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2016年04月13日00:24

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ぎ…銀座

4月13日、今日は喫茶店の日なのだそうだ。

喫茶店なんて、とんと行かなくなったなぁ。

1888年のこの日、東京・上野に日本初の喫茶店「可否茶館」が開業した。

以前、この話をネタにした事があったという記憶があり、4月の日記を漁ってみたが見つからない。

実は12月の日記であった。

2012年12月12日

さて、今日は日本最初の喫茶店が東京の京橋にオープンした日だとネットにあった。
1911(明治44)年、3銭のコーヒーを白いエプロン姿の少女が運んでくれる店が話題となり、大いに繁盛したと言う。

調べてみると、確かにこの年には東京銀座に洋画家松山省三の「カフェ・プランタン」、水野龍の「カフェ・パウリスタ」、「カフェライオン」<精養軒>が開店している。

しかし、一般的には1888年(明治21)年4月13日に東京都台東区上野1丁目(当時・上野西黒門町)に開店転した喫茶店「可否茶館」が日本初とされていると私は覚えていた。

「可否茶館」は1階がビリヤード場、2階が喫茶室の青ペンキで塗られた2階建て洋館で、1杯2銭の牛乳よりも安い1銭5厘で珈琲を提供していたが、席料1銭5厘が別に取られた。
当時、蕎麦一杯が1銭だったのでかなりの高額だったといえよう。
経営者は鄭水寧と言う中国人だったが案の定、5年で閉店している。
そもそも当時まだ珈琲というモノは日本人に馴染みがなく、一般人が蕎麦より高い得体の知れない黒い液体を楽しんだとは思えない。

実際、この「可否茶館」開店日4月13日を「喫茶店の日」として記念日に定めている。誰が制定したかは知らないが…

1911年開店の銀座「カフェ・ライオン」は圧倒的に男性客が多かったと言う。
実はこの店は美人の女給さんが沢山いるので有名だったのである。
前述した「白いエプロン姿の少女が運んでくれる店」はこの「カフェ・ライオン」であった。
元祖「メイド喫茶」と言った所か?

また、昭和初期までのカフェーの女給は、当時モダンだった洋装を支給されて着ていたが、まだ西洋式の下着を着ける習慣がなかったため、ある意味「ノーパン喫茶」だったと言う。

「女性の洋風下着が普及するきっかけとなった」とされる日本の都市災害史に残る大火災の「白木屋火事」が1932(昭和7)年12月16日。時代背景的には元祖「ノーパン喫茶」はまことしやかだが…
実際には白木屋火事の犠牲者は殆どが転落死だったという事で、この「火災=下着普及」説は事実無根の捏造というのが真相と言われている。

と書いている。

ライオンという喫茶店は多分全国に沢山ある。
渋谷には名曲喫茶ライオンというのが存在する。
「名曲喫茶」などと言う物が未だ生き残っているというのが一寸驚きではあるが…

浅田次郎の名作「天切り松」にもしばしば登場する“元祖”カフェー・ライオンだが、尾張町交差点の角(以前、毎日新聞社があった場所、現在のサッポロ銀座ビル)辺りにあったらしい。
築地精養軒により3階建で新築され、1階が酒場、2階が余興場であった。
1911年は「日本初のカフェ」とされるプランタン(3月)に続き、ライオン(8月)、パウリスタ(12月)と「カフェー」を冠する店が銀座に相次いで開店した年である。パウリスタはコーヒー中心だったが、ライオンは料理、酒が中心だった。
天切り松でも少年松吉が黄不動の兄ぃと待ち合わせしたり、荷風先生に相談事をしたり、ステーキを食べたりするシーンがあったと記憶している。

蓄音機の音楽が流れ、モボ・モガが闊歩する古き良き時代である。

関東大震災にも負けずに営業を続けたが、女性給仕のサービスと言う売りで競合店との闘いに敗れた後、1931年(昭和6年)6月、大日本麦酒に経営が移り、8月にビヤホール(ライオンヱビスビヤホール、現在のビヤホールライオン銀座五丁目店)として生まれ変わっている。

http://www.ginzalion.jp/company/history/?pSchistory01
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