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白洲次郎 。コミュの武相荘

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武相荘 白洲夫妻しのぶ田園の道 20090425朝日新聞
http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000160904250003

  ゴールデンウイークはまぶしい新緑の中を歩くのが楽しい。
東京都町田市には田園の面影が残る場所も多い。
今回は、終戦後に当時の吉田茂首相のブレーンとして
連合国軍総司令部(GHQ)と渡り合った白洲次郎とエッセイストの正子夫妻が
1943年から住んだ、かやぶき屋根の武相荘(ぶあいそう)を訪ねた。
今年はNHKでドラマ放送もあり、またまた人気が高まっているという。


  小田急線鶴川駅で降りる。武相荘へは駅前から13系統バスなどに乗り
「平和台入口」で下車する。
鶴川街道をバスの進行方向に進むとすぐ、
左に武相荘を示す看板があり、先に入り口が見える。

  平日の閉館間際とあって、さすがに人も少なく静かだった。
入館料千円。中学生以上しか入れない。

  武蔵と相模の境界ということと、「無愛想」をかけて名付けられた、
養蚕農家だった住まい。
立派な長屋門に温かな灯がともり、
草花や、手入れの行き届いた竹林に静かな時が流れる。
住んでいた人たちの生き方がしのばれる。
かやぶきの母屋には正子が愛したこっとうや、
数々の作品を送り出した書斎などが残る。

  85年に次郎が、98年に正子が亡くなり、
01年、遺族が武相荘を一般公開した。
当初は来訪者の7割が正子の著作のファンだったが、
GHQと渡り合った「骨のある日本人」として次郎の人気も高まり、
若い男性も訪れるようになったという。

  先日、焼失してしまったが大磯町の吉田茂邸も合わせて
バスで訪ねるコースもできたという。
それに今回のテレビドラマ。
「3段ロケットみたい」と夫妻の娘婿、牧山圭男館長(70)は話す。

  牧山館長によると、次郎は戦争に負けると予想、
安全を考えて東京を離れ、
食糧難に備え自給できる場所を探した。
選択肢に母親の出身地、小田原も入っていたが、
たまたま夫妻のお手伝いが、町田に住むいとこに尋ねて、
ここに決まったという。

  夫妻には英国風の貴族趣味もあったと言われている。
それに「田舎」でも、ことが起きれば、はせ参じられるところを選んだらしい。

  次郎は趣味の車を駆って、吉田茂邸まで走ったこともあるらしい。
「いざ鎌倉」。近くには馬が駆けた尾根づたいの見晴らしのいい
鎌倉街道早ノ道も走る。


  武相荘は月曜日、火曜日が休みだが、
5月4、5日は開く。正子がひいきにしていた
東京・青山の店に注文する洋風弁当は
武相荘オリジナルの漆塗り重箱にオードブルからデザートまで3150円。
1日24食で完全予約制。抹茶やコーヒーと菓子のセット(800円)もある。
問い合わせは武相荘(042・735・5732)へ。
敷居が高ければ近くのコメダ珈琲店も。

(渡辺嘉三)



歩いたら見えてきた

  コメダ珈琲(コーヒー)店 武相荘近くの鶴川街道に面して店がある。
名古屋の会社だが、関東では県内と東京に進出。
県内は厚木、海老名、大和、相模原などに14店。
都内6店のうち3店は町田市内に。
「加盟店の利益を考え、慎重に選んだ、たまたまの結果」。
名古屋の喫茶店は、モーニングサービスが有名だが、
この店も午前11時までにブレンドコーヒー(400円)などを注文すると、
ゆで卵とトーストがつく。主婦が目立つが、ザックを持った中年カップルも。

  田園を歩きたい人に「まちだフットパスガイドマップ」(840円)
がお薦め。
鶴川の里山保全から出発、2月の日本フットパス協会設立を支えた
NPO法人「みどりのゆび」(042・734・5678)が
12コースを解説。
鶴川駅から竹林の中を通り武相荘への道もある。

コメント(10)

うわあああ!
武相荘!!いきた〜い!!!
こんな知りたかった情報ありがとうです!

