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セルフラーニングコミュの大人と子どもは,縦の関係? or 横の関係?

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コミュ内全体

 今度はみなさんがコメントしやすいトピックだと思います。よろしく。

 親と子ども,教師と生徒,それは縦の関係,つまり上下の関係だと思いますが。それとも,同じ人間なのだからということで,横の関係だと思いますか。

 戦前は,そういう質問すらできないほどはっきりしていたでしょう。もちろん縦の関係だと皆が考えていました。親や教師のいうことは絶対で,子どもや生徒は素直に従うべきだという考えです。封建的な考えです。(もちろん,一部の思想家の中には横の関係を説いている人もいたようです)

 戦後,民主主義が入ってきました。大人も子どもも皆平等であり,同じ人間として同じ権利を持っているとされました。子どもの人権も大切だと叫ばれました。そして,親と子ども,教師と生徒は横の関係にあるべきだという考えが出てきました。

 そしてお父さんが子どもの友達のような関係になってきたのです。教師も生徒を下のものと見ずに,子どもの主張を大人の主張と同じように聴くようになりました。


 さあ,みなさんは,どう考えますか? 大人と子どもは,縦の関係であるべきですか,それとも横の関係であるべきですか。

 ぼくは基本的には,縦の関係にあるべきだと思っています。もちろん,戦前の封建的な絶対的なものではなく,子どもの意見も聞くことは聞くし,尊重もする。しかし,最終的には大人の方に決定権はあるべきだという考えです。

 いま,「授業の工夫のコミュ」に書き込まれていたのを思い出しました。
 家庭教師をしている学生の書き込みですが,子どもがいうことをきかない,学習時間中に携帯電話を使ったりするというのです。

 家庭教師としては携帯電話を学習時間中に使ってはいけないと主張する。子どもはいろいろ理由をつけて使ってもいいと言い張る。
 そこでおりあいがつかなければどうすればいいのでしょうか。

 ぼくが家庭教師なら,とにかく使ってはいけない,と大人の権力を行使しますね。学習の障害になることを説明はしますが,それを納得してくれないのなら強制的にでも従わせるという気持ちが必要だと思うのです。

 強制することができるというのは,基本的に上下の関係にあるからできることです。

 「ヒトは先ず『愛してる!』と叫んだ?」という本の中で,中島秀人氏は「あるとき、団塊の世代の人にエネルギー保存の法則は殴っても教えるべきだといったら、反民主的だといわれましたが、エネルギー保存の法則は殴っても教えないといけませんよ。」と言っています。

 「殴っても」というのはどうかとは思うのですが,大人がこうすべきだと思うことは強制的にでもしなければいけないことがあると思うのです。
 ぼくは,読書は強制的に生徒にさせています。

 学級崩壊や家庭内の問題には,このことが少なからず関係しているのではないでしょうか。
 民主的に取り組もうと理想に燃えてクラス運営をするが,生徒が思うように動いてくれない。必死で説得はするのですが,上からの指導という気持ちはないので,強制はしない。それでクラスが崩壊してしまう。
 そういうことってないでしょうか。学級崩壊についてはよく知らないので勝手に想像して書いていますが。

 家庭でもお父さんは子どもと友達のように遊ぶ。しかし,権威がない。それで,何かあっても強制することができない。これも想像です。

コメント(33)

 場面によって関係が変わります。教室ではもちろん縦関係を要求します。そのためには先生らしい対応ができるように準備します。

 教室を出れば、横関係、たとえ相手が小学一年生でも。子どもからいろいろ教えられることが多いです。勿論不道徳をした時は、一気に縦関係になりますがね。

 家族は、20才までは親が上の縦関係それが就職したあたりから水平になり、だんだん子どもが上の縦関係になりつつある。う〜ん。肉体的老化を感じだすとなぜか子どもに頼りたくなる。≪精神的にですがね≫
クリスさんの,場面,年齢によっていろいろだということ,よく理解できます。

 ぼくは子どもがいないのですが,だんだん親子の関係が変わっていくというのは,頭では理解できます。


 さて


 基本的には,子どもも一個の人格をもった立派な人間だというのは,忘れないようにしたいと思っています。

 来週,中学3年生は修学旅行に出かけます。それで,来週は3年生は休みです。木曜日に帰って来るのですが,金曜日も疲れをとるために休みにしました。木曜日の夜に帰るので,金曜日の夜の塾の時間までには疲れも回復しているとは思うのですが,学校も休みなので。

 さて,あさって金曜日は手荷物検査とのこと。木曜日までに手荷物を準備しないといけないので,木曜日の方が休みにしたいという声がありました。

 しかし,一方では木曜日の準備は何とかなるので,帰ってきてからの休みがいいという子もいます。

 ぼくはそういう声も聞いて,できるだけ子どもの声も尊重し,どちらか一日は休みにしていい,ということにしました。

 このように子どもの声もしっかりきくように努めています。縦の関係が大切だということで,子どもの声を無視するというのはいけませんね。
仰りたいのは、縦の関係というより、「毅然とした態度」ですよね。

「○○はいけない」
というのと
「○○しなさい」
というのは違います。

前者が毅然とした態度
後者が有無を言わさず服従させる事

単に横の関係、といっても
その根底には相互間の信頼や尊敬が築かれている事が前提で、単なる友達関係とは違います。

いくら毅然とした態度に徹しようと思っても、子どもが理解できる言葉で納得させないと根本的な解決にはならず、不完全燃焼になってしまうと思います。

そして、毅然とした態度以前の段階で、正の注目とラポールの形成が重要です。

私はどんな状況においても「よこの関係」が望ましいと考えます。
生後まもない子であっても、あくまでも「個人」として尊重し、その上で「毅然とした態度」を貫きます。

「たて」の関係でなくても、「私はこう感じる」「こうして欲しい」とアサーティブに伝える事や、ルールを明確にする事により、子どもの行動をコントロールする事はできます。

誰しも頭ごなしに言われると、反発しますよね。
そんな世の中になっていると思います。
 KIRIKOさん

 「正の注目」「ラポール」「アサーティブ」この言葉をもう少しわかりやすく説明して頂けますか?

 言わんとしていることは大体解りました。後ルールを明確にする。これが子どもには難しいような気がしますが…、ルールというのはその人の必要度によって軽かったり重かったりするような気がします。
 KIRIKOさん

 コメントありがとうございます。

 「アドラー心理学入門」を読んでいて,大いに勉強になることはありましたが,数点ぼくの考えと異なるところがありました。

 そのひとつがこの「縦の関係」「よこの関係」です。
 アドラーは「よこの関係」が望ましいと説いているそうですね。
 それで,それについてもっと深めたいという気持ちもあってこのトピを立ち上げました。

 ただ,この場でひとつの結論に達することは難しいと思うし,達する必要もないと思っています。それぞれが言いたいことを言って,その中から少しでも自分が向上することができればと願っています。


 さて,前置きはそこまでにして

>>>私はどんな状況においても「よこの関係」が望ましいと考えます。
>>>生後まもない子であっても、あくまでも「個人」として尊重し、その上で「毅然とした態度」を貫きます。


 「個人」として尊重し,「毅然とした態度」を貫きます
 に関してはぼくも同感です。


 「横の関係」というときには,いろんな権利において平等だということになると思います。投票権も1票ずつ。ぼくのイメージはそのようなものです。

 さて,上でぼくが例にあげた,家庭教師で場で子どもが携帯電話を使う件。
 家庭教師としては,学習に支障があるのでということをいろいろ説明して納得させ,「学習時間中には携帯電話の電源を切る」というルールを決めたい。
 しかし,子どもは友人から緊急な連絡があったりするといけないなどの意見を述べ,携帯電話の電源を切ることに反対する。
 長時間話し合っても合意に達しない。家庭教師としては「毅然とした態度」でのぞもうとすると,子どもも「毅然とした態度」をとる。横の関係なので子どもも同じ力がある。
 投票をしようにも,1対1。

