頭の上に着地して俺の首を鞭打ち症にしかけてくれた猫は、さらに頭を蹴りとばしてどこか行ってしまった。猫にしてみれば正当な理由があるわけだが、それにしても痛い。やつのせいで着地体勢まで崩れていたのだから、割り引いておいてくれてもいいのに。

俺は首を回しながら、背中に突き刺さる視線に向かって振り向いた。

「あー…どぅも。コンバンハ」

にこ、と笑って見せると、俺が落ちた中庭の窓を開け放した男が眉をよせた。バーテンダーの格好をしていることだし、彼がおそらくこのBARのマスターなのだろう。その後ろに、黒いコートの男――Mr.キートンというらしい――も姿を見せる。その更に向こうには、copyCATと名乗る女が腰かけているようだ。千客万来。
いぶかしげな顔の一同(さもありなん)をほとんど無視して俺はにこやかに言葉を次いだ。

「ここが3階建てでよかった。2階だったらさすがに首折ってたかも」

人生は大いなる暇つぶしなのだ。この世の中がどうでもいいことであふれているなら、暇つぶしである俺の人生はその際たるものだろう。だから俺は、こんなときでも笑っていられる。

「雨に濡れたところを上ったらさすがに指がぼろぼろになっちゃって。身体も冷えたし、俺も中、入れてくれませんか?」

窓に向かって両手を開いて見せ、俺はマスターの言葉を待った。
ドスッ

「ふぁあ・・・静かな様でいて騒がしいね、ここは」

俺は欠伸をしながらに二階の階段にて目を開けた。
音的にはそれなりの沈黙が続いているが、どうにも人の気配が多すぎる。昔取った杵柄のせいで、どうにもそれに関しては敏感になり、眠ってはいても深い所までたどり着けない。

先ほどから店の内外で色々な事が起こっている。
1 外で何やらやらかして、高い所から落ちたらしい人物。
2 新しい客の来店。
3 治療を施した女性の静かな足音。

「酒でもかっくらってから寝るとするか」

少々重い腰を上げる。あの大きな音の後、一瞬一階にいる人物の一人気配が消えた。・・・こりゃ、その道のプロがいるという事だ。しかし、俺を狙ってやって来ているのなら店の方に先に顔を出すような回りくどい真似はしない。

(大体、俺がこの国にいるなんて思ってねーだろうからな)

考えすぎか・・・。
下の者達にこれ以上警戒されないため、俺はゆっくりと階段を下りて行った。木製の板がギシギシと音を木霊させる。この雰囲気は正直、嫌いじゃない。
降りると、早速三人分の視線を集める事になった。だが1秒にも満たない。
マスターは手馴れた手つきでグラスなどの切り盛り、そしてバーテンダーを勤めていた。
怪我をしている女性はカウンターでグラスを傾けている。
そして新しく見る男は不思議な佇まいだった。存在感はあるが、消えてしまえば見つけることはできない透明ガラスを連想させる。黒コートがそのイメージをより強く抱かせてくれる。タバコが似合っている男の部類だ。

「わりーなマスター。どうにも寝付けなくってね」

俺はいつもの調子で話しながら三人の方に近づいていく。
男の隣の空席に腰掛け、少し考えてからカクテルを注文した。

「マタドール頼むわ」

そして今度は左に座っている男に次の頼みをする。

「さっき演奏していた時に感じた視線はあんたかい?それと、タバコの一本恵んでくれや」

いらぬ詮索は必要ないが、新参者の話のネタはこれぐらいしかない。さて、吉と出るか凶と出るか?
だが男の返答が帰ってくる前に、新しい客の来訪が先だった。俺は身をかがめていたので、コートの男の影になって見えないだろう。

「雨に濡れたところを上ったらさすがに指がぼろぼろになっちゃって。身体も冷えたし、俺も中、入れてくれませんか?」

今夜は賑やかな飲み会になりそうかもな。
「雨に濡れたところを上ったらさすがに指がぼろぼろになっちゃって。身体も冷えたし、俺も中、入れてくれませんか?」

 とぼけたヤツだ。空から降ってきた男はまるで正面玄関から大手を振ってやってきたかのような態度である。
 男は背が高く、スラッした体つきでいかにも身軽そうだ。私は空を見上げた。