ああ早く〜9月になればるんるん!!

沢山参考にさせて頂きます!
素敵ですね! 日本の茅葺&しっくいの家と英国の古い木造建築の
ハーフティンバー?には共通する美しさがあるなあ、と。

一度、訪ねたい&住んでみたい家です(笑)。
ドラマ放映に向けて期待が高まります。揺れるハート
憧れの場所です。
いつか母と一緒に訪れたいです。
メルマガ、「武相荘だより」を北の大地で愛読しています。
最新号より。
筋を通すいい男ぶりです。

▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲
◎武相荘だより 〜白洲邸 折々の記〜
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「 占領秘話 」を知り過ぎた男の回想 戦後三十年

「週刊新潮」1975年、8/21日号掲載

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 およそ占領下の思い出なぞ、不愉快なことばかりである。

思い出そうとしただけでも憂鬱になる。それを思い出せと、この暑いのに、

わざわざ東京から軽井沢くんだりまでいってくるのだから、世の中には

ご苦労な人がいるものである。

 だが、考えても見たまえ。あのころの日本の政治家や役人たちときたら、

あちらさんのいうことには、なんでもご説ごもっともで、卑屈になる人間が

実に多かった。われわれは戦争に負けたのであって、奴隷にされたわけでも

ないのに、からきし意気地がなく、どんなに無理や難題を吹っかけられても、

鞠躬如(※1)としてしまうのである。こうした日々のことをぼくはどうして

憂鬱な気分にならずに、思い出すことができよう。

 ぼくは敗戦の年の暮に請われて終戦連絡中央事務局の参与になり、翌21年

3月に吉田(茂)さんの総裁の下、同事務局次長に就任、以後、何らかの形で

ほぼ占領の全期間中、GHQ当局との衝に当ることになった。が、ぼくの知る

限り、内閣の官僚で、毛唐に平気でものをいって一歩も退かなかったのは、

吉田さんを除いては石橋湛山(第一次吉田内閣で大蔵大臣を務め、のちに首相)