 それを教室でやられたらたまらないですね。例えば教師1人と生徒30人。それぞれが1票もっているといつでも生徒が勝ってしまいます。

 「横の関係」では解決できないように思うのですがどうなのでしょうか。


 ぼくは子どもを「個人」として尊重するというとき,子どもの意見を十分に聞き,理解しようと努めることを意味しています。
 携帯電話を使いたいという気持ちをできるだけ理解し,こちらとしてもできるだけの譲歩はする。しかし,譲れない一線があります。その一線を越えるときには,説明をし,理解してもらおうと努めるのですが,理解してもらえないときには,ここは譲れない,私の考えにしたがってもらいましょう,とする。
 「縦の関係」にあるので力はこちらが上。最終的には強制力ももっているという立場です。
クリスさん

ご質問ありがとうございます。
奥が深い事ですが、できるだけわかりやすく説明しようと思います。

まず、「ラポール」=信頼関係です。単なる信頼ではなく、通常カウンセラーとクライエントの間に築かれる関係なので、本心を話せる様な関係・・・との理解で良いと思います。ラポールを形成するためには、環境整備や非言語的コミュニケーションなどが重要となります。リラックスして、心の悩みを打ち明けられるような関係の構築は、なかなか簡単な事ではありません。どんなに大勢の中でも、ちょっとした変化を見抜く洞察力が不可欠だと私は考えています。

次に、アサーティブ。
こちらは、最近流行りですので「アサーティブ」「アサーション」「アサーティブネス」などという表現でたくさんのサイトが説明していると思います。簡単に言えば、相手を傷つけないように、自分もOK,相手もOKという言い方で自己主張する事、になると思います。
(私がわかりやすいと感じた参考文献です。「第四の生き方 http://store.shopping.yahoo.co.jp/7andy/30465990.html」ちょっと本棚の奥にしまいこんでしまったようなので、詳細が必要でしたら後日お知らせします。)

アサーティブな自己表現では、多くは「私はこう感じる」というIやWeの主観的な表現になります。貴方が、という言い方はしません。これは子育てにも、教育にも十分に活かす事ができます。何か問題が起きた時、アドラー心理学では「不適切な行動には着目しない」ですので、行動を否定するのではなく「そういう事をされるのは、私が○○だから辞めて欲しい。」という表現になります。
これを、「貴方が・・・」としてしまうと、上から目線の支配的、否定的行動になります。人格そのものを否定する事になり、似ているようですが、実は大違いです。

最後に正の注目です。
人は基本的に、他者からの注目を得る目的で行動している、というのがアドラーの理論です。(行動も感情の一種とみなします。)
特に子どもは、親(大人)から注目されないと生きていく事ができませんので、どんな手段を用いても注目を得ようと思います。一番恐れているのは「無視」です。加護されない子どもは、ネグレクト=死を意味しますので・・・。

通常、子育て中の母親は、子どもが悪い事をした時に目が行きます。これを負の注目といいます。叱ったり怒ったり・・・。様々な対処法を行うと思います。

しかしこれがパターン化されると、子どもは負の行動をして注目されるという事が強化されますので、悪い事をして気を引くようになります。
一方、「正の注目」は、極端に言えば「良い事をした時に注目する」になりますが、アドラーでは結果には着目しませんし、褒める事も勇気くじきですので「有りのままを認める」になります。つまり、何も悪い事をしていない、普通の時に注目をする事=勇気づけを指します。

文字数が越えてしまいますので、続きます!
具体的に例を挙げます。
例えば、うちの次男(4歳児)が私の教室で皆と一緒に学習する時、2〜3時間待たなければなりませんので、時に退屈してしまう事もあります。

しかし、終了後「○ちゃんが静かに頑張って勉強してくれたから、ママは助かった。」「たくさん教材ができてすごいね〜」などと言います。普段も同じです。悪い事をした時に声をかけるのではなく、静かに遊んでいる時など「○くんは楽しそうに遊んでるんだね〜」「静かに遊んでくれてありがとう」といった調子です。
朝から晩まで「良い子ね〜ハート」と頭をなでているので、いつの間にか本当に落ち着いた、我慢のできるよい子です。
(普段注目をせずに、悪い事した時に怒ってばかり・・・だと、常に悪い事をする問題児になります。)
4歳児にできる事が、他の子にできないわけはないと考えます。

生徒の場合にあてはめてみます。
宿題をやってきて当然、と思っていても「宿題できたんだ?頑張ったね〜」と声をかけます。
学習内容も結果ではなく、努力を認めます。たとえ×がついても、自力で解いた事に着目します。遊びたい盛りに、休まずにちゃんと通って来て、学習している事だけでも素晴らしい。点数がどうとか、字が綺麗だとかよりも、最初はとりあえず自分の力でやっただけでOK。子どもも気が楽になりますよね?すると、勉強や教室に通うのが楽しくなります。
(もしずっと集中できないような子は、発達障害を疑い、我慢という耐性が低下しているのだと判断します。)

前述の携帯の話題に入ります。そもそも教室のルールは生徒と教師が話し合って決めるのが妥当だと思います。
対等な「よこ」の関係(榎本先生が、あえてひらがなを使用しているので真似ます。)は、お互いに意見を尊重しあって、妥協点を模索します。

私は携帯の電源を切らない事が問題だとは思いません。
問題なのは、携帯に気を取られて学習に集中できない事、だと考えます。
私だって、授業中に携帯の電源を切ったりしません。だって、急に誰かが瀕死の重症でヘルプの電話がかかってきたらどうしますか?授業とどちらが重要でしょうか・・・?人生、勉強よりももっと重要な事がありますからね・・・。

携帯をマナーモードにして、手の届かない場所に置く、またはバッグの中に入れるなどの対処で十分だと思います。こういった問題が生じた場合、私だったら実際に生徒が携帯をいじった直後にこう話すと思います。

「ねえ、○くん、今は何をする時間だっけ?」
「携帯をいじりたい気持ちはわかるんだけど、集中が途切れてしまうと思わない?」
「せっかく集中して効率が良かったのに、途切れてしまうのは私はもったいないと思うんだけど、どう思う?」
「学習時間が限られている中で、携帯をいじる時間があると予定を変更しなければならないので困る。」

という風に会話をしながら、携帯をいじる行為が困る、という自己主張をして、本人に「学習時間に携帯をいじるのは良くない事である。」という事に気づいてもらいます。

そして最終的には、双方が妥協する案に落ち着かせます。例えば、「授業中はマナーモードにしておいて、休憩時間には触っても良い。」などの新たなルールを作っていくでしょう。

ポイントは、あくまでも自分で気づいて行動を修正する、という所にあります。
もし、最初から集中していないのであれば、それは学習に取り組む姿勢の問題ですので携帯のせいではありません。

これを、支配的に上から命令すると、双方の関係と信頼が崩れます。そうすると、学習意欲も何もなくなり、いかに相手を征服するかが目的となってしまいますので注意が必要です。教師との勝ち負けは、学習環境には不要です。
特に高学年〜中学生の反抗期には、上から目線では動きません。

問題の本質は何なのか。
私は、授業にさえ集中できていて、周囲に迷惑をかけなければ何を持っていようが構わないと考えます。漫画だろうが、エロ本だろうが、TVだろうが。休憩時間には、何をしようと自由です。
その代わり、授業中は集中する事。子どもも納得した約束は守れるはずです。

「たて」の関係でなければ相手をコントロールできないわけではありません。
むしろ、生徒の気持ちに寄り添い、共感し、その上でアサーティブに意思を伝える事により、行動が変わります。

過去と他人は変える事ができない。変えられるのは自分と未来だけ。自分が変わる事により、必ず影響を受けて相手が変わります。それをじっと待つのみ・・・。それが、個人主義のアドラー流です。
上記の補足します。

