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2023年08月07日22:25

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2022年大河ドラマ鎌倉殿ゆかりの地 神奈川県秦野市 実朝の首塚、波多野城址、北条義時の生涯 30年前に発表されたZARDの「二人の夏」をモチーフにした旅物語 その他国立科学博物館クラファン1日で1億円 

国立科学博物館が、ネットを通して寄付を募るクラウドファンディングにおいて、わずか1日以内で目標額の1億円に到達したことを明らかにした。

 写真=6000万年前に存在したプレシアダピス目のプレシアダピスの化石(動物分類学上霊長目に最も近い仲間)
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 プレシアダピス目は、恐竜絶滅後の6000万年前には霊長目と分岐している。共に樹上性であったものの、霊長類と比べると、適応力が低かったとみられている。3500万年前には姿を消した。

https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=7517705

 <7月23日(日)ZARD坂井泉水が育った丹沢山麓秦野市を旅する 〜二人の夏〜
2023年第11回目 第1部鎌倉時代の歴史 第2部史跡や湧き水スポットを中心の旅物語>

 目次
第1部 鎌倉時代の歴史 鎌倉殿13人、北条義時の陰謀
 第1章 源実朝の首塚
 第2章 13人の有力者からなる合議制 北条氏が執政権を握る
 第3章 北条義時が幕府の実験を握り、承久の乱へ

第2部 2023年7月23日(日)真夏の秦野市の旅 二人の夏
 第1章 蓮池へ
 第2章 秦野の湧き水 
 第3章 今泉町の高台からのトワイライト夜景

 前回10回目 6月18日(日)アジサイスポットめぐり&上半期の旅を振り返る
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985392921&owner_id=32437106

 第9回目 6月17日(土)小田原城の主北条早雲の生涯と共に
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985336885&owner_id=32437106

 今回の秦野市内の舞台は、丹沢山塊の麓に位置する西田原地区、堀山下の戸川公園、最後に夜景スポットである今泉町の高台である。

 テーマとなるZARDの歌詞は「二人の夏」、1993年7月10日に発売された4thアルバム「揺れる想い」の最終10トラック目に収録されたバラードナンバーである。CD売上220万枚を達成した同アルバムは、1993年度の年間アルバムセールスランキングにおいて、トップに達した。

写真=二人の夏のMVより
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 必 facebook 視聴ページ https://www.facebook.com/watch/?v=660626139127873

二人の夏は、かつての恋人への思いを胸にしまいながら、旅をする青年を描いている。どこか懐かしい里山が残る秦野市内の西田原地区の風景とも重なる。主人公は、真夏の朝方、見頃を迎えたハスの花やヒマワリ畑の前に足をとめ、観察をした。灼熱の太陽に向って、葉を広げる2種の花を通して、次第に前向きになる。第1部は、西田原町にある源実朝の首塚を含め、鎌倉時代の歴史を、第2部は、二人の夏をテーマにした旅物語である。

     第1部 鎌倉時代の歴史 鎌倉殿13人、北条義時の陰謀

第1章  源実朝の首塚

人口16万の神奈川県秦野市は、市制定69年目を迎えた。市の方では、2021年秋に、翌2022年に放送されるNHK大河ドラマ「鎌倉殿」のゆかりの地としてアピールするべく、地図を作成し、小田急線の駅構内を中心に配架した。

 写真 掲載元 秦野市ホームページより https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1647566818816/index.html
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古くから史跡マニアの間でも知られていたのは、第3代将軍源実朝の首塚である。時は1219年1月27日、鎌倉の鶴岡八幡宮の参拝を終えて、階段を下りてきた際、待ち構えていた甥の公卿によって、殺害された。公暁は、討ち取った証として、実朝の首を切り落として、同士の三浦義村の元へ駆けつける。三浦義村は、公暁の良き理解者な筈だった。なぜなら、公暁の乳母夫だったのである。幼い頃から公暁の成長過程を知る義村だが、幕府を敵に回しては、自身の立場も危うくなる。公暁を裏切り、家来に殺害を命じたのである。犯人である公暁の死により、実朝の首の行方も消えた。公暁を討ち取った張本人は、三浦氏に仕える武常春だった。実朝の身を哀れに思い、当時秦野市に居を構えていた波多野忠綱の元へ向った。現在のふるさと公園から道路を挟んで、ほぼ向かい側の小さなお寺へと足を運び、九余をする。実朝の法号金剛寺殿にちなみ、以降金剛寺と改称される。西田原の地に埋葬し、慰霊碑を建てた。金剛寺は、実朝の33回忌に、再興された。