「まったく今日は変わったヤツばかりくる。まぁいい、中に医者みたいなのもいるし、入りな」
 そうは言ったがあの高さから落ちたくせにたいしたケガもしていないようだ。
 
「トンッ」
 線の細い男は窓の外から部屋の中へ軽く飛び込んできた。

「悪いがもう部屋はないぜ、どうやら今夜は俺の部屋もなくなっちまったしな」
 BARの人口密度は上がる一方だった。それに正比例して、胡散臭さも増していく。

 フルートの男はマタドールなどをぐびぐびと飲んでいる。どことなくやつれている印象を受ける。何日もまともな食事を摂っていないように見えた。一週間ほど前の私も同じように見えたのだろうか、などと思うと、ついマスターにフルーツなどを頼み、無言で男に差し出した。我ながら、どうかしている。
 copyCATは私の煙草を味わうように喫んでいるようだ。キャメル・フィルター。私の愛喫しているそれは決して万人受けする銘柄ではない。メンソール入りでも持っておくべきだった、などと埒もない後悔を私はしていた。
 そして極めつけは三階から落ちてきたらしい男だ。この中では一番怪しい男のはずなのに、一番マトモそうに見えた。全体的に線が細い印象で、間違っても膂力に長けていたりするタイプではない。男の人を喰ったような態度や、今の状況ですらそれなりに愉しんでいるような素振りより、私は男の指が気になっていた。繊細で、芸術家とか、そういう手先の器用さが求められる職業が向いているような感じだ。一体、こいつは何者なのか。何が目的なのか。

 マスターは各々の相手の注文に応えたり、グラスを磨いてみたり、何とも平然としていた。危機管理とか、警戒心とか、そういう言葉は彼の辞書には載っていないのかもしれない。今BARにいる人間の中では一番の大物かも知れなかった。

 私はあくまでゆっくりと酒を飲んでいた。もともとあまり強い方ではない。この状況で酔っ払って良いと思えるほど、私のキャパは大きくなかった。

 (やれやれだぜ)
 心の中だけで呟く。最低でもcopyCATが寝ると言い出すまではこの場にいるべきだろう。しかし今夜はもう、今後の打開策を考えることも、純粋に酒を愉しむこともできそうにない。
 やがてグラスが空になる。
 「今度はマティーニを。普通のやつをな」
とだけマスターに向かって口にした。
落ちてきたのは猫ではなく男だったようだ。

‥だとしたらさっきの私の下らない身の上話も聞かれていたようね。

何をどうすれば上から人が振ってくるのだろう、このBARは不思議な事ばかり起こる。
マスターと落ちてきた男は軽く会話をしているようだった。


丁度その時だった。階段から楽師の男が降りてきた。
「わりーなマスター。どうにも寝付けなくってね」

間違いなくさっきの「ドスッ」という物音で目を覚ましたのだろう。


Mr.キートンに貰った煙草を燻らせながら、窓から身軽に入ってきた男と楽師を交互に見つめる。

‥私も含めて今ここに正常な人間はいないみたいね。


眠るタイミングを逃してしまったようだわ。
「まったく今日は変わったヤツばかりくる。まぁいい、中に医者みたいなのもいるし、入りな」

「ありがとう」
マスターを見上げて、俺はもうひとつ、にこっと笑った。シスターのしつけもあるだろうが、今度はかなりの部分に本心が含まれている。空から人が降って来たというのにほとんど動じていない様子に、俺はむしろ感動してしまった。

「悪いがもう部屋はないぜ、どうやら今夜は俺の部屋もなくなっちまったしな」

「それは残念」
マスターの言葉にすらっと応えると、片手で身体を持ち上げて窓枠を飛び越えた。
「カノジョに追い出されたのに。……でも自分の家で部屋がないのも悲惨ですね。あ、どうも、こんばんは」
言いながら、ぽんと着地すると部屋の中の全員が俺を妙な目で見ていた。それはそうだろうなぁ、とのほほんと思う。いきなり降ってきた挙句にこんな態度で、適当っぷりあふれる様子で言葉を発していたのでは。

「おねぇさん、きついのもらったんですね。俺のにしますか?」
俺はこの部屋では自分が一番年下とみた。誕生日、知らないけど。

ポケットをさぐろうとすると、そのcopyCATの隣にもどったMr.キートンがさりげなく俺を観察しているのに気付く。特に指が気になるらしい。なかなか筋力がつかなくて、苦労する質だ。やたら華奢に見えるかもしれない。血だらけだし。

「そちらがお医者さん?マスターはああ言ってくれたけど、世話になるには及ばないよ。自分で消毒すれば大丈夫。ほら、骨は見えてないし」
copyCATのもう片方の隣に座っている男に向かって、俺は指を広げた。中庭からは影になってか見えなかった男だ。俺が落ちつつある間に奥から出てきたらしい。今度はその男に向かって笑いながら、妙な組み合わせだなぁと思う。
何がって、その男が「医者」だということと、その「感じ」が。もぐりの医者なのなら別だが。
新しい客の印象は陽気な男、これに尽きた。最もその奥にある心情は俺の物に似て、どこか一線を画す物である可能性がある。・・・・まぁ、あくまで俺の勘だが。