「個人を尊重する」という事は、誰もが行動の選択権を持つという事です。
頭ごなしに行動を制限するのではなく、相手がどうしたいのかをまず聞き入れてから、ルールに基づいて話し合いをして決めます。

家庭学習も同じです。

何故勉強が必要なのか。
勉強しなければ試験の成績が落ちる。
成績が落ちるのは嫌だ。
夜寝る時間が遅くなるのは、健康上の理由で良くない。
帰宅したらまず、ゆっくりとくつろぎたい。
夕飯を食べると眠くなってしまうので、その前に勉強をした方が効率が良い。

・・・では、いつ学習をすれば良いのか・・・。

このように、お互いが尊重しあいながら意見交換をする事でストレスが軽減されますし、自分で決めたルールなので実行しやすく守らなかった場合の修正にも説得力があります。

自分の責任は自分でとるという事も重要で、自立への第一歩であり、その後課題の分離へとつながります。
 KIRIKOさん

 かなり納得することができました。お互いの妥協点をみつけるように努めるということですね。

 現代の国際社会においてそれが行われたらどんなにいいだろうと,思います。

 ただ,もう少しつっこませてください。

 マナーモードにしておく,というのはKIRIKOさんの価値基準です。それで納得しない教師もいます。ぼくもその一人です。
 緊急な用件のある人は,塾に電話をかけるということができます。だから,生徒の電源は切っても問題ありません。
 家庭教師でも,本当に緊急な場合は,親に伝言をすることができるはずです。マナーモードにしても学習に集中できないからとう理由で電源を切ることを主張する教師は少なくないはずです。

 ぼくはここでKIRIKOさんと電源を切るべきかどうかということに関して意見交換をするつもりはありません。お互いの妥協点が得られないときにはどうするか,ということを尋ねたいのです。

 あるいは,生徒がマナーモードでもだめだ,と言い張ったとき,いろいろ話をしても生徒が納得しないときにどうするか,です。

 ぼくのように「たての関係」を主張しているものであっても,生徒はいろいろと要求をしてきます。
「運動会の翌日は学校が休みだから,塾も休みにしよう」
「この問題は試験に出そうにないから,やらなくてもいいんじゃない?」
などなど。

 KIRIKOさんは
>> 仰りたいのは、縦の関係というより、「毅然とした態度」ですよね。

「○○はいけない」
というのと
「○○しなさい」
というのは違います。

前者が毅然とした態度
後者が有無を言わさず服従させる事


 と書かれていますが,ふたつの違いがよく分かりません。
言葉は違っていても「○○はいけない」は「たての関係」に聞こえるのですが。

 「学習時間に携帯電話の電源を入れてはいけない」のように。

 よこの関係における「毅然とした態度」というのがまだイメージできません。


 なお,
 ぼくは,教師と生徒は,教える,教えられるという関係であって,国際社会のように一国,一国が平等なものとは思っていません。だから最終的な決定は教師にあるべきだと思っています。

 



 ひとつ気になることがあったので書きます。
 これはKIRIKOさんの気を悪くするかもしれませんが,そのまま理解されては,これを読んだ人が間違えた理解になると思うからです。

>>朝から晩まで「良い子ね〜」と頭をなでているので、いつの間にか本当に落ち着いた、我慢のできるよい子です。

 に関してです。

 「アドラー心理学入門」p95に

 ほめてはいけないという話を聞いたある人が,その場にいあわせた小さな子どもに,「おりこうさんやね」と声をかけました。ほら,そういうのがほめるということなのですよ,と指摘すると,「よそのお子さんはほめてもいいのでしょう?」という答えが返ってきて驚きました。

 とあります。
  ぼくは
 「良い子ね〜」と頭をなでている
というのはいいことだと思っていますが,アドラー派では否定的にとらえているということのようです。
気を悪くはしません。
予想通りの突っ込みです。あえて「良い子」という表現を用いました。

「良い子」という表現が、アドラー派で否定的なのは、もちろん承知しています。褒める事も勇気くじきです。
これは、結果に対して評価する場合に用いると良くない事とされています。
「良い」「悪い」は上から目線での評価、つまりたての関係とされているからです。
その根底には、子どもが本当の自分を出さずに親や大人の前で自分を取り繕って「良い子」を演じる、つまりアダルトチルドレンを否定している所から、「良い子」を求めすぎる大人を否定しています。

矛盾していると感じるかもしれませんが、私の使い方は「正の注目」として、あえて使います。
つまり、ありのままを認める、無条件の愛での言葉かけの一つですので、前述の否定される使い方とは大分意味合いが違ってきます。
ちなみに「良い子ね」という以外に「かわいいね」「大好きよ」とか「産まれてきてくれてありがとう」なども、よく使います。

わかりますか・・・?文だけで伝えるというのはとても難しいのですが。

例えば、子どもが何か評価に値する行動を行ったとします。
その結果を「良い子」と評価する場合、行動をとらない場合は「悪い子」になりますね。子どもは悪い子として親から強迫されるのを避けるために、無理をして「良い子」を演じる。これを否定しているわけです。

その一方で、有りのままを認めるとか無条件の愛、正の注目は、結果を評価していません。そこの違いだと思います。

正直、頭では理解していても実際に(例えば育児中の家庭で)正の注目をしようとする場合、何もしていないのに肯定的な声かけをするのは、なかなか難しいですね。
理想の接し方は、行動のプロセスの着目し努力を認める、になりますが、最も正の注目が必要な乳幼児期には、とにかく言葉は何でも良いので肯定的に「子どもが気分の良い」声かけをしておけば良いのではないか、というのは私の解釈です。どうしても「いいこね〜」は一番使いやすい言葉です・・・(笑)

正の注目と負の注目、という観点で、親と対立や競争の関係になって我慢のできない、言う事が聞けない子にするか、愛情を与えられて我慢のできる落ち着いた子に育てるか、という話でした。
携帯の話です。

授業中に、携帯の電源を入れてはいけないというルールを築くとしたら、子どもも納得した上でのルールなのであれば、「携帯の電源を入れてはいけないルール」として毅然とした態度を貫くで良いのではないでしょうか。
毅然とした態度には、よこの関係、信頼と平等が根底にあります。

妥協点が得られない、という事はないと思います。
授業中に電源を入れないというルールが守れないのであれば、そこで授業を辞めるとか、教室を出て行くとか、携帯を取り上げるとか、何らかの対処ができますよね。例えば、最初はマナーモードにしてバッグに入れる、しかし携帯に気を取られて集中しない事が一度でもあったら電源を切る・・・などのルールにもできると思います。
効果的なのは、集中していない時に「ほら、集中しなかったでしょう?」と指摘する事だと思います。
もし授業に集中できないのが、携帯だけの問題ならば完全に教室に持ち込み禁止、という事もできるのではないでしょうか。しかしはたして、携帯だけを取り上げれば集中できるのでしょうか???

