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2016年12月17日07:44

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東條英機満州国へ

東條英機は、明治17年、陸大教官・東條英教の第三子として生まれました。石原莞爾の五年年長、士官学校では四期先輩です。秘蔵っ子の秀才であったが、南部藩出身のために長州閥が幅をきかせる当時の陸軍内で冷遇され、実戦指揮能力不足の烙印をおされて日露戦争下に予備役に編入されました。後年東条が、ことあるごとに長州出身者に厳しく接し、軍内の長州閥の一掃に精力を傾けたのは、父の恨みのゆえであるとされています。

学習院から幼年学校、士官学校、陸軍大学と順調にエリート・コースを歩んだ東条は、第一次世界大戦後のヨーロッパ視察で、永田鉄山、小畑敏四郎らとの「バーデンの盟約」に参加し、日本での総力戦体制の確立を誓いました。帰国後、永田鉄山の右腕として陸軍革新運動の先頭にたった東条は、二葉会、一夕会などを結成して少壮将校の連携を進めるとともに、緻密な人事掌握と調査によって、革新派の幹事長格となり、年下の信奉者を多数作り出しました。武藤章や辻政信といった腹心との関係を深めるのもこの時期です。

第一連隊長としては、兵士一人一人の健康から体力、就職先まで細かく気を配り、兵営生活改善のために労苦を惜しまない姿勢により、兵士たちからは厚い崇敬を受けたが、同時に将校たちには厳しい管理体制で臨んだと伝えられています。陸軍内の革新勢力が拡大するにつれて、軍内の改革派は天皇親政クーデターを目指す非陸大出身者を中心とする皇道派と、総力戦体制の整備を主眼とするエリート統制派に分裂し、東条は永田鉄山率いる統制派の代表格となりました。

皇道派との対立激化を憂慮していた永田鉄山に対して、東条は皇道派将校を面罵するなどして、その対抗心をむき出しにしてきたといいます。永田鉄山が、相沢中佐によって刺殺されたとき、東条は永田の血染めの軍服を着用して陸軍省に出仕したという伝説が残されています。永田鉄山の死後、東条は満州に派遣され、関東軍憲兵司令官に着任しました。

東条は、満州の地を踏み、徹底して自己流、本土流を貫いた。満州国側への配慮として、曖昧にされていた関東軍と警察の権限を、憲兵隊に一元化したのをはじめとして、抗日ゲリラはもちろん、満州国政府、機関内部の抗日分子やスパイを徹底的に検挙し、調査をしました。二・二六事件に際して、関東軍内部の皇道派将校を一斉に検束して、参謀長の板垣を驚かせました。

二・二六事件の後、東条は関東軍の参謀長に転任しました。関東軍参謀長として東条は、満州国総務長官・星野直樹、南満州鉄道総裁・松岡洋右、日本産業の鮎川義介、産業部次長・岸信介らと連携を形勢し、名実共に満州の独裁者の座を手中にしたのです。東条が支配し、計画する満州は、各民族のナショナリズムの尊重や、理想主義を徹底的に排した、規律と法律と官僚機構が支配する土地となったのです。この東条の支配の下で、経済発展を遂行したのが、岸信介でした。今の安部総理と同じ血筋です。松岡洋右もおじさんであり、この一族は徹底的に石原莞爾及び協和会・東亜連盟を弾圧していたのです。

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