「そちらがお医者さん?マスターはああ言ってくれたけど、世話になるには及ばないよ。自分で消毒すれば大丈夫。ほら、骨は見えてないし」

陽気な男は笑顔全快で自分の掌を俺に見せてきた。俺も負けじとへらへらとした口調で返す。

「医者要らずで何よりだ。それに元々俺の専門は“歯”なんでね。こちらにいる女性以上の怪我人を無断で診たらブタ箱行きだ」

モグリではないぞ、という意味と専門職の訂正を含めた返答だった。例を挙げるためにコートの男の隣に座っている女性を目線で指す。陽気な男は笑顔を崩さず、その返答に満足した様だ。

そして、再び宴がはじまった。
二人以上の人間がいる空間なんて、本当に久しぶりだと思う。酒もそれと同等の久しさだ。熱いその液体があまりにも美味で、思わずペースが上がってしまう。
そして不意に二つの物が俺の前に差し出された。りんごとタバコだ。コートの男が無言で差し出してくれている。

グゥーー・・・・

そういえば俺は空腹だったんだっけ。それすら忘れているとは天晴れなこった。

「へへっサンキュー」

遠慮せずに受け取る。好意を示されるのも久しぶりなので、それに有頂天になっているらしい。自粛せんと。
タバコを吸う前にりんごに被りつく。・・・美味い。

「今度はマティーニを。普通のやつをな」

コートの男が自分用に別の酒を注文した。俺は果汁で濡れた唇を舌で一回舐めると、横からその注文を変えた。

「その注文たんまマスター。俺のつけで、ダブルで頼む」

これぐらいやんなきゃ男が廃る。
一瞬目を丸くしたコートの男に、俺は再びりんごを味わいながら話した。

「俺はPanchoってんだ。あんたは?」
 「今度はマティーニを。普通のやつをな」

 キートンがまたカクテルを注文する。
 キートンのとなりにはcopyCATという女が座っている。
 空から降ってきた男は彼女の横の空いている席に腰掛けた。

 彼は華奢で女のような指をしており、一見して屋根の上によじ登るような力強さは感じないが、なんとなく器用さがうかがえる。ケガをしているが本人は医者の治療はいらないようだ。

 私は空いたグラスを下げてまた棚からグラスを取り出そうと後ろを向いた。グラスを1つ取り出し、振り返るとキートンの前には別のグラスがもうすでに置かれていた。
 
 開けていない棚の扉も開いている。
 新参者の男は少年のような笑みをうかべていた。
「その注文たんまマスター。俺のつけで、ダブルで頼む」
 
 一瞬男の声が聞こえなかった。
 線の細い男の隣に体格のいい男が腰かけている。

「あ、ああ…ダブルな」

 あわててカクテルをつくる。 
 私は男の手の早さにあっけにとられてしまっていた。 
 「俺はPanchoってんだ。あんたは?」
 フルートの男がそう言う。男は見ていて清々しいほどのスピードでりんごを平らげていく。マトモな食事に縁がなさそうだとした私の見立てはそれほど外れていなかったようだ。さっき私の注文を自分のつけで、と言っていたが、ちゃんと払えるのだろうか、などと少し心配になった。

 「私はMr.キートンだ。キートンだけでも、別に構わない」
 今夜二度目の名乗りをあげる。

 そういえばcopyCATも、何時間も裸足で走って病院を抜け出してきたとか言っていたはずだった。空腹ではないのだろうか。それとも、空腹を感じる余裕もない状態なのか。
 そして何故かこの建物の壁をよじ登っていたらしい男。この華奢な男には、さぞかし重労働だったことだろう。

 「マスター、ここにいる全員に、何か酒のあてを。何にするかはマスターのセンスに任せる。私が奢ろう。お近づきのしるしにな」

 そう言って、自分の言葉に少し驚く。もちろん、日当やら成功報酬やらを元依頼人から受け取ったばかりだ。ちゃんと現金で支払えるとも。マスターがいきなり全員に満漢全席でも振舞ったら怪しいものだが、いくらなんでもそれはあり得ない心配のはずだった。
 しかし私も次の依頼人を探さねばならない身の上だ。他人の腹具合など気にしてどうする。