 写真左=源実朝の首塚     写真右=波多野城址跡
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今なお鎌倉時代からの伝承を受け継ぐため、秦野市内は、11月23日に実朝を弔うべく、祭を開催する。金剛寺からふるさと公園の伝承館へかけて、鎧兜を被った子供たちが、行列を作って、歩き出す。首塚の前では、法要が行われた。

第2章 13人の有力者からなる合議制 北条氏が執政権を握る

 公暁が、なぜ叔父である実朝を殺害したのか、権力争いとの見方もある。鎌倉幕府の創始者は、実朝の父である源頼朝だった。落馬による、父頼朝の死去に伴い、息子の頼家が2代目として後を継いだ。頼家は、父親頼朝に劣らず、専制的な振る舞いを続けた。絶対的な君主だった父頼朝は、ほかの武将とも関係を維持するべく、幕府の下に三つの機構を設けていた。

 写真 掲載元 鎌倉幕府の置いた三機構についての考察 白梅学園高等学校 2年生 香緒理 http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/kamakuraorg/index.html
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その侍所によって統率された御家人とは、幕府とは主従関係にある。土地の所有を認められた代わりに、兵隊の任務をこなす。いわゆる「御恩と奉公」(ごおんとほうこう)の契約を結んだ武士のことをさす。1180年に創設され、初代別当を和田義盛(わだよしもり)が勤めた。人徳が厚く、頼朝からも、他の武将からも信頼され、戦争では力を発揮した。頼朝によって、侍所に任命されたのである。

 西暦1199年に頼朝の後を継いだ頼家の時代、武士一向らが、少しでも権利を守るべく、13人の有力者から成る「合議制」のメンバーを結成した。中心となる人物は、北条義時だった。2022年のNHK大河ドラマの主人公である。創設されたのは、1199年4月、頼家の母であり、頼朝の妻である北条政子が一役かった。政子は、源家に嫁いでからも、出自である北条家のために働いていた。北条政子の公認を受けて、13人から成る合議制メンバーは、幕府の主頼家に、意見を申し立てる。最終決定権は、頼家にあるとはいえ、母政子を後ろ盾とした合議制メンバーの声を無視できなかった。合議制の運用は1年で終ったとはいえ、頼家の専制政治に一定程度歯止めをかけた。

 合議制が成立して3年後の1202年、頼家の立場が危うくなった。頼家に従順な比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こった。結果は北条氏の勝利に終わり、比企氏は滅亡した。敵である北条氏に追われ、伊豆の修善寺で幽閉された頼家は、暗殺された。わずか21歳だった。

 後を継いだのは、北条氏が推す、初代頼朝の次男実朝だった。鶴岡八幡宮で、28歳の実朝を暗殺した公卿は、頼家の長男である。父頼家の仇をとるべく、源家滅亡を企てたとみられている。

 掲載元 鎌倉と江ノ島のはざまで 2020年12月3日 https://kamaeno.com/2020/12/03/sanetomo_nazo2/
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 13人の御家人は、一枚岩ではなく、互いにいがみ合い、闘争が繰り広げられた。御家人の中で最も権勢を奮ったのは北条義時だった。幕府の後継者を巡り、北条義時と対立勢力との争いが続いた。1213年2月、信濃源氏の泉親衡が、源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立すると、北条義時の反感をかった。首謀者の名前から「泉親衡の乱」という。執政権を握る義時に、情報が漏れていた。大ごとになる前に鎮圧部隊を派遣する。謀を企てたとみられる侍所別当の和田義盛の息子である義直、義重と甥の胤長を捕縛し、取調べに当たった。息子2人は、積極的に加担していないとの裁定に至り、無罪放免になる。一方甥の胤長の容疑は晴れなかった。和田義盛は三浦氏を含む一族を挙げて、甥の胤長も放免するように、懇願した。胤長は首謀者格と同等の扱いを受け、流罪になったうえ、屋敷自体を没収される。北条義時を中心とする執政に対して、御家人の間でも、不満がくすぶっていた。

