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2018年08月18日00:38

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『河神の娘の物語』第4話

『河神の娘の物語』第4話

 カリロエは機織り機の前に座っていた。だがその手は布を織ろうとはせず、暗い面持ちのまま石像のように制止している。
「カリロエ」
 懐かしい声に、カリロエは振り向いた。父のアケローオス河神が部屋の入り口に立っていた。その腕には、カリロエが産んだ幼い息子を抱いている。
「嘆き悲しむのもいいが…、子供たちの世話はちゃんとしてやれ。放置しては可哀想だ」
 父神の腕に抱かれた幼子がぐずる。
「ははうえ〜…」
「ああ、アカルナン。ごめんなさい」
 カリロエは父神から息子を受け取り、抱き上げて体を揺らし、息子をあやした。
 カリロエと結婚した後、アルクマイオンはアケローオス河のほとりに住み着いた。彼は自ら畑を耕し、羊を飼い、慣れぬ農作業を、それでも懸命に行った。カリロエも羊毛を紡ぎ、布を織り、オリーブ油を搾って、二人はつつましい生活を始めた。狼が近くの村人たちの家畜を襲うと、アルクマイオンは得意の武技を発揮して狩りを行い、獣を退治した。村を襲う野盗も、彼と、彼が組織した村人たちが撃退した。やがてアルクマイオンは周辺の村人たちを集めて丘の上に新しい集落を作り、石垣を積んで村を囲ませ、野盗や獣の害から村人たちと家畜を守るようにした。いつしか、彼は集落で欠かせぬ中心人物となり、村人たちの尊敬を集めるようになっていた。
 平穏な暮らしが続く中で、カリロエは二人の息子を生んだ。兄はアカルナン、弟はアムポテロスと名付けられた。
 その暮らしが終わったのは、アルクマイオンが妻との会話で、ふと「ハルモニアの首飾りと長衣」のことを口にしたのがきっかけだった。
「その首飾りと長衣…私、欲しいわ」
 カリロエはそう言い出した。会ったこともないアルクマイオンの先妻への対抗心と嫉妬心が、彼女にそう言わせた。
「今のあなたの妻は、この私なのよ。私があなたの正妻だという証に…、あなたが私を愛しているという証に、その宝物を私に下さいな」
 アルクマイオンが渋ってみせると、カリロエはますます二つの宝物に執着し、口をとがらして子供のようにすねてみせた。
「『ハルモニアの首飾りと長衣』をくれないのなら…私、父のところに帰ります」
 つん、と顔を背けて離縁までほのめかす若妻に、アルクマイオンは苦笑とともに折れた。自分を愛しているからこそ先妻に嫉妬してこう言っているのだと思うと、いじらしく、可愛いわがままだと思ったのだ。
「分かったよ、カリロエ。ペーゲウス王のところに行って、『ハルモニアの首飾りと長衣』を返してもらうことにしよう」
 そう言ってアルクマイオンは従者とともにアルカディアに旅立った。そして、二度と戻ってくることはなかった。
 アルクマイオンは、「『ハルモニアの首飾りと長衣』をデルフォイに奉納する。そうすれば私は狂気から解放される」と嘘をついてペーゲウス王に宝物の返還を求めた。しかし従者から、彼が実は新しい妻のカリロエに宝物を与える気だと聞いたペーゲウス王と二人の息子たちは激怒し、アルクマイオンを殺害したのだ。さらに彼の先妻のアルシノエがそのことに抗議すると、彼女をアルクマイオンの殺人犯として奴隷に売り、「ハルモニアの首飾りと長衣」を奪い取った。
「…あんな忌まわしい宝物など、望まねば良かった。アルクマイオン様が傍にいてくれたら、私はそれだけで十分に幸せだったのに…!」
 自分の愚かさをカリロエは嘆き、呪い、泣いた。アルクマイオンの死を聞かされてから、彼女は深い悲しみの中で日々を暮らしていた。全ての喜びが、重く暗い灰色に塗り潰された。
「ははうえ、なかないで」
 先程までぐずっていたアカルナンが、今度は泣く母親を必死に慰めた。
「カリロエ…」
 アケローオス河神は泣き続ける娘に言った。
「出かける支度をしなさい」
「え…?」
 顔を上げていぶかしむ娘に、父神は説明した。
「オリンポスのゼウスの宴会に招かれている。お前も来なさい。子供たちは乳母と、お前の姉妹たちが見てくれる」
 突然の父神の誘いに、カリロエは困惑した。
「お父様…私…」
 そんなところに行く気にはなれない、とカリロエが言う前に、アケローオス河神が言葉を続けた。
「お前には気分転換が必要のようだ。毎日、嘆き暮らしていては体にも悪い。オリンポスの宮廷の華やかな雰囲気に触れれば、お前の気も少しは晴れるだろう」
「でも…」
 ためらうカリロエに、父神は優しく笑んで言った。
「いいから、来なさい」
「…はい」
 こうしていささか強引に父神に連れられて、カリロエはオリンポスのゼウスの宮廷に参上することになった。