一人である。石橋氏は「まさか相手も、殺すとはいわんじゃろう」といって、

いつも先方に要求すべきは要求し、泰然自若としてあわてることがなかった。

そのためかどうか、石橋さんは、大分遅い時期(22年5月)になって、

公職追放の憂き目を見るが、今少し、当時の日本人全体が日本人であることの

矜持を持ち得ていたならば、あるいは石橋さんが追放されるような事態は

避けることができたかもしれない。

 さて、GHQ当局が推進した諸改革のうち、日本側にとって、いったい何が

最も強硬に押しつけられたものかといえば、それはやはり新憲法の制定を

第一に挙げなければなるまい。

 多くの日本人は、あれはマッカーサーのGHQが基本性格について日本側に

示唆を与え、それをもとにして日本人自身の手で作り上げられたと考えている

ようであるが、あれは紛れもなく、彼らが作った憲法なのである。

 マッカーサーは初めて憲法改正の要を説いたのは、敗戦の年の10月初旬、

近衛公と会見したときのことである。このあと近衛公は、自分の京大時代の

恩師である佐々木惣一博士(憲法学者)の上京を要請し、同博士に新しい

憲法づくりを正式に委嘱した。

 委嘱を受けた佐々木博士は、箱根のさる旅館に引きこもり、さっそく作業に

取りかかった。が、一国の憲法を自分の手で作るという作業がこの碩学を

包んでしまったのか、その作業は遅々として進まない。ぼくはそのことを

伝え聞いて、近衛公の秘書官をしていた友人の牛場友彦を通じて、「こういう

際は、何事も拙速を貴びます」と申し上げたが、佐々木博士はぼくの伝言に

烈火のごとくお怒りになり「一国の憲法がそんなに簡単に作れるものか」と

話されたという。

 そして10月下旬になると、この近衛─佐々木ラインの仕事は、もろくも

頓挫する。マッカーサーが談話を発表して、「自分は近衛に憲法改正を

指示した覚えはない」と否定したからだ。

 マッカーサーにすれば、近衛公との会話の中で、ちょっとばかり憲法

問題に触れただけなのだから、あれは「指示」ではない、というのであった。

が、マッカーサーのこの“前言取消し談話”の背景には、アメリカ国内に

「新憲法を敗戦国民に作らせるとは何事」という批判があったともいわれるし、

またこのころ、占領国側に、やがて近衛公を戦犯として逮捕しようという

認識が固まりつつあったとも思われる。



-------------------------------( つづく )--------------------------------

※1「鞠躬如」身をかがめて、恐れ慎むさま
 一方、10月末になると、幣原(喜重郎)内閣の中にも、松本丞治国務

相を責任者とする「憲法問題調査会」が設置される。だが、松本博士の

作った憲法草案は、明治憲法第四条までの条項をほとんどそのままの形

(若干、表現を変えた)で温存するなど、到底、GHQ当局が許容する

ような内容ではなかった。そこで、ぼくは松本博士に会い、「占領国側が

考えている内容は、先生がお考えになっているほど生やさしいものでは

ありませんぞ」と申し上げ、少なくとも天皇の大権については、大幅に

制限を設けるようご忠告した。

 だが、松本博士は「そんなことは、私にはできない。そんなことをすれば、

私は殺される」といって、お聞き入れにならない。幣原総理以下政府首脳の

考え方も似たり寄ったりで、結局、“松本草案”はほとんど改定を加えられ

ないまま、翌21年2月3日、GHQ当局に提出されることになった。

 果せるかな、GHQは日本政府の提出した“松本草案”を拒絶する旨を

表明した。そして、それから10日後、GHQ側は、あたかも日本側の

草案がダメになるのを待っていたかのように、彼らの作った“マッカーサー

草案”を提示してきたのである。

 GHQ内で、この草案づくりを担当した民政局長のホイットニー准将

(のちに少将に昇進)がのちに語ったところによれば、彼らはこの草案を

「たった1週間で作った」という。そして、このホイットニー談話も、

今や戦後史のもう一つの“定説”となりつつあるようだが、ぼくにいわせ

れば、断じてこれも事実に相違する。


-------------------------------( つづく )--------------------------------
 それから半年以上経過した昭和21年11月3日、わが新憲法は