 反対勢力排除を掲げる北条義時の意向によって、物事が決まっていた。和田義盛は、甥の刑に不服を示すと共に、同士を集め、先の未来のことを考える。同1213年5月、和田義盛は、打倒北条氏を掲げて、挙兵した。武蔵国多磨郡や武蔵国及び相模北部で跋扈した武士集団である横山党と共に、三浦義村も加わった。『吾妻鏡』によると5月2日(23日)
に、和田氏らは、御所を襲撃し、破竹の勢いで持って、北条側の屋敷を護衛する武士達を屈服させた。勝利へ邁進する和田側だが、北条氏の援軍によって、次第に行く手を阻まれた。北条氏の勝利の立役者は、義時の息子泰時だった。5月2日の16時に戦いが始まり、18時頃までは、防衛線がやぶられ、窮地に追いこまれていたのである。北条秦時が、夜通し奮戦したことにより、援軍が駆けつけ、一気に形成を代えた。数時間での決戦を想定した和田氏らは、武器が枯渇し、明け方には退却を余儀なくされた。一つ大きな誤算があった。和田義盛が頼りにしていた三浦義村が、波多野忠常と共に、北条氏側に寝返ったのである。

 三浦義村と波多野忠綱は、互いに北条義時に口説かれ、和田義盛を敵に回し、防備に当たった。後に戦功を巡って、互いに激しくいがみ合ったという。

 翌24日朝4時、太平洋に面する稲村ヶ崎で体勢を整えた和田軍の前に、横山時兼らが率いる横山党の3000余騎が参着した。心強い味方を得て、午前10時に再び鎌倉へと入った。北条泰時・時房(泰時の叔父)らが構える若宮大路を中心に市街各所で激戦となったのである。昼間は一進一退の攻防が続いた。日が傾くにつれて、数で勝る幕府軍が優勢になる。午後6時ごろ、和田義直(義盛の息子)が敵に討ち取られると、幕府側の勝利が決定的になった。和田義盛も息子の後を追うように討死した。和田家滅亡である。和田義盛側についた横山時兼は、山梨県都留郡へ逃げ延びたものの、その地で自害している。

 和田義盛の乱を平定した北条義時は、より権力基盤を強固なものにした。一方で、義時に口説かれた三浦義村と波多野忠綱との間では、亀裂が生じていた。仲裁役になる北条義時は、忠綱へ恩賞を約束する代わりに、功を義村に譲るように説得する。忠綱は、鎮圧の立役者だと自負し、名声を得ようとしたのである。より力を認めてもらうべく、当時は存命だった将軍実朝の前で義村と剣を交えた。武功を立てた21歳の二階堂基行らの目撃証言から、「忠綱の功」との結論に至ったという。波多野忠綱側は、活躍を認められたとはいえ、議場での挑発的な態度から、出席した武将から叱責を受ける。「先陣の我々(忠綱)を見落とした義村は盲目なのだろう」と揶揄したことをきっかけに、恩賞は取り下げられた。なお二階堂基行は、相模国懐島殿原郷の地頭職を得た。


