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2019年01月24日01:15

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歌枕紀行「大谷祖廟」11

 西行さんの古跡からさらに登った先に、たいそう立派なお寺が見えてきます。ここは、浄土真宗の教祖・親鸞(1173-1262)が最初に葬られた場所。元日だけに、信徒さんが大勢参拝に来られていて、それに交じって私も中へ・・・。

 青年西行さんが双林寺の庵(イオリ)を出て、和歌を口ずさみながら日本中を放浪して、「年も取ってきたし、そろそろ落ち着こうかなぁ・・・」と考えている頃に、親鸞さんは生まれました。幼くして僧侶を志して比叡山に登りますが、何十年も苦行を耐え抜いた挙げ句に、「こんな事してて、ほんまに成仏できるんか?」という根本的な疑問にブチ当たります。

 下山して進路を考えあぐねている時に、「"南無阿弥陀仏"と唱えたら、誰でも往生できまっせ〜ぴかぴか(新しい)」という、かなりアブナイ教えを吹聴していた法然(1133-1212)に惹かれて、弟子入りします。当時の社会は、永遠に続くかと思われた平安王朝が、武家によって徐々に政権を奪われ、新たな価値観が模索され始めていた頃で、その影響もあるよう。「やっぱ、これからはAIでしょ!」みたいなむふっ

 親鸞さん自身は、教団化にあまり関心がなかったようですが、亡くなった後、残された家族や弟子たちは、遺骨を信仰対象として教団を作り始めます。「肉体はゴミのような物で、何の価値もない」とする仏教に矛盾するようですが、カリスマが亡くなると、いつの時代もそうなってしまうのが人間の性(サガ)なのかも・・・。

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●聖人、弘長二歳仲冬下旬の候より、いささか不例の気(ケ)まします。
(親鸞聖人は、弘長二年の十一月下旬のころより、いささか病気の兆候があられる。)

 自爾以来、口に世事を交へず、ただ仏恩の深き事を述ぶ。
(それ以来、話す言葉には世間の事を交えず、人生において仏恩が深い事だけを述べる。)

 声に余言を表さず、専(モハ)ら称名絶ゆる事なし。然(シカ)うして、同第八日
(また余計な声を出さず、ひたすら「南無阿弥陀仏」の称名を唱え続ける。そのようにしながら、同月二十八日に)

 頭北面西右脇に臥し給ひて、遂に念仏の息絶え終りぬ。
(おもむろに頭を北に、体を西に向け、右脇を下にして横になられると、遂に念仏の声が途絶えてしまった。) 

 于時、頽齢九旬に満ち給ふ。禅房は長安馮翊の辺なれば
(時に、お年はちょうど九十であられる。亡くなられた寺は京の中なので、葬儀のために)

 遥かに河東の路(ミチ)を経て、洛陽東山の西麓、鳥辺野の南のほとり
(遥かに鴨川を越えて遺体を運び、京の東山の西ふもと、鳥辺野の南のほとりにある)

 延仁寺に葬し奉る。遺骨を拾ひて、同山の麓(フモト)、鳥辺野の北辺
(延仁寺で火葬を行ない申し上げる。それから遺骨を拾って、東山のふもと、鳥辺野の北方の)

 大谷にこれを納め終りぬ。然(シカ)るに、終焉に遭ふ門弟
(大谷にこれを埋納し終えた。その際には、臨終に立ち会った門弟たちや)

 勧化を受けし老若、各(ヲノヲノ)在世の古時(イニシヘ)を思ひ
(教えを受けた老若の人々が、互いに在世のころの聖人に思いを馳せ)

 滅後の今を悲しみて、恋慕涕泣せずと云ふ事なし。
(亡くなられた今を悲しんで、みなが恋慕し涙を流していた。)


【覚如】1271-1351、親鸞の末娘・覚信尼の孫。12歳で比叡山に入門した後、奈良の興福寺で出家。徐々に親鸞の教えを学び、後継者として教団化を志す。浄土真宗の実質的な教祖。『御伝鈔』は、親鸞の生涯を描く『本願寺聖人伝絵』に覚如が添えた詞書
【弘長二歳】1262年、亀山天皇の治世。嘉禎元年(1235)、関東の布教から戻った親鸞は、長らく著作に励んでいた
【称名】阿弥陀如来の浄土へ往生することを願う
【頭北面西右脇】ブッダ入滅の際の姿という
【禅房】親鸞の実弟が住む寺。京都御苑の南方、中京区・虎石町の辺りか
【長安馮翊】"京都"を中国風に呼んだもの
【延仁寺】不詳。真宗本願寺派では、鳥辺野にある西大谷廟の地とする。真宗大谷派では、記述に即して近代に、阿弥陀ヶ峰の南方に寺を再興した
【大谷】大谷祖廟の地。師の法然が亡くなった場所でもある。この10年後、遺骨は覚信尼によって、やや北方(知恩院の黒門付近)に移されて廟堂を建立。その孫の覚如が「本願寺」と号して、ここに教団化が始まる

                             『御伝鈔』下巻・第6段

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