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2024年04月22日14:44

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『パスト ライブス/再会』を観る

さまざまなことを考えさせてくれる映画。音楽でも本でも、自分にとっていい作品は、さまざまなことが思い浮かんできて、いろいろと考えさせてくれる。

この映画は、最初に予告を見て”いいな”と思い、映画館で観たいと思った。
ただ内容的にとても地味なので、日常生活の中で紛れてしまった。その後、もう一度、ロング・ヴァージョンの予告を見て、再度、”映画館に行こう”と思い、日曜日に錦糸町のオリナスに行ってきた。

この映画、内容が地味。大袈裟なCGやSFXはないし、事件らしい事件も起きない。登場人物が喧嘩したり、叫んだり、怒ることさえない。泣く場面はあるが、アップにならない。タイムリープもないし、スーパーヒーローも登場しない。有名俳優のキャスティングもない。無名の新人監督の第1作でもある。題材としては30年前に撮られてもおかしくない。

しかし興行成績は素晴らしい。アメリカでは、公開時4館だけの上映が、5週目には500館に拡大。興行収入も『TAR』や『イニシェリン島の精霊』を上回り1000万ドルを突破。私が見た時も、この映画以上に客席が埋まっているのは、コナンの最新作だけだった。自分は映画のエンドロールの最後まで見て帰るが、この映画では最後の1人になるまで残り、目の前を通り過ぎていく観客を眺めていた。老若男女が集っていた。若いカップルもいるし、1人で見にきている中年の男性もいた。

それはこの映画が扱っているものが、普遍的だからだろう。誰でも心の中に「叶わなかった恋愛」があり、「その人のことや、そこで経験したことが忘れられずにいる」。この映画の主題はそれだ。しかしそんな映画なら、たくさんある。

では、この映画はどこが特殊で、優れているのか。

最初見ていて思ったのは、ソフィア・コッポラ作品だった。『ヴァージン・スーサイズ』みたいな作品。それは『パスト・ライヴス』で流れてきた音楽が、それに似ていたからかもしれない。あるいは、リサ・チョロデンコ、エドワード・ヤン、侯孝賢らの作品。彼らの映画も、『Past Lives』も、映画的感受性と表現力がずば抜けている。

では、『Past Lives』のセリーヌ・ソン監督は、表現する上でどんな技巧を使っているのか。監督も「この映画を作るにあたり、新しい方法を発明したかった。誰も見たことのないような映画を作りたかった」と語っている。

それにあたり、ヒントになったのが、写真家ソウル・ライターではなかったか。ライターはアメリカのカラー写真初期のパイオニアで、日常風景を抜群のトリミングと色彩で切り取っていく。近年でも彼の写真展が行われ、作品はまったく古ぼけていない。昨日撮ったかのように生き生きとしていて、明日撮られるもののように新鮮。そして誰とも似ていない。ライターの写真と『Past Lives』の画面は、かなり響き合っている。

『Past Lives』で印象的なシーンはいくつもある。
主人公の2人が韓国にいて、まだ幼く、互いに惹かれあっているが、その2人の人生がどうしようもなく離れていくのを、映画では「階段のあるY字路」で表現している。男の子ヘソンは、左手の無彩色の道をまっすぐに歩き、女の子ナヨンは右手のカラフルな階段を登っていく。映画の時間軸では、画面左手が過去で、右手が未来。ヘソンは過去に進み、ナヨンは未来への階段を上がる。この構図は、ラストでもう一度繰り返される。

成長したヘソンが中国に行き、料理店で隣のテーブルに座っていた女性と親しくなるのを、セリフなしで見せ、その娘の魅力も一瞬だけ光らせて、場面が切り替わる。

韓国で過ごした幼馴染み(ヘソン)が数十年ぶりでニューヨークに主人公の女性(ノラ)を訪ねてくる。その時に2人は、自由の女神をフェリーで見にいく。このどう考えてもベタな展開が、陳腐にも退屈にもならない。

映画の中で一番緊迫感があるのは、幼馴染で強い縁で結ばれていたヘソンがNYに来て、ノラと会い、彼女の夫アーサーを交えた3人で、時間を過ごす場面だろう。この3人はどうなり、どんなことを言い、どんな感情のぶつかり合いがあるのか。
食事の後、場所を変えて3人が話す。ノラとヘソンは韓国語で話し、アーサーはその内容を知ることができない。最初ノラは、ヘソンとの会話を、英語でアーサーに伝えるが、途中からそれをしなくなる。

*以下、ネタバレを含むことが書かれています。

映画は、”イニョン=えにし(目に見えない不思議なつながり)”を中心に回転していくが、ヘソンとノラは「過去の運命」であり、ノラとアーサーは現在と未来の運命を共にしている。
この”えにし”を中心にした三角関係を、監督は何を使って、どのように表現するのか。それは「言葉」だ。

アーサーは、ノラと韓国語でも会話をする。なぜアーサーは、韓国語を身につけようとしたのか。それはノラが寝ている時に、寝言をいうが、その寝言が韓国語だから。ノラは決して英語で寝言を言わない。アーサーは、ノラと暮らす中で、自分にとって未知の、踏み込めない、暗黒とも思えるような秘密の領域があることを実感している。

またNYへ来たヘソンも、たどたどしいが、英語でアーサーとコミュニケーションをとる。そして彼なりの言葉で、アーサーに伝えなくてはならないことを伝えている。
これは、ミニマムなほど切り詰められた素材で、最高度の表現がなされている実例。

このようにこの映画は、無駄なセリフやカットがひとつもない。説明的なところもない。そしてパンフレットに載っている場面写真を見ていて思うのは、画面は丁寧に構築されているが、スチル写真ではこの映画の魅力が表現できないということ。画面の中で人やモノが動き、カットが変わる、その流れ自体に映画的な美しさと強さが宿っている。

監督も語っているが、ラストシーン。2人はノラのアパートの前で別れていく。2人は画面左手に歩いて行き、その先で、ヘソンはタクシーに乗り左手に去る。ノラは右手にひとりで戻り、夫と共に階段を登り建物に消える。
監督は、映画的な時間軸のルールに従い、誰でも説明抜きに感じる、生理的な法則を使って、物語の最後を締めくくる。そのすべてが1カットで撮られていて、カメラは通りの手前から2人を水平移動で撮影する。この水平移動は、レオス・カラックスの『汚れた血』を思い出させる優れたものになっている。

見終わってから数日たち、思うのは、「あの映画の主人公は、誰だったのか?」ということ。
物語上の比重では、ノラなのだが、成長して「NYに行く」という決断をしているのはヘソン。ノラは自分の居場所で生活し、やってくるヘソンを受けとめるだけともいえる。
ヘソンは、もう一度ノラと”1チャンあったら、やり直そう”と思ってアメリカに来たのではない。彼は、”自分でもよくわかっていないものに、立ち向かおう”としている。それは喜びでもあり、恥ずかしさもあり、戸惑いでもある。そのあたりの心情を、ソヨン役の俳優はうまく表している。

ヘソンはノラたちと一緒の時間を過ごす中で、「自分の中にまだ生きていたナヨンが、もうすでにノラであり、自分の道筋とは違うところで生きていて、これからも生きていく」ということを知る。それが、自分が時間をかけて来た目的だったことも。
だから映画は、ラストで、建物に入ったノラの場面で終わるのではなく、ブルックリン橋を渡るヘソンの顔で終わっていく。
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