  第3章 北条義時が幕府の実験を握り、承久の乱へ

北条義時は、反対勢力を排除し、一族で執政権を独占する。幕府の第3代将軍に実朝を擁立したものの、公暁によって殺害されると、後継者について考えをめぐらした。

 1代目の頼朝、2代目の頼家、3代目の実朝は、清和天皇の血を引く源氏だった。後継者は後鳥羽上皇の子供を将軍として迎え入れる案が有力視された。実のところ、実朝の時代に、母である政子は、1218年に弟の北条時房を連れて、上洛し、子ができない将軍源実朝の跡継ぎについて、後鳥羽上皇の乳母藤原兼子に相談していた。詳細https://www.yoritomo-japan.com/jinbutu/genji-6-jyoraku.html

幕府との間では、実朝の死後に、亀裂が生じていた。幕府の後継者を巡る内乱を避けるため、上皇側は親類を養子に出したくなかったのである。1221年(承久3年)、義時に対して二度目となる地頭職廃止の院宣を下したものの、再度拒否されていた。頼朝時代からおいていた土地を治める荘園主から寄進を受けることにより、天皇家は財政が潤っていたのである。幕府側が、地頭職を配したことにより、天皇家への寄進がとまっていた。後鳥羽上皇は、幕府を倒す機会をうかがっていたのである。1221年(承久3年)5月14日についに幕府に対して挙兵する。元号から承久の乱という。上皇側は、北条氏と、三浦氏の対立が深まっているとの情報を得て、兵を出した。内乱状態の幕府軍に、押しの一手を加えることにより、一気に瓦解すると見て取った。上皇の読みは完全に外れていた。5月19日に幕府側に、北条義時追討の宣旨が到達し、急使を通して、京都の動きを掴み、先手攻撃に打って出る。5月22日に出発した幕府軍は、6月15日には京へ迫っていた。20万の軍勢で都へと入り、後鳥羽上皇を屈服させた。隠岐の島への配流処分とした。幕府が実験を握り、京都に出先機関として、「六波羅探題」を置く。初代の北方長官には北条泰時、南方長官は北条時房が就任した。朝廷との戦いにも勝った北条義時は、鎌倉幕府存続の立役者でもある。承久の乱から3年後の1224年に、61歳の生涯を閉じた。

 写真 掲載元 世界の歴史まっぷ 六波羅探題より
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武士の世界は、頂点に上ると、家来たちを顎でこき使い、農民から税金を取り立てる。食べ物には困らず、優雅な暮らしをイメージする。実のところ、家来によって謀反を起こすのではないか、と用心深くなり、常に神経を尖らせていた。鎌倉幕府の遺産は、現在の鎌倉市と共に、数十キロ離れた秦野市内でも残っていた。大河ドラマの放送を機に、史跡ブームが起きている。
 

      第2部 2023年7月23日(日)真夏の秦野市の旅 二人の夏
 
             第1章 蓮池へ

7月23日(日) 気象庁が前日の22日に関東地方の梅雨明け宣言を発表し、本格的な夏を迎えた。この日の首都圏の最高気温は33度、湿度は50%台、散策地は、水分補給を考え、1985年に環境省から日本名水100選に選定された秦野盆地湧水群を梯子する。

 初めの舞台は、秦野駅から北北西におよそ3km、西田原町92番地の個人が育てたハスが咲く庭である。7月14日のタウンニュース・秦野版にて、掲載されていた。
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 時刻は午前8時、農業用トラックターや倉庫の合間のスペースに、ハスの花が育っていた。朝方個人の住宅の中は、留守であるかのように、物音が立たず、静寂に包まれていた。

 敷地内には、日本庭園を象徴する松が育つことにより、ハスの花と競演を果たす。背景は、一戸建ての住宅街、庭の中には、池がなく、直接水やりを行う。
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  タウンニュースによると、家の主である浅見氏が、10年以上前から鉢の中で育て上げ、品種ごとに管理を施したという。2023年には、20種24鉢、最大の大きさは2mに達した。
 