携帯依存症、という病気があります。
それは医学でも解明されていて、携帯がないと逆に落ち着かなくなります。
一概に、携帯の電源を切る事が全ての解決策になるのかどうか。
支配的な独裁者では、その考えにも及ばないでしょう。

発達障害も同じですが、個々に寄り添う、理解しようと努力するのがよこの関係です。
単なる言葉の用い方だけではなく、共感や傾聴が含まれるという態度の違いが大きな特徴です。

もし、塾の休みに関して生徒が何か口を出すのであれば、「ここの休みを決める権限は私にある」で良いでしょうし、学習内容に関しては「学習内容をプログラムするのは私」で良いと思います。
しかしその前に、ひとこと「休みたいんだね」とか「ここの範囲を勉強したくないんだね」が入ると、生徒は自分の要求を受け入れてもらったと安心し、信頼関係が増すでしょう。

もし共感する事なく「この人は自分の事を理解してくれない。」と思うと、頑なに反発する子も多いでしょう。

たての関係というのは、同じ目線には立ちません。
いつまでもお互いの主張が平行線を辿り、交わる事がありません。

お互いを尊重し・・・という視線を持つ時点で、すでによこの関係であると思います。
学習や、塾運営に関するイニシアチブ【initiative】を握る、という事とは異なります。

しつこいように何度も言いますが、根底に信頼や尊重があってこそ、毅然とした態度が受け入れられます。
時に厳しくルールを徹底するならば、子どものモヤモヤを取り払っておかないと関係の修復に苦労するはめになると思います・・・。
 KIRIKOさん

 詳しく説明していただいてありがとうございました。その説明を読んでから先のコメントを読んだらとてもよくわかって嬉しかったです。

 わからないことがはっきり分かるって嬉しくなっちゃいますね。

 学問的に学んだことに合わせて生きるのはしんどいけれど、自由に生きてそれが後で学問的に説明できるということを知るのは楽しいです。

 いつかピグマリオン効果のお話に出合った時、懇談でよく自分の子を「うちの子にそんなこと出来るでしょうか…」といつも懐疑的に言う保護者の子どもさんは本当に伸びないと思っていて、「子どもを信じなければ子どもは変わらないですよ。」「私がこの子は大丈夫だ、出来ると言っているのだからそれを信じて下さいよ。」と念押ししていたことを思い出しました。

 ピグマリオン効果という言葉も知らなかったのですが、そういう言葉そ知っていたらもっと説得力があったかもしれませんね。

 先に心理学があり、それを狙っての生き方はできませんが、実際の経験をとおしてKIRIKOさんやYojiさんのお話を読んでいるととても参考になります。

 私は生徒にいうことを聞かせるコツは、人権感覚にあると思っているんです。人権感覚が優れていると、KIRIKOさんが言うところの「よこの関係」を保ちつつ相手を説得できるということかな。

 ただ相手が集団になるとまた違ってきますよね。集団をまとめるためにはまた違った力が必要でしょう。個別指導が主なのでコメントできません。

 私は携帯電話を持っていないのですが、携帯を持っている人が幸せだと感じたこともないです。便利かもしれませんが、情報過多は考える余裕をそいでしまいそうな気がします。どんなこともメリット・デメリットはセットになっています。

 昔も「子取り」なんて言葉があったように、今と変わらないぐらいの発生率で犯罪があったのではないかと思います。

 この世から罪がなくなることはありません。人間的な完璧な安心はいつの時代になっても手に入れることはできないと思います。

  





KIRIKOさん

>>共感する
>>根底に信頼や尊重があってこそ、毅然とした態度が受け入れられます

 に関してはまったく異論はありません。ぼくもそれを強調したいです。

クリスさんの書かれている
>>生徒にいうことを聞かせるコツは、人権感覚にあると思っているんです

 もその通りだと思います。

 KIRIKOさんが,「良い子ね〜」と頭をなでることの理由もとてもよく理解できます。
 ぼくは,子どもを「ほめる」ことを肯定的にとらえているからです。

 しかし,アドラー派,そしてKIRIKOさんは,「ほめる」ことを否定的にとらえています。

 KIRIKOさんの「よい子ね〜」は,ありのままを認めるものだから,よくて,
 「アドラー心理学入門」の例にある,
>>> ある人が,その場にいあわせた小さな子どもに,「おりこうさんやね」と声をかけました。
 そのことは「ほめる」ということで否定的というその違いがまったく分かりません。

 「よい子ね〜」がよくて,「おりこうさんやね」がなぜ悪いのか,です。

 これはぼくがアドラーの理論についてよく知らないからかもしれません。

 しかし,「子どもに愛が伝わっていますか」で書いたように,子どもがどう受け取っているのか,が問題です。

 子どもがぼくよりもアドラーを理解して,
 今はお母さんは,ありのままを認めて「よい子ね〜」と言っているんだ。
 この人は,「ほめて」,ぼくに「おりこうさんやね」と言っているんだ,
 と区別して受け取ることができるのでしょうか。
 


 携帯電話など,
KIRIKOさんは
>>妥協点が得られない、という事はないと思います

 ということなので,このことに関しては,これ以上続けても水掛け論で発展性もないので,打ち切りにしたいです。ぼくは,やはり妥協点が得られないこともあると思っているので。
 ただ,妥協点をさがす努力は必要だという気持ちはあります。


 さて,KIRIKOさんのコメントに

>>> 学習や、塾運営に関するイニシアチブ【initiative】を握る、という事とは異なります。

 という文があります。


 このイニシアチブというのと,上下関係はどのように違うのでしょうか。詳しく説明していただけませんか。

 アドラー心理学入門に,次のような箇所があります。(p91〜92)


 私は大学でギリシア語を教えています。毎年、教科書を選ぶのですが、ギリシア語については、私は専門家ですから、かりに学生が「先生、この教科書は練習問題が少ないですから、これを使いませんか?」と申し出ても、おそらく断るだろうと思います。学問的にも教育的にも学生にとって最善の教科書を選んでいるのですから専門家の私としては譲ることはできないのです。

 しかし、どんな仕方で講義をするかについては、学生と相談します。講義形式なのか、それとも、学生が発表するという演習形式にするのかは、学生との相談の上で決めてもいいと思います。教師と学生は「同じ」ではありませんが、人間としては「対等」なのです

 

 たぶん,教科書選びについては「イニシアチブ」をとるということだと思います。

 その線をどこで引くかです。
 ぼくにとっては,塾の学習形式というのはとても大きいものです。このコミュを立ち上げたのも「セルフラーニング」がいいと思っているからです。
 だから,たまに生徒が「黒板授業しよう」と申し出ることがありますが,ぼくはもちろん断ります。

>>教師と学生は「同じ」ではありません
 というのが,ぼくには上下関係だということに感じるのですが,どうでしょうか。
 人間としては「対等」 に関しては異存はありません。
 
クリスさん

よかったです。ありがとうございます。
Yojiさん

すみません、時間がないので手短にします。
先日の書き込みとダブリますので多くは記載しませんが、多分、理論の理解なしに言葉尻だけを捉えているから混乱するのだと思います。
重要なのは基本姿勢です。言葉は伝達の手段でしかありませんので・・・。

前述のアドラー心理学入門の記載通りです。
上下の関係はたての関係であり、よこの関係ではない。
よこの関係とは、お互いが対等であり尊敬しあって、個人を尊重する事。
よこの関係では、行動の選択権は個人にゆだねられる。
コミュニケーションは、言葉ではなく非言語的コミュニケーションの影響が大きいです。特に日本人は。

子どもがあえて良い事をしようと思っていなくても、肯定的な刺激をするのが正の注目。
結果ではなく、存在や努力を認める正の注目。
私はこう思う、という主観的な言葉かけが中心。
「助かった」「ありがとう」など。無条件の愛⇒勇気づけ

良い結果を求める、報酬や褒める事。
悪い結果に対する叱咤、罰
上から目線の評価⇒勇気くじき

記載を端折ってしまったので、誤解を招いたのかもしれませんが、子どもの良い子症候群を引き起こす声かけには、悪い事をした時の罰が、かならずつきまといます。結果のみに着目するからです。
例えば私が、仮に子どもが「良い事をした」時だけに褒め、「悪い事」をした時に「悪い子は嫌い!」などと言っていたとしたら、それは勇気くじきです。(行動の結果に対する評価だからです。)
前述したと思いますが、私は良い事をした時に褒め、悪い事をした時に叱っているわけではありません。どんな時でも、同じように声をかけ、好ましくない行動には「それはやめて」と言い、「やめてくれてありがとう」と言います。(これが勇気づけです。)