 そこで私は、未だ一度も名乗っていない男がこの場にいることを思い出した。

 「ところで、あんたの名前は? そういえば一訊いていなかったはずだが」
 三階から落ちてきた男に私は話を振ってみた。

 せめて名前くらいは聞きだしておくべきだ。何しろ、この場で一番怪しいはずの男なのだから。
 あの情報屋にあたってもらえば何か判るはずだ。なにしろ情報屋のあだ名は「ディクショナリー」なのだ。その情報に見合う金さえ払えば、何でも答えられる男なのだ。いけ好かない奴なのに私が彼と付き合いを欠かさないのは、それが理由の一つでもあった。
マスターがマティーニのダブルを作り終えるのを待って、俺は口を開いた。
「マスター、薬箱があったらかしてくれませんか?それからさすがに寒かったんで、TPOが合ってないかもしれないけど、…あー、…」
不自然なくらい躊躇してしまってから、肩をすくめた。
「…ビショップ、を」
出てくるのは酒であって、間違っても司教(bishop)が出てくるわけではない。…職業病。

「マスター、ここにいる全員に、何か酒のあてを。何にするかはマスターのセンスに任せる。私が奢ろう。お近づきのしるしにな」

Mr.キートンが景気のいいことを言った。さっきから、おごるのが流行りなのだろうか?

「ところで、あんたの名前は? そういえば訊いていなかったはずだが」

確かにまだ名乗っていないのは(俺の盗み聞きを数に含めるなら、だが)俺だけだ。
薬箱を受け取りながらそちらをのぞくと、copyCATの背中越しにこちらを見ていた。

「俺?俺は、親からもらったのは、いって―――っっ」

消毒液を片手に、俺はカウンターの下をガンガン蹴りそうになった。
皮剥けのところを消毒するとなんだってこんなに痛いのだろう。のたうたずにはいられない痛さだ。これに比べればさっきの脚の痺れなんて、安いものだ。
俺は気を紛らわせるために両手首をばたばたと振りながら答えた。

「かえい。華影だ。難しいほうの花(華)の字に、影と書く。女みたいな名前だろ?」

にっと笑って見せると、Mr.キートンは納得したようなしないような、曖昧な顔でうなずいた。……まぁ、いいか。困るのは――俺もだろうが、組織の方がもっと困るのだし、俺はあんまり興味はない。だから?という感じだ。

ビショップを飲み始めると、ようやく中の様子を――間取りだのしつらえだのを――眺める余裕が出来た。たいして問題ではない割りにイレギュラーなことばかりがつづいていたのだとあらためて認識する。…やはりマスターは苦労していることだろう。張り紙をするほどほしい客が、裏のありそうな歯医者に病院脱走の女に暗殺家業になにやら怪しげな依頼をしたらしい男では。
(あー…、あれか)
カウンターの内側に、件の首輪が置きっぱなしになっていた。
それはなんだかものすごい存在感で、バグだらけの俺の思考を、過去の彼方まで連れて行ってしまう。

俺は頬杖をついて、ぼうっとした。
 線の細い男は「華影」と名乗った。グラスが移動したように見えたのは私の思いすごしただったようだ。一週間前のあの日以来、私はなにかおかしい。

「マスター、ここにいる全員に、何か酒のあてを。何にするかはマスターのセンスに任せる。私が奢ろう。お近づきのしるしにな」
 キートンが私に振った。
「あいにく皆さんに合った酒を選ぶセンスは持ち合わせていないのでね。かわりに私がおごろう。安物だがね」
 そう言って棚からワインをとりだす。「シャトー・パプ・クレモント」という、1983年のモノだ。
 コルクを空けて4人のグラスへワインを注いだ。

 華影が薬箱がないかと言う。
「すまないがないんだ。まだこの店は開けたばかりでね。Panchoのダンナは何か持ち合わせはないのかい?」
 
 私はあの手紙のことを思い出していた。
「マスター、ここにいる全員に、何か酒のあてを。何にするかはマスターのセンスに任せる。私が奢ろう。お近づきのしるしにな」

「うほ!太っ腹だねーキートンさん」

馬が合ったのかどうかは分からねーが、キートンと名乗ったコートの男は全員に酒をおごるという。どういう心境なのかは分からないが、とにかく酒を飲んでこの場を楽しめと言いたいのだろう。だが、意外なマスターの返答がさらに俺を驚かせた。

「あいにく皆さんに合った酒を選ぶセンスは持ち合わせていないのでね。かわりに私がおごろう。安物だがね」

気前よくマスターがワイン瓶を取り出し、手馴れた手つきでコルクをあける。ワインには詳しくねーが味は好きだ。
見るとラベルには1983年とかいてある。あまりワインについて知らない俺でも分かる。その年といえばヨーロッパ中にあるワインというワインの「幻の味」が大量にできた年だ。それが俺の生まれた年と一緒なんだから縁起が良い。飲まねーわけにはいかねー。