ハスの花言葉は、「清らかな心」「神聖」「離れゆく愛」「雄弁」である。英語では「estranged love(離れゆく愛)」「eloquence(雄弁)」だった。

 朝方に葉を広げ、昼間を境に、徐々に閉じていく様子から、英語圏では、離れていく男女に例えた可能性がある。

 ZARDの坂井泉水が発表した歌詞「二人の夏」では、ハスの花言葉のように、離れてゆく愛を表現していた。

 Aメロの冒頭:「偶然に見かけたの バス停で 結婚すると噂で聞いたけれど」

 写真 MVの一幕
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 人間のマナーとして、挨拶することにより、信頼関係を築くことができる。バス待ちの列で見かけた元恋人に対しては、より思いは複雑である。元恋人側が、異性を連れていれば、声をかけると、迷惑になってしまう。一方で、元恋人が、自宅へ帰る途中に一人でいれば、互いの現状を確認する絶好の機会である。確かに結婚するとは、聞いていた。より確実に事実を知るためには、本人に直接聞くことが一番である。

 続く歌詞では、元恋人への印象を綴っている。

「スーツ姿のあなたは、やけに大人に見えた。少し距離感じたせい?声かけそびれたの?」

かつて共に過ごした相手を、しばらく見ないと、些細な変化にも気付きやすくなる。主人公自身も、声をかけるタイミングを失ったのか、それとも挨拶する勇気がなかったのか、自問自答していた。

私自身は、庭を後にし、東北方向の田原ふるさと公園へ向って歩く。一戸建て住宅の合間を抜けると、開けた田んぼにでる。すぐ北は、丹沢山塊が背骨のように貫く。麓の西田原地区の住民は、丹沢の雨水を引き入れて、田畑を耕してきた。真っ青な空の下、トウモロコシ畑の合間に、ヒマワリが育っていた。夏の季語になるほど、暑さに打ち勝つ象徴する植物である。
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足元の用水路には、小さなアマガエルが、壁に張り付いていた。かつては都会の小さな田んぼにも生息していたものの、農薬の影響により、めっきり姿を消してしまった。アマガエルの大きさはオスで2cmから4cm、メスで2,5cmから4,5cm、道からそれて、草を踏むと、驚いたかのように飛び上がる。主食は、ガガンボやウンカなど稲を食い荒らす害虫である。稲に害を及ぼす虫を食べると、移動することにより、各地で糞を出す。その排泄物が、稲の良質な肥料になる。古くから稲作をする人々と、アマガエルは共存を果たしていた。

 里山に身を置くことにより、遠い昔に戻ったかのような錯覚を抱く。二人の夏に描かれた主人公と同じ気持ちにたった。

 サビの歌詞:「わすれかけてた 二人の夏 胸に甦る あれからもうどれくらいの月日が立ったのだろう。」

 バスに乗る恋人を見送った後、田畑が広がる里山への旅を通して、懐かしい記憶が呼び覚まされた。
 
 続く歌詞:「振り向くはずのないあなたに サヨナラ言った どうかずっと変わらずにいて 大好きだった 笑顔だけは」

 好きな人と距離が離れてしまった今、幸せを願うしかない。しっかりと前を見据える主人公の姿がある。

 私自身、地元の散歩客にハス池の場所について訪ねた際、2023年に芽を出したばかりの小さな池への道順を教えてくれた。2022年に、休耕田を利用して、ハスの種を植え付けたという。今年初めて第一世代が開花したハス池は、木道の方は整備を終えていない。慎重に足場を確認しながら、池を一周する。
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ハスの花は、一株あたり、開花期間は4日程になる。午前7時頃から午前9時代までがピークに達する。最終4日目には、昼過ぎまで花が持つものの、翌日には散ってしまう。命が短くて、可憐な姿から、はかない恋、または別れを彷彿とさせる。

 Bメロの歌詞

「別れても しばらくは悲しくて あなたの電話 ずっと待っていたの。」

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失恋した際、空虚感にさいなまれ、日常生活にも支障をきたす。時は93年、家でじっと受話器の前のテーブルに座っていても、一向にコールはならない。じりじりしながら待ち続けた際、コールがあると、期待して、受話器をあげる。セールスの電話だとすると、まるで気がなえたかのように、そのまま顔を伏せてしまう。総務省によると、当時携帯電話の普及率は3,2%、96年から97年ごろに、一般の人々の手にも入るようになり、2003年には94,9%に達している。今では、スマホのLINEなどを使って、互いの予定を交換し、スケジュルーをあわせやすくなった。