「良い子」という言葉自体は、本来はあまり望ましくないとされていますが、息子には普段、その他の言葉に混ぜて使う事が多々あります。繰り返しますが、「○○してくれて助かった」とか「ありがとう」「嬉しい」なども普段からたくさん使います。息子にとって「良い子」は、無理しなくても手に届く言葉で、存在自体を受け入れてもらっているので、アダルトチルドレンにはなりません。

ありのままを認めているのか、結果の良し悪しに左右されているのかという違いは、子どもは敏感に察します。(アドラーでは、一貫性のある態度も重視しています。)子どもは親に気に入られたいと思っているので、悪い結果になった場合とても心を痛めています。良い時と悪い時で態度が変わる事は、言葉かけ以前で勇気くじきです。

ところで私は、他人のお子さんには「良い子ね」とは言いません。私の前だけ「良い子」と言われたいあまりに、無理に取り繕うようになると困りますので・・・。
いつも一緒にいる子どもだからこそ、安心して使えるのかもしれません。
が、もし結果のみに着目しない、という事を大前提にできないならば、確かに「良い子」は危険を孕んだ言葉です。一切使用しない方が安全であると思います。

アドラー心理学の講義では、多くがロールプレイング中心となります。
どんなに良い言葉をかけていたとしても、愛情が感じられなければ心に響く事はありませんし、相互間の尊敬と信頼関係があれば、ある程度の毅然とした態度も受け入れられると思います。

記載がもれましたが、毅然とした態度とは、決して人格を否定しない。感情が伴わない(冷静)行動のみに着目し、不適切な行動を阻止する・・・などの方法です。
脅したり、罰を伴ったり、行動を強制したりはせず、時に行動を選択する権利を与えます。

「私が迷惑と感じているので、携帯をしまって欲しい」「集中力がとぎれるので、電源を切ってほしい」などと、依頼する言い方がアサーティブな表現となります。受け止め方は、かなり違うはずです。

子どもが騒いでいる場合「静かにしなさい!」と叱る(怒る)のは逆効果。
毅然とした態度は、「うるさくて迷惑なので、静かにしてもらえないかな?」などの声かけをし、ダメなら黙って手をひいてきて座らせる・・・のような対応となります。

これらは通常、実際にロールプレイングを通じて体感し、正の注目や褒める、叱る、勇気づけと勇気くじきの違いを学びます。

しつこい様ですが、基本的態度や関係について理解せずに、行動や言葉だけを真似しようと思ってもうまくいきません。
初級を受講しないで中級あるいは上級だけを学ぼうと思っても無理ですね。
足し算を知らないで掛け算の筆算ができないのと同じ。

どこがどのように違うかを説明するのは、これ以上は文面では無理なので、アドラーの団体に行かれた方がよろしいと思います。
机上の空論には、無理がありすぎます!

手短と言いながら、長くなってしまいました。
 KIRIKOさん,

 ご丁寧な説明ありがとうございます。
 内容については理解できたつもりです。またすばらしい内容だと思います。それについて同意するということではないのですが。


1,
 子どもがぼくよりもアドラーを理解して,
 今はお母さんは,ありのままを認めて「よい子ね〜」と言っているんだ。  この人は,「ほめて」,ぼくに「おりこうさんやね」と言っているんだ,  と区別して受け取ることができるのでしょうか。


 に対しては
>> ありのままを認めているのか、結果の良し悪しに左右されているのかという違いは、子どもは敏感に察します。

 ということなのですね。
 ぼくには,子どもが察することができるのかなあ,という気がします。まあ,これも考えの違いなのでしょう。
 または,ぼくが「初級を受講しないで中級あるいは上級だけを学ぼうと」しているから,または,「理論の理解なしに言葉尻だけを捉えているから」なのでしょう。


2,
 このイニシアチブというのと,上下関係はどのように違うのでしょうか。

 についもまだ分かりません。
 これも,初級も受講していないからなのでしょうね。


 なお,KIRIKOさんが強調していることに関しては,次のトピにも関連があると思います。

「両立しない行動を強化する」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26144670&comm_id=1037793
2、これも態度の問題だと思います。

上下関係において、封建社会のように意見を聞き入れるという事はあり得ません。
有無を言わさず従わせる。
ちょっと古い例ですが、戸塚ヨットスクールが思い出されます。

Yojiさんは、生徒の都合で塾の休みを選択できるようにするなど、十分「よこ」の関係を築かれていると思います。

上下関係は、人間的に対等ではないのです。
親は子を私物化し、絶対的な存在の親の言う事にそむく事はできません。
良い時だけ褒め、思うような結果が出ない場合、人格を否定されます。(多くの場合)
子どもの感情に共感する事もないでしょう。個人を重視する事もありません。
態度が大きく異なります。
このような関係で育つと、悪い点のテストを親に見られないように捨てたり、大人のいる前といない所では態度ががらりと変わる、甘えられない、影で悪い事に走る、そして復讐の関係へと発展し、事件を起こすようになります。

上下関係で正の注目をする事は、まずないはずです。
ありのままを認めているのであれば、対等な関係になるからです。
前述の、子どもが理解できるかどうか、という事はこの態度の違いを示しており、子どもは賢いので生後まもない時期から、親の態度によって人格形成が大きく変わります。

例えば、こんな子を見た事がありませんか?
スーパーでお菓子を買ってくれ、と寝そべってだだをこねる子。
いつもいつも、いたずらや悪い事ばかりして親の気をひこうとしてする子。
授業中でも、やたらと騒いだり大声を出したりして注目を得ようとする子。などなど。

これらの不適切行動皆、「負の注目」による行動の強化、と考える事ができます。

寝そべってだだをこねるとお菓子を買ってもらえるから。
いたずらや、悪い事をしないと注目してもらえないから。
騒いで注目を得る事で安心するから。

だから、子どもは無意識に注目を得られる行動を取るようになる、という考え方です。

「態度」についての概念が基本中の基本、初級の部分なので、これらを理解すれば全てがクリアになるのではないでしょうか。

ちなみに「不適切な行動には注目しない」が、勇気づけの行動で「無視」が勇気くじきの行動です。
難しいと思います。
混乱しますよね(笑)
 KIRIKOさん,

>>>2、これも態度の問題だと思います。

 とあったので,以下に「イニシアチブ」のことが書かれていると思ったのですが,少なくともぼくにはまだまだ「イニシアチブ」が何なのか,よく分かりません。推理することはできます。

なお,2というのは,

2,
 このイニシアチブというのと,上下関係はどのように違うのでしょうか。

 というぼくの質問です。他のみなさんは読みとることができましたか?

 
 クリスさんのコメントに

「  場面によって関係が変わります。教室ではもちろん縦関係を要求します。そのためには先生らしい対応ができるように準備します。

 教室を出れば、横関係、たとえ相手が小学一年生でも。子どもからいろいろ教えられることが多いです。勿論不道徳をした時は、一気に縦関係になりますがね。 」

 というのがありました。

 教室では縦関係 これは,教師がイニシアチブをとること
 教室を出れば,横の関係
 不道徳をしたとき, 大人がイニシアチブをとる

 要するに,「イニシアチブ」とは結局「縦関係」なのだ,
 
 ぼくはこう推理しています。言葉の違いだけ。
 
だーかーらー

相手の人格や個人的意見を認めずに、相手が納得しようがしまいがお構いなしに、全て上の者の意見を通し、(命令し)従わせるのが上下・たての関係。

あくまでも相手の意見も尊重し、個人を認め、双方が納得いくように妥協する事もありながら、主導権(イニシアチブ)は指導者が握るのがよこの関係。

主導権(イニシアチブ)とは、無理やり納得していない周囲に、その都度命令をして従わせる事ではありません。
もし、無理やりたての関係で、力づくで従わせるのであれば、ある時限界が生じるでしょう。

イニシアチブをとる、という事は、命令ではありません。あくまで主導権を握るだけの事で、もし相手が従わない場合は無理やり押さえつける事はなく、アサーティブな表現を用いながら、別の方法で対処します。