 オリンポスにあるゼウス神殿の大広間は、大勢の神々で埋め尽くされていた。
 ずらりと並んだ青銅の美しいテーブルの上には、珍しくも豪勢な料理となった神食(アンブロシア)がこれでもかと並べられている。ゼウス神が見初めて天に召し上げた美しきトロイアの王子ガニュメデスが、客たちに芳醇な神酒(ネクタル)を酌して回る。大広間の中央では芸術の女神ムーサたちが世にも妙なる音楽を奏で、優雅の女神カリスたちが輪舞を踊っていた。興が乗ってくるとアルテミス女神が彼女らの踊りの輪に加わり、音楽の神アポロンが竪琴の音を添えた。酔った神の中には椅子から床に転げ落ちそうな者もおり、中には女官のニンフたちに好色そうな目を向ける男神もいる。
 目にも綾なるきらびやかな衣装の数々、明かりにきらめく宝飾品はどれも見事な細工で、部屋を満たした香気は時には甘く、時にはさわやかで、いずれも鼻腔に心地いい。壁上部の帯状装飾は黄金と象牙で作られ、上の方が太くなった柱は朱で塗られて白銀と琥珀の飾りがつけられている。磨かれた床には深い深い真紅の敷物が敷かれ、その上には赤と白と淡紅色の薔薇の花びらが散りばめられた。壁は色彩豊かなフレスコ画と、とりどりの色糸で刺繍が施されたタペストリーで飾られている。神殿を満たす全てが、贅と善美を尽くした華麗なものだった。
 アケローオス河神とカリロエは、末席のほうで宴会に参列していた。鮮やかな濃青色から薄青色のグラデーションをつけた衣装を身にまとい、髪を結い上げて銀と青玉の髪飾りをつけ、髪飾りとそろいの首飾りを首に掛け、化粧を艶やかに施して盛装したカリロエだが、これ以上ない華やかな雰囲気にも、心が晴れることはなかった。沈んだ顔でカリロエが父神と同じ長椅子についていると、女官が一人やってきて、アケローオス河神に耳打ちした。
「…ヘラに呼ばれた。ちょっと挨拶してくるよ」
 ゼウスの正妻である女神ヘラは、アケローオス河神の父親である大洋神オケアノの養女でもある。父神が席を外した間に、カリロエもまたこっそりと大広間を抜け出して、人の気配がない回廊を一人で散策した。
『…やっぱり、どうしても気が乗らないわ、こういう場所は…』
 豪華すぎる雰囲気に気後れを感じ、カリロエはため息をついた。
『昔の私なら…きっとここの華やかな空気に夢中になってはしゃいでいたわ。でも今は…』
 何よりも愛する夫の死が、自分のせいでアルクマイオンが死んだのだという罪の意識が、カリロエの心に重くのしかかっていた。
「…浮かない顔をしているな」
 声をかけられ、カリロエははっとなった。顔を上げると、回廊にはこの神殿の主人が、天の主権者である大神ゼウスが立っていた。
「…ゼウス様…!」
 慌ててカリロエは大神に礼をとった。
「アケローオス河神の娘、カリロエだな」
「は、はい…!」
 思いもかけぬゼウスとの邂逅に、緊張でカリロエの声が震えた。
「そう固くならなくてもよい。ずっと暗い顔をしているが、私の宴は気に入らなかったかな?」
「い、いえ…。そういうわけでは…」
「ふむ…」
 ゼウスは少し首をかしげて言った。
「夫君のことは残念だった」
「…ご存じでしたか」
「亡くなった夫君のことを、まだ想っているのか?」
「……」
 カリロエは返事をしなかったが、悲しそうに視線を伏せた。
「貞節なことだ」
 ゼウスはカリロエに近づき、彼女に手を差し伸べるとその繊手を握った。
「だが人間というのは、いずれ死ぬもの。いつまでも悲しむのは良くない。早く新しい喜びを見つけることだ」
「はい…ですが…」
「お前のような美しい女には、そのような悲しい顔は似合わぬ。どうだろう?お前が笑顔になる手助けを、私にさせてくれないか?」
「ゼウス様…」
 カリロエはゼウスの目を見つめた。昼空のような男の瞳には、好奇の色と、情欲が入り混じって浮かんでいた。
「それでしたら、お願いがございます」
 カリロエは勇気を出して、口を開いた。