(安モンとか言っておきながらイキな事してくれるじゃねーかよ、マスター)

だがあえて何も言わない。マスターの心遣いを無駄にしないためにも、今は黙ってこの酒を味わうべきだ。
ワインを嗜んでいる最中、俺は治療した女性に自己紹介し、傷の具合を聞いてみた。丁寧に帰ってくる返答に俺は少しの安堵を感じる。
すると今度は華影と名乗った男がマスターに薬箱を催促しているようだった。

「すまないがないんだ。まだこの店は開けたばかりでね。Panchoのダンナは何か持ち合わせはないのかい?」

マスターから話が振ってきた。・・・・待てよ?救急セットならさっきこの女性を治療するために貸してもらったぞ?さてはさっきのウェイターのお嬢さん、セットを購入した事言い忘れてたんじゃ・・・まあ良いや♪

「あるぜ。二階から持ってくらぁ」

そう言いながらぼうっとしている華影の肩を小突く。何かを考えていたのか、そいつははっとしてこちらを向く。

「悩み事は置いておいて、今は楽しもうぜアミーゴ?」

腰を上げて二階へ赴く。今夜は良く寝れそうだ。
だが二階へ着いたのと階の奥から鈍い音が聞こえたのはほぼ同時だった。

ゴトッ!!

「誰だ!」

俺はとっさに身構えた。
 男は華影と名乗った。
 本名だろうか? ま、偽名なら偽名で構わない。容姿は完璧に記憶した。何かやましいことのある男なら、それだけで情報屋のデータベースに登録されているはずだ。しかしどうも外見から受ける印象は普通っぽいと言うか、相変わらず無害そのものと言うか……。案外、キムの下着でも盗むつもりでこの建物に侵入しようとした一般人なのかもしれない。下着ドロを一般人に分類していいのかどうかは議論の余地があるかもしれないが。
 華影は例の首輪が気になるようだった。何か動物でも飼っているのか。いや、そう言えばこいつは私とマスターの会話を立ち聞きしていたはずだ。それで興味を持っているのかもしれない。

 copyCATは首輪など全く気にならないようだ。吸っていた煙草が尽きると、今度はマイペースで酒を飲んでいる。

 Panchoはマスターに促されて二階に薬箱を取りに行ったようだ。が、すぐにその二階から鈍い物音と「誰だ!」とPanchoが誰何する声が聞こえる。

「様子を見に行った方が良いんじゃないのか、マスター?」
 私はマスターに言った。流石にちょっと不審な物音がしたくらいで他人様の家の二階にまで上がりこむのは気が引ける。マスター自身が様子を見に行くべきだろう。
 少しマスターが逡巡しているようだったので、こう付け加えた。
「しばらくはここで大人しく飲んでいることにする。心配せずとも食い逃げ──じゃなかった、飲み逃げなんかしないし、誰にもさせんよ」
海を漂う海月みたいだ。

いきなり何かというと俺の思考の話。すでに首輪から離れて、眠いだのこのワインうまいなぁさすが教会の安物とはちがうだのとどうでもいいことを考えている頭の中。
浅い考えが大量に回っていて、重大なことや思い悩むべきこと、心に留めるべきことを押し流していってしまう、そんな感じ。俺は忘れることが得意なのだ。さっきマスターの後ろの棚にちょっかいをかけたことさえ、忘れかけている。なんでグラスを、と言われてももう首をかしげるしか出来ない。首輪にしても、まだ何か考えなくてはいけないような気がするのに。まったく素晴らしい、組織の教育法。

思考をくるくる回していると、肩を小突かれた。異常におどろいて手が暴れそうになる。

「悩み事は置いておいて、今は楽しもうぜアミーゴ?」

あぁ、Panchoが薬箱をとってきてくれると言ったところだったのだ。さっき水で洗わせてもらったが消毒もした方がいいに決まっている。そしてそれはなぜか2階にあるらしいのだ。

Pachoは上機嫌で上がって行ったように見えたが、突如
「誰だ!」
という声がふってきた。
体中の感覚が一気に焦点を結ぶ。俺だってサーモグラフィーなわけじゃない、2階にさらに誰か居たというのは腹立たしいが有り得る。

「様子を見に行った方が良いんじゃないのか、マスター?」
うんその通り。

「しばらくはここで大人しく飲んでいることにする。心配せずとも食い逃げ──じゃなかった、飲み逃げなんかしないし、誰にもさせんよ」
………誰がするかい。

Mr.キートンの言葉に、マスターが階段に駆け寄った。

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