例として、これはよく、夫婦関係にも用いられます。
夫婦は対等であり、双方の意見を聞きながらお互いに妥協し、支えあいながら長年連れそうのではないですか?
例えば子どもの教育においては、母親がイニシアチブを取り、社会の規範教育に関しては父親がイニシアチブを取る・・・というように、役割分担をしながらうまく家庭が機能している事は多いです。
誰かのわがままで、全ての意見を押し通して暮らしていたら、他の家族はとてもストレスフルな環境になるでしょう。
封建社会はそれでも良かったかもしれませんが、現代は民主主義ですので命令だけで全てがうまくいくとは思えません。
特に塾はサービス業で、選ばれる立場ですので、留意が必要かと思います。

ところでYojiさん、個人を尊重する、というのであれば、たての関係というのは、矛盾していると思います。

まあでも、もし理解できないのであれば、特にたてとかよことかこだわらずにご自身の方針を貫かれてはいかがでしょうか。
それで生徒がついてくるのであれば、それはそれで良いでしょう。
同意するもしないも、どちらでも良いと思います。
アドラーも近年有名になってきましたが、まだアドレリアンはごくわずかだと思います。

世の中の大半はグレー。白黒はっきりできる事ばかりではありません。
(これもアドラーカウンセラーに教わった事ですが。)
こと、心理・心の問題に関しては、1+1=2 のように明確な答が出るとは限りません。
自分が納得できる事だけを信じ、実践できる事だけを行えば、それで良いと思います。
再度,同じ箇所を「アドラー心理学入門」から,引用します。(p91〜92)


 私は大学でギリシア語を教えています。毎年、教科書を選ぶのですが、ギリシア語については、私は専門家ですから、かりに学生が「先生、この教科書は練習問題が少ないですから、これを使いませんか?」と申し出ても、おそらく断るだろうと思います。学問的にも教育的にも学生にとって最善の教科書を選んでいるのですから専門家の私としては譲ることはできないのです。

 しかし、どんな仕方で講義をするかについては、学生と相談します。講義形式なのか、それとも、学生が発表するという演習形式にするのかは、学生との相談の上で決めてもいいと思います。教師と学生は「同じ」ではありませんが、人間としては「対等」なのです


 この教科書選びは,イニシアチブですか?
この話の流れに沿うかわかりませんが、書き込みさせていただきます。

私は日々、子どもたちと同じ目線で指導を、と思っています。
というか、子どもより自分が上の立場と思うこと自体がなんだかよくわからないのです。
目の前にいるのは、ただただ自分より若い、経験が少ない人間がいるだけ。

私は、年齢や経験値、(または社会的地位等)が上だからといって、人との間に縦の関係が生まれる場面があるというのが、なぜそういうことになるのか感覚的によくわからないのです。


ですから私は自分の友達と接するときとあまりかわらない感じで子どもたちと接することになります。それは、相手を認める、というような大仰なものではなく、ただいっしょに隣にいるだけというかんじの関係。


ただし、生徒を指導するにあたって、なれ合いの関係を形成してそれでよしとは当然なりません。

そこで私は縦の関係を持ち出して子どもたちと接します。
子どもたちと話しているとき、要望を受けるとき、ある一線を越えた場合には、Yojiさんのように私の意見をはっきりと言い、私のやり方に従わせます。

そういうとき、子どもたちは、ほとんどの場合、私が一方的に提示するやり方に逆らわずに従います。彼らが従うのは、日ごろからの横の関係(やわらかな友達関係)がきっと背景にあります。彼らは私に嫌われたいとは思っていないと思います。また、私がひどい理不尽な要求をする人間ではない、と思ってくれていると思います。ですから、彼らは私が言うことに対しある程度理解を示した上で、自分の行動を私のやり方に合わせます。


YojiさんとKIRIKOさんのやり取りを見ていますと、お二人ともとてもいい先生なんだろうなあというのがすごく伝わってきます。
そして、お二人ともかなり共有する指導のあり方をお持ちでいらっしゃる、ただし、お二人は「縦(たて・上下)の関係」の定義のみにおいてすれ違いがあるんだと感じました。


私はどのように考えているかと申しますと、私はKIRIKOさんの言われるような横(よこ)の関係による指導がしたいと思っています。さらに言えば、人と接するとき、私はそういう関係しかつくることができません。

ただし私は指導をするときに、縦の関係を持ち出します。
基本的に横の関係しかありえない、と思っている私がここで「縦の関係」という言葉を用いるのは意図的です。

私が「縦の関係」を子どもたちに発動しているとき、私は一方的に子どもたちに何かを押しつけようとしています。これは私の心が感じることです。
一方で、子どもたちは日頃の私に対する安心からか、ある程度納得して私のやり方に従います。ですから子どもたちからみたら、もしかしたら「縦の関係」で押しつけたものではないかもしれません。

しかし私は感じます。私は「横の関係」の力を利用することで「縦の関係」を成就させた、と。ですからわたしはこのとき、「横の関係」に対して少し申し訳なく思います。

以上のことを考えると、私にとって、「横の関係」を大切にしながらも、自身が「縦の関係」を発動していることを意識しながら指導することは忘れてはならないことになります。そうでなければ、自然だと思っている「横の関係」までも、「縦の関係」に侵食されかねないと私事ながら思うのです。


以上、これまでのやりとりを見ながら思ったことを書かせていただきました。
 トバースさん

 ありがとうございます。

 とてもよく分かります。おっしゃるとおりだと思います。

 特に
「私がひどい理不尽な要求をする人間ではない、と思ってくれている」という部分は大切だなあと思います。

 その信頼関係があると,こちらからの要求を素直に子どもは従うのでしょう。

 ぼくとKIRIKOさんの違いは,定義の問題なんだろうな,という気がしています。それを確かめたいと思っているところです。
トパーズさん

素晴らしいですね〜!とても同感です!
人と接するとき、私はそういう関係しかつくることができません。

「素」でできるなんて、素敵ですね!
お人柄が伝わって来ました。

ちなみに指導中、人格・個人を無視しますか?つまり、「お前の考えや意見はどうでも良い。君達が考える事は皆間違っていて、自分の考えのみが正しい。」と、考え、全て命令形式で「○○をしなさい」と指導しますか?
もしそうであれば、指導中はたての関係に切り替えているのでしょう。

私は、思考力を育む為には、生徒が自ら頭で考え、結果を出す必要があると思います。単に上から「教え込み」をされただけでは仮に「わかる」にはなると思いますが「できる」ようにはならないのではないか・・・というのが私の考えであり方針です。従って、学習は主体的である事が望ましい。そういった意味で、おのずと指導法が違って来るのかもしれません。

私は指導中、それぞれの意見を大事にします。
個別指導と集団授業の違いでもあると思いますが、個々の生徒とコミュニケーションを取って、極力その時にやりたい学習ができるようにします。
しかし、もちろん、意見を鵜呑みにする事はなく、「今日はこの単元の履修が必要なので、このプリントを学習しましょう。」と本人を納得させてから渡します。どうしても納得しない場合は、例えば一枚ではなく半分、または一問・・・などと双方の妥協点を模索します。
仮に無理やり押し付けた所で、こっそりとやらないで帰ろうと思えばできる(かもしれない)し、終始聞きに来て一時間説明をしなければならない状況や、何時間も教室に居座られる事は、私にとっても迷惑だからです。
上記のやり方を、上下・たての関係で行うとすると「今日はここまでを必ず終わらせなさい。終わらなければ終わるまでやりなさい。」になり、どんなに頑張っても結果が間違っているのではやった意味がなく、正解を出す事のみに意義があると捉えます。

一方私は、結果はどうあれ、努力した事や自分の頭を働かせて一生懸命考えた事自体が大切である、と考えます。
間違った問題があっても、答を教える事はせずに(ヒントを与える事はあっても)自分の力で解いてもらいます。そうする事で達成感を味わってもらう為です。他力本願では、問題は克服できないと思いますので・・・。

指導法に関しては、集団か個別かの違いもありますし、一概には言えないと思いますが。

教育学の基本は「規律を守らせる」という所にありますので、たての関係がベースにあると思います。しかし、今回の教科書改訂以前でも指導要領の最終目的は「コミュニケーション能力の向上」。
生徒が誰に対しても、アサーティブに問題提起できるようになっています。学校も封建社会ではありません。

トパーズさんの授業も、よこの関係を保ちつつ、毅然とした態度とイニシアチブを取っているのではないか、と想像しますがいかがでしょう・・・?