 広間から消えた娘を探していたアケローオス河神は、回廊の一角で大神ゼウスと出くわした。
「ゼウス様」
 礼をとるアケローオス河神に、ゼウスは上機嫌で言った。
「アケローオス、お前の娘は、なかなか激しいな」
 その言葉にどういう意味があるのか、アケローオス河神はゼウスの意図を図りかねて一瞬、戸惑った。
 ゼウスは上機嫌のまま話し続けた。
「私と褥を共にする代わりに亡き夫の仇を討って欲しい、と、お前の娘にそう頼まれた」
「それは…」
 アケローオス河神が息を飲む。
 ゼウスは意味深に、ひっそりとした笑みを浮かべて続ける。
「しかし、ああいう陰のある、だが心のうちに情熱を秘めた女が、私は嫌いではない。カリロエの願いはかなえることにしよう」
「…娘はどこにいますか?」
「『夕宵の間』に。迎えに行ってやるがよい」
 ゼウスはアケローオス河神の肩を軽く叩くと、大広間の方に戻っていった。
 アケローオス河神は「夕宵の間」と言われる部屋を訪ねた。扉を開けると、中は薄暗かった。寝椅子があり、その上に人影が横たわっている。
「カリロエ…」
 河神が近づくと、人影が身じろぎした。寝椅子の上には、髪と衣装を乱して、半ば裸になった娘のカリロエがいた。娘の顔は上気し、肌は汗ばみ、情事の名残りを色濃く残したままだった。
「…ずいぶんと無理をしたものだ」
 アケローオス河神はそれだけ言って、娘の傍らに腰を下ろした。手を伸ばし、乱れた娘の衣装を整えてやる。
「だって…だって…」
 カリロエは涙を流した。
「私がアルクマイオン様のためにして差し上げられることは、もうこれしかないもの…!」
 顔を覆って、カリロエは泣き出した。
「ごめんなさい、お父様…。ごめんなさい…ごめんなさい…!」
「謝ることではないよ」
 アケローオス河神は泣き続ける娘の衣装を直し、乱れた髪も整えて、髪飾りを元に戻してやった
 カリロエは「ごめんなさい」とだけ言い続け、一通り泣きじゃくった。やがて娘が涙を止めると、父神は彼女に告げた。
「ゼウスは、お前の願いを聞き届けた」
 来るべき未来が、アケローオス河神には見えた。
 ゼウスは、娘である青春の女神ヘベに、カリロエの二人の息子をただちに青年の姿にするよう命じるだろう。
 成人となった二人の息子たちは、ペーゲウス王のその二人の息子を討って、父の仇を取るだろう。
 そして彼らは「ハルモニアの首飾りと長衣」を奪還し、アケローオス河神はその呪わしい宝物をデルフォイに奉納するよう命じるだろう。
 やがて二人はアケローオス河の西岸に移り住み、その地に名を残し、アルクマイオンとカリロエの血脈を末永く伝えていくだろう。
 その全てを、神であるアケローオス河神は見通すことが出来た。
 「運命」が、そのように定めているのだ。
「さあ、カリロエ。地上のお前の家に帰ろう。お前の息子たちが、お前の帰りを待っている」
「はい、お父様」
 そうしてカリロエは父神に従い、地上で母を待つ二人の息子たちのもとにと戻っていったのだった。

<FIN>

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