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2020年05月26日09:10

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連続ブログ小説 淋しい生き物たち−少女の欲しかった日 第39話

 支度を済ませ、ホテルを出た。バスに乗ると乗客は彼とハリだけだった。気の好さそうな初老の運転手で、「どちらに行かれますか?」とバスを走らせながら尋ねてきたので、「硫黄島へ」と答えると、「それなら高速船ターミナルが近いですね」と言う。先日の欠航のときにはひとつ手前で降りていた。バスが市街地を抜けて港に入り、フェリーみしまの乗船場近くを通過するとき、
「ここで降ろしてあげられたらいいんですけど、そういうわけにもいかないんで、申し訳ないですねぇ」と運転手は申し訳なさそうに言う。大した距離ではないので別にそうして欲しかったわけではないが、乗客はふたりだけ、辺りに人影もない。バスを止めてドアを開けるくらいたった何十秒の話だが、きっと真面目なおじさんなのだろうと、彼はかえって好ましく思った。
 先日は入ることを拒まれた待合所に入り、すぐに窓口であさっての運航予定を尋ねてみる。もうひとつ要領を得ない説明だったが、購入申込書を書くように言われたので往復の乗船券を2人分と書いて提出するといつ戻るかと訊かれ、あさっての日付を言うとそのままチケットに書き込んだので、どうやら今のところは往復便が運航することになっているようだった。
 フェリーみしまは待合所のすぐ目の前の岸壁に横づけされていた。
「わぁ、大きな船だね」とハリは言ったが、フェリーとしまよりは少し小さなフェリーだった。待合所の中や船の前にもわらわらと人がいたのでまだ乗船が始まっていないのだと思って待っていたが10分前になっても動きがないのでタラップの前にいた係員に尋ねてみると、「もう乗れますよ。そろそろ乗船終了です」と言われ、待合所の前に置いていた荷物を慌てて取りに走った。わらわらしていた人たちは見送りの人たちだったのだろうか。
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 二等船室は雑魚寝スタイルだが、乗客は20人にも満たないほどで、外にいた人たちの方が多かった。静かな船内に、「敬老席」に指定された区画にいる老婆たちの元気な世間話が響いていた。
 定刻になって「出航しまーす」と間延びしたアナウンスが入り、素晴らしく晴れ渡った空の下、嘘のように凪いだ海を割って船は動き始めた。これから硫黄島まで4時間ほどの船旅だ。                                
船室になどいる必要はない。屋上デッキに出ると風は心地よいが寒いくらいだった。ハリは自然に彼の腕に抱き着き、彼が驚くと、言いわけをするように震えて見せた。
 右手前方に開聞岳が見える。青く霞んだような美しい山容を見てハリが言う。
「あれが開聞岳? きれいだぁ。青い山脈だね」
「ま、脈ではないけど、ぼくの好きな山だよ」
 船はこれから鹿児島湾を南下し、硫黄島から戻った翌日に行ってみようかと思っている指宿を通過して大隅海峡から外海に出る。携帯で地図を見てみると、陸地からでは望むことのできない、開聞岳の全容をやがて目にすることができるはずだ。彼は開聞岳が大好きだと言っていたひとりの友人を思い出し、海からしか見ることのできないその姿を撮っておこうと思った。

【作中に登場する人物、地名、団体等にモデルはありますが、実在のものとは一切無関係です。】
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