よこの関係というと、皆が自由に振舞う学級崩壊の様な状況を想像しますか?
実際は、そうではないですね。
私の教室も、勝手な行動は許されない、というルールに基づいて毅然とした態度を貫いておりますので、至って真面目で静かに学習しています。
Yojiさん

>学問的にも教育的にも学生にとって最善の教科書を選んでいるのですから専門家の私としては譲ることはできないのです。
 しかし、どんな仕方で講義をするかについては、学生と相談します。講義形式なのか、それとも、学生が発表するという演習形式にするのかは、学生との相談の上で決めてもいいと思います。教師と学生は「同じ」ではありませんが、人間としては「対等」なのです。

正に、よこの関係で教師がイニシアチブを取りながら学習を進めるという典型だと思いますが、何か?
「人間としては対等、生徒と相談しながら進める」と記載されていますよね?人格を否定して、などとは書いていません。
教師としての毅然とした態度を取りながらも、講義形式を皆で相談しながら進める、というよこの関係です。

セルフ形式の塾では、生徒が主体性を持っているのではないのでしょうか?
Yojiさんのスタイルがわからないので何とも言えませんが、どのあたりが「たて」と思うのでしょう?

指導者は人間的に「偉い」ですか?
たての関係でないと、指導できませんか?
いくら努力しても、結果が伴わない努力は無意味ですか?
自分の頭で考えなくても、言われた事だけに従えばそれで良いですか?
生徒は自身の行動を選択する自由がなく、常に「○○しなさい」と指示された事のみに従うのでしょうか?
もし生徒が、自らの意思で行動する事が全くなく、黙々と命令に従っている(奴隷と同じです。)のであればたての関係なのでしょう。

私は、指導者であっても人間である事には変わりない為、完璧であるとは思いませんしコンディションも最適でなければならない、とは考えません。完璧な人間なんていないのだから、できない事や知らない事、わからない事があっても当たり前・・・と思いますし、眠かったりお腹が空いていたり、色々ありますしあって当然だと思っています。
つまり、人間として対等であると考えるかどうか。

子育ても同様。
親は完璧である、とたての関係を強いられていた場合、いずれ成長と共に子どもが親が完璧ではないと悟った時、失望と共に復讐の関係に発展する事があります。

もし、先生は完璧・・・と思わせておいて、何か欠点を見つけた場合、生徒の信頼はどうなるのでしょうか・・・。「自分は、全てにおいて完璧に行うべきで、間違える事が許されない」と思っていると、人生しんどいと思いますが?

もしかしたらこのような、考え方の違いや態度の違いなのではないですか?
もし違っていても、別に否定するつもりもありませんし、あえて定義の違いなのか指導法の違いなのかどうなのか、行っている事が同じなのか違うのか、etc・・・を確認する必要も、私はないと考えます。

最近流行りの「指示待ち症候群」の増加は、いかにたての関係で、先回りや命令されて来たかを示します。

アドラー心理学での子育ての目標は「自立した子に育てる事」で、幼少期から行動決定権を与え、責任を自分で取るという、自発的な行動を促します。

そういった意味で、よこの関係を築きながら、子どもを自立させる指導は学力向上に有効であると、私は一貫して主張しています。
たての関係で、常に命令されてそれに従っているうちは、自立できないと考えます。

しつこい様ですが、それを受け入れるのも受け入れないのも自由ですし、理解するのも理解しないのも、実践するのもしないのも、私は特に関与しません。
定義だけの違いだと思われるならばそれで良いでしょうし、もっと根底な部分の相違だと思われるならそれはそれで。
同じ事をする必要はないし、同じ価値観や方針である必要もない。
「わけわからない事を言っているなぁ」と思われても、一向に構わないのですが・・・。
 またまた,同じ箇所を「アドラー心理学入門」から,引用します。(p91〜92)

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 私は大学でギリシア語を教えています。毎年、教科書を選ぶのですが、ギリシア語については、私は専門家ですから、かりに学生が「先生、この教科書は練習問題が少ないですから、これを使いませんか?」と申し出ても、おそらく断るだろうと思います。学問的にも教育的にも学生にとって最善の教科書を選んでいるのですから専門家の私としては譲ることはできないのです。

 しかし、どんな仕方で講義をするかについては、学生と相談します。講義形式なのか、それとも、学生が発表するという演習形式にするのかは、学生との相談の上で決めてもいいと思います。教師と学生は「同じ」ではありませんが、人間としては「対等」なのです
 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 ここには,二通りの関係があります。

 人間として「対等」な関係 ・・・ それについてはまったく同感です。これはKIRIKOさんが繰り返し書いています。それに反論するつもりはさらさらありません。ぼくも強調したいくらいです。

 もう一つの関係が書かれています。
 「教師と学生は『同じ』ではありません」
 「専門家の私としては譲ることはできない」
 「(学生の申し出を)おそらく断るだろうと思います」
  という言葉で表されている関係です。

 教師は,人間としては生徒と「対等」ですが,教える,教えられるという立場で言えば「同じ」ではないのです。
 教師はそれだけの知識,経験を持っています。持っているからこそ,それを持っていない生徒に教えることができるのです。
 知識を持っている教師と持っていない生徒は,同じではありません。そういう意味で,教師は生徒の上に立ちます。
 知識を持っているから人間的に偉いという意味では決してありません。

 そして,どの教科書を用いるかについては,生徒よりもよく知っています。だから教科書を選ぶことに関しては「譲ること」ができないのです。
 だから,申し出を「断る」こともできるのです。

 「譲ることができない」ということは,生徒との間で妥協点を見いだそうと話し合うことはありません。もし,話し合うような態度を見せるのであれば,偽善です。最初から「譲ることはできない」のですから。
 もちろん,生徒が納得するようにできるだけ話をすることは必要です。
 「ぼくはこの本をこうこういう理由で教科書に選んだ。だから,それを使うのです。理解して欲しい」と。

 でも,あくまでも教科書選びの決定権は教師が持っています。生徒にはその決定権はありません。それが「譲れない」ということです。

 決定権を持っている教師は,持っていない生徒の上に立ちます。だから上下関係にあるのです。もちろん,人間的にではありません。

 人間としての「対等な」関係と,教師,生徒の「同じでない」関係,それをきちんと理解して,使い分けることが大切ではないでしょうか。

 ぼくはここに引用した部分はそう解釈しました。 
KIRIKOさん

>ちなみに指導中、人格・個人を無視しますか?

