人は、感情に流されやすい生き物で、後から考えれば「なんであんなことしてしまったのか?」と後悔することが多い。
とりわけ心に悪を思う時「誰も見ていない」と思いやってしまうと、平常ならしないような誤った判断をし、そのことで後から苦しむ羽目になる。
しかしその判断をする時は「ズルであってもこれは目的のための方便だ」と自分を納得させてしまう。
人間は、自己中心的になる時、失敗する。
普段は、自分の中に常識があっても、その常識は「誰も見ていない」「今だけ」との甘い誘惑に、簡単にも崩されてしまう。
「他人に言えないこと」は、やらない方がいい。
もし身近に話を聞いてくれる人がいれば、その人に自分のやろうとしていることを話せるかが一つの目安になる。
恥ずかしくて話せないようなことは、やらない方がいいし、逆に話せることなら、話す時点で10中8,9、やっても問題はない。
ただ人は一人になり「誰も見ていない」と思うと、恥ずかしいこと、つまり愚かなことでも平気でしてしまう。
だから「誰も見ていない」と思った時、「いやいや神様は見ている」と考え、自分の胸に手をあて神様に問うてみる。
ただこれだけで、愚かな失敗の9割は防げると思う。
祈るとは、神様にお願いすることではなく、神様との対話。
自分の基準は自分に都合がよいふうに絶えず揺れ動く。厳密に言えば、心の表面では揺れ動くが、心の奥底は固まっているので、それが恥じらいという形で現れる。
ただ恥じらいは「自分がそんなことを考えていると知る第三者がいる」と思うから感じるものであり「誰も見ていない」と思えば消えてしまう。
本当は誰でもない自分自身が自分を見て恥じているのだが・・・。
人間は弱い存在で、自分の良心より、易きに流れてしまう。
他人と対話する時は、誰でも相手の価値判断の基準を考えるものだ。
自分の基準ではなく神様の基準を思う。それが祈るということ。
何か判断する時は、胸に手を当て、神様と対話する。
祈れば、神様は答えてくれる。それで恥じ入るなら、やらない方がいい。
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