“マッカーサー草案”にいくつかの修正を施した後、公布された。

政府はこれを記念して「銀杯一組」を作り、関係者に配ることになった。

で、ぼくもこの銀杯をホイットニー氏に届けるべく、民政局を訪問した。

と、ホイットニー氏はことのほかこの贈り物を喜んだあと、ぼくに向って

「ミスター・シラス、この銀杯をあと幾組もいただきたいんだが……」と

いい出した。

 その日、ホイットニー氏の部屋には、ケージス次長以下何人かのスタッフが

詰めていたが、彼のいう“幾組”という数字は、このスタッフの数をはるかに

上回るものであった。ぼくが、その点を改めてただすと、ホイットニー氏は

つい、口を滑らせた。

「ミスター・シラス、あの憲法に関係したスタッフは、ここにいるだけでは

ないんだ。日本に来てはいないが、豪州時代にこの仕事に参加した人間が、

まだほかに何人もいるのだよ」

 つまり、“マッカーサー草案”は、すでにマ将軍が豪州の地にあって、

“日本本土侵攻作戦”を開始したとき、その作業に取りかかり始めていたの

である。

GHQやアメリカ側が殊更「1週間で作り上げた」と強調するのは、彼らの

草案が大したシロモノではなく、あくまで新憲法は日本人自身の手で作られた

かの印象を内外に与えんがためであったのではないかと、ぼくは考える。

ところが、昨今、日本側の中にも、こうしたアメリカ側の“説明”に便乗する

かのように、第九条の武力放棄は幣原喜重郎氏の発想によるものとする説が

有力になりはじめた。

 ぼくは昭和35年6月9日、当時、政府内に設けられていた憲法調査会

(新憲法再検討のために、昭和32年高柳賢三氏を会長として発足し、40年、

最終報告をまとめて解散)に参考人として出席を求められたが、委員の間にも

こうした説にくみするかのような空気のあることが質疑応答を通じてハッキリ

感じられた。おそらく幣原氏の秘書であった人などが、そのように証言した

からであろう。

 だが、ぼくにいわせれば、このような議論は、真実を誤るものである。その

秘書氏などは、たしかに幣原さんの身辺にあった人であるが、この人は当時、

憲法問題をめぐるGHQとの交渉の場に、直接、席を占めていたわけではない。

調査会の委員たちは、それにもかかわらず、ぼくとその人との証言の相違点を

指摘して、「実際はどうだったんでしょう」「ほかの参考人の証言によれば…」

などと寝ぼけた発言をしていたが、この委員たちは真実を究めるのに、多数決の

原理でも採用なさろうというおつもりか。もし、そんなことが正しいとされる

ならば、警視庁の刑事さんたちも、さっそく犯罪の捜査に、多数決を採用なさっ

たらよろしかろう。

-------------------------------( つづく )--------------------------------

 昭和21年2月13日、日本側の“松本草案”がGHQによって拒絶された

あと、英文で書かれた“マッカーサー草案”が、日本政府代表に手渡された。

その場に出席していた日本側代表は、吉田外相と松本国務相、それにぼくの3人。

場所は、当時、原田積善会より借りていた麻布市兵衛町の外相官邸である。

そして、渡された原文は、議会が一院制になっているほかは、ほとんど今日の

憲法の各条文を彷彿とさすに足るものであった。

 ホイットニー氏も、この日のことについて書いている。

「……私の言葉は、すぐに日本人代表たちの表情に変化をもたらした。白洲は

ピョコンと跳び上り、松本博士は息を深く吸い込んだ。吉田の顔は、黒雲の

ごとく暗く曇った」

 さらに、このぼくについては、彼らが退出しようとしたとき、彼らの

帽子と手袋を取りに行くために、あわてて次の間に走ったかのようにも

記している。

 外相官邸には秘書官もいるのだから、何もぼくがわざわざ使い走りする

必要もないわけだが、この文章のあまりのバカバカしさには、いちいち論駁を

加える気もしない。しかし、ホイットニー氏にすれば“マッカーサー草案”を

日本側に渡すのに成功せりの場面を、いっそう劇的に描き出すために独特の

修辞法を試みたのだと思われる。

 GHQ側は、草案を日本側に手渡すと、その具体化を急いだ。まだ、日本

政府内の意見がまとまらないうちの某日、ぼくはホイットニー氏に呼び出さ

れた。至急、翻訳者を連れて来いというのである。そこで外務省翻訳官だった

小畑薫良氏(昭和46年死亡)らと同道して改めて訪ねると、彼はGHQ内に

一室を用意しており、“マッカーサー草案”の全文を一晩で日本語に訳すよう

要求した。

こうして──日本語で書かれた最初の“新憲法草案”は、専門の法律学者の

検討を経ることなく、一夜のうちに完成した。もっとも元の英文による原文

とて、おそらくは専門の法学者の手には触れていまい。せいぜい法律家の

目を通していたとしても、戦時応召でマッカーサー麾下に入った弁護士上がりの

二、三の将校たちぐらいではなかろうか。したがって、たとえ翻訳の際に

こちらの憲法学者が立ち会っていたとしても、何ほどの効果を挙げ得たかは

疑問である。

が、天皇の地位を規定して、草案が「シンボル・オブ・ステーツ」となっている

点は、さすが外務省きってのわが翻訳官たちをも大いに惑わせた。

「白洲さん、シンボルというのは何やねん?」

 小畑氏はぼくに向って、大阪弁で問いかけた。ぼくは「井上の英和辞典を引いて

みたら、どや?」と応じた。やがて辞書を見ていた小畑氏は、アタマを振り振り

こう答えた。

「やっぱり白洲さん、シンボルは象徴や」

 新憲法の「象徴」という言葉は、こうして一冊の辞書によって決ったのである。

-------------------------------( つづく )--------------------------------

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