私は個別指導を週に20人ほど、集団授業を週に24時間ほどやっています。
私は集団授業のとき、子どもを集団として見ないように授業を進めています。
私は一人ひとりに話しかけているんだという気持ちで授業をしています。
ですから、授業で集中していない子に注意する場合、「○○さんに話してるのに無視しないで」という言い方になります。そういう意味で、徹底的に個人を無視せずに授業を進めているつもりです。
個別指導では言うまでもなく対等な関係で指導をしています。生徒の要望も頻繁に聞き入れます。生徒がおとなしい子の場合はこちらから率先して生徒が望むやり方を見つけてそれにあわせます。


>私は、思考力を育む為には、生徒が自ら頭で考え、結果を出す必要があると思います。

私もまさにその通りだと思います。私はいつも「自分の頭で考える」ということを、合言葉のように子どもたちに主張しています。


>しかし、もちろん、意見を鵜呑みにする事はなく、「今日はこの単元の履修が必要なので、このプリントを学習しましょう。」と本人を納得させてから渡します。

私の指導のしかたもそのような感じです。常に、「あなたの考えは決して無視しない」という態度を取ります。
ただし、指導方針について子どもと話し合いにはなりません。私がこうやろうと言ったことに子どもたちはほとんど有無を言わさず従います。子どもたちは私がやれと言ったことは、まずやって間違いないと思っているか、または心情的にも論理的にも逆らうことが難しいと思っているのだと思います。
結果的に私はここで隠れた強制力を発揮しているのだと思います。子どもが従うというのはそういうことではないかなと思います。

以上の指導の仕方は、KIRIKOさんの仰る「よこの関係で教師がイニシアチブを取りながら学習を進める」というやり方になるかもしれません。(そこまでいい指導かどうかは自信はありませんが。)
また、Yojiさんの言い方で言えば人間として「対等な」関係を築きながらも、教師・生徒の「同じでない」関係を意識した指導をしているということになるかもしれません。(これまた聞こえが良すぎて恐縮ですが。)


>私の教室も、勝手な行動は許されない、というルールに基づいて毅然とした態度を貫いておりますので、至って真面目で静かに学習しています。

いいお教室ですね。私もそうであるように、子どもへの指導をがんばっているところです。
Yojiさん

>人間としての「対等な」関係と,教師,生徒の「同じでない」関係,それをきちんと理解して,使い分けることが大切ではないでしょうか。

言い方は全く異なるのですが、私が先のコメントで

>私にとって、「横の関係」を大切にしながらも、自身が「縦の関係」を発動していることを意識しながら指導することは忘れてはならないことになります。

と言ったのは、私の中ではYojiさんと同じような意味においてです。
「縦の関係」と言うと、不穏当な響きになるかもしれませんが、「同じでない」関係と言えば、ずいぶん印象が変わりますね。
26,27 のトパーズさんのコメント,とてもよく理解できます。

 
初めてコメントします。

縦の関係、横の関係皆さんの意見には
とても納得させられます。

わたしは、アドラー心理学というのは
よく知りません。
ただ、KIRIKOさんの
お話はとても共感できました。

本来的には、生徒と講師の関係というのは
縦の関係なのでしょう。

ただ、横の関係も必要で、
どちらがいい悪いという話でもないような気がします。


場面や状況に応じて講師のがわが、チャンネルを変えて
生徒への対応を変えればいいだけの話ではないでしょうか。


相手の発達段階や、
相手にとってその場が安全であるかどうかによっても
子どもの反応は違ってくるでしょう。

子どもは
攻撃されれば動物的な反応

身構える
防御する
反撃する

などをするでしょうから、縦の関係であっても
相手が安全だと思える環境があればいいと思います。


この場合の安全とは
「発言されたことが否定されない」
「一旦は自分の発言を受け入れてもらえる」
程度のものですが。。。


ちなみにわたしは
生徒に対して
「○○させる」「○○すべき」という表現はほとんどしません。
「〜してもらえるかな」「〜だと嬉しいな」

という言い方は頻繁に使います。


 いってつさん

>>相手にとってその場が安全であるかどうかによっても

というのは,教師と生徒の間に信頼関係が築かれているということだと思います。

 それは,

 トバースさんの

>>私がひどい理不尽な要求をする人間ではない、と思ってくれている」という部分は大切だなあと

 同じことだと思います。

 それぞれに言葉は違うのですが,やはり大切なことだと感じているのでしょうね。
皆さんの貴重なご意見、ご尤もだなぁ〜と思いつつ拝見しました。とても素敵な先生方なのであろうと想像致します。

この場で関係論を唱えても仕方がないと思います。
結果的に、皆、生徒を尊重し、一個人として認めながらできるだけ自発的に学習ができるように配慮されているのではないかと思います。

それを、アドラー心理学では「よこの関係を築きながら、毅然とした態度を用いて指導する。」「子ども達に勇気づけという技法を用い、自立したやる気のある子に育てる。」などと申します。

その理論には、たてとよこの関係ではどのように態度が違うのか。命令と毅然とした態度の違い、勇気づけと勇気くじき、正の注目と負の注目 等々・・・。様々な定義があり、最終的には自立を目指しアサーティブに自己表現しながら共同体感覚=社会と調和する という目標に向かいます。

前述の先生方の指導法は、皆、きちんと生徒という個人を尊重しておられるので、皆さんアドラー的に言えばよこの関係を築かれていると感じます。

Yojiさんの
>もちろん,生徒が納得するようにできるだけ話をすることは必要です。
 「ぼくはこの本をこうこういう理由で教科書に選んだ。だから,それを使うのです。理解して欲しい」と。

この時点で、すでによこの関係による「毅然とした態度」をとられています。
妥協とは、方法を変える事だけではなく「相手を納得させるように伝える」という妥協策もあるからです。

万が一、たての関係であれば、このような説明は一切なく、単に命令するにとどまります。「うるさい。子どもが何を言う。何も反抗せずに私に従えば良い。」という態度です。

たとえ子どもであっても、相手を個人として尊重しているから、選んだ理由等をきちんと説明されているのでしょう。この関係は、決して生徒の上に立っているわけではありません。つまり、対等な人間として扱っている、という事です。
きっと、アドラー理論をもう少し学ばれると理解される時が来るでしょう。

まあそれでも、Yojiさんが上下関係にこだわるのであれば、それはそれで良いのではないですか。
人間的に対等だけれども、子どもと教師が同じではない。子どものやりたい放題ではなく、主導権は教師にある。実にわかりやすく理想的な関係です。

指導者の威厳を保つ為に、あえて「上下関係」としか認める事ができないのでしょうが、アドラー心理学において「たての関係」とは、もっともっと違った関係となります。

余談ですが、今日は時津風部屋の力士死亡事件の初公判でしたね。
このような関係が「たての関係」です。
親方の指示には逆らえず、死に至るまでリンチを行う。親方の命令は絶対で、理由を説明する事などないでしょう。リンチを受ける力士の人格も、リンチを行う力士の人格も否定していると感じます。

こちらの先生方の塾は、時津風部屋のような人間関係ではないと思うのですが?

この数年、アドラーも少しは有名になってきたかと感じますが、まだまだ浸透していないのだな、と感じ、私も良い勉強になりました!
KIRIKOさんのおかげでアドラーを知り、現在、ドライカーズの本を読んでいます。子育て中の私にとってはバイブルになりそうです。何故、もっと流行らなかったのか不思議です。
良い本の紹介、ありがとうございます。コメントも楽しく読ませてもらっています。

トピに触れると、私は「縦の関係」で塾を運営しています。長く塾をやっていますが「毅然とした態度」がやっと取れるようになりました。ただし、命令口調は使いません。
この手の議論は難しいですね。「たて」という言葉の意味が皆違うようで。

ちなみに「いってつ」さんは私の友人です。

 はい,ぼくもとてもいい勉強ができました。

 いろいろ書いてきましたが,ぼくはもうこれで終わりにしたいなあ,と思っているところです。

 このコミュは,いろいろ自分の意見を勝手に書いて,意見交換をして,その中から少しでも自分のためになるようなことを見つけることができればいいというところだと思っています。一つの結論を出す必要はまったくありません。

 だから,今回もそれぞれの意見があるでしょうが,後は自分で整理して自分なりの結論を出せばいいのではないでしょうか。

 みなさん,どうもありがとうございました。

 もちろん,何か書きたいことがあれば,どうぞご遠慮なくお書き下さい。まだまだつき合いますよ。

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