 主人公は、元恋人を振り返りながらも、決意を秘めていた。

「今はもうそれぞれに、違うパートナーを見つけ、別の道歩き出した もう戻らないは」

 過去は過去のこと、未来を見据えて確かに歩き出している。

 蓮池の方では、午前9時半を境に、一組の家族連れが訪れた。暑い中、マスクを外し、思い思いに語り合いながら、腰をかがめて、スマホのレンズをかざしていた。

 秦野市は、1999年から花いっぱい運動を展開し、JAや市民団体によって、まとまった土地に種付けを行った。ひまわり畑の合間にも、ピンク色のコスモスが咲き出していた。例年になく暑い夏場、農家は、麦わら帽子を被り、農作業に勤しんでいた。

         第2章 秦野の湧き水 

続く目的地の、田原ふるさと公園では、昭和の文化を伝える施設がある。地元の農家が収穫した取立ての野菜を販売し、土日・祝日を通して、そばうちを含め、体験イベントを行う。係員が、商品を陳列する伝承館のすぐ脇にある緑が生い茂った小さな広場に、実朝の首塚がある。陽があたりにくい一角に、わずか24歳で生涯を閉じた武将が眠っていた。
少し西へ歩くと、視界が開け、田畑が広がる。公園内の伝承館では、定期的に子供たちを呼び、親子そば打ち体験を行い、地元の名産品を直売する。水車小屋のそばから、地下水が湧き出していた。直売所の係員によると、水を直接飲むことができるという。


公園敷地の畑から、個人の畑へかけて、緩やかな勾配が、東方向へ数十メートルにわたって続く。天気が良いと富士山が望めるとはいえ、この日は厚い雲によって隠されていた。

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 私の旅は、秦野ふるさと公園から、金剛寺、波多野城址跡を経て、北側の寺山町と蓑毛町をハイキングする。午後からは、掘山下町の県立はだの戸川公園、同じ堀山下町の秦野歴史博物館を見学した。秦野歴史博物館においては、この夏、市内の震生湖誕生100周年事業の一環として、2つの企画展を開催する。

・7月15日から9月24日 「震生湖保存と活用の歩み」
・8月5日から10月14日 「関東大震災、そのとき秦野では。」

 詳細リンク https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000002125/index.html

写真 左 戸川公園のヒマワリ 写真 右 今泉名水桜公園のアキメネス
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第3章 今泉町の高台からのトワイライト夜景

 午後5時過ぎには、秦野駅南口から距離にして400m、今泉名水桜公園に立ち寄った後、震生湖へと繋がる標高190m、今泉町の高台の夜景スポットに向った。


 1999年から始まった花いっぱい運動の一環として、見晴らしの良い畑にも、ヒマワリが花を咲かせていた。この日は、ヒマワリを前景に、明かりが瞬く秦野盆地を撮影する。

 二人の夏のサビの歌詞

「輝いていた 二人の夏 波がさらうように いつかはきっと 遠い記憶 彼方に消えてゆく」

 写真=19時15分
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元恋人と過ごした夏、波に飲まれるように、二人の心も引き寄せられていた。互いに惹かれあっても、結婚の段階になると、家柄の違いなどから、話がまとまらない場合もある。

 主人公は、既に新しいパートナーを見つけたものの、今後の生活に不安を感じていた。今日のように、空が晴れ上がった日、高台から、盆地の明かりを眺めることにより、救われた気持ちになる。

 写真=19時17分
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続く歌詞:「あなたの写真 大切に しまっておくは いつかどこかで、また逢えること 祈ってるわ 元気でね」

 写真=二人の夏のMVの一幕
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 青みを帯びた空の下、次第に家々から灯りが瞬き出す。この日西の空に浮かぶ富士の輪郭もうっすらと見えていた。肝心の頂部分は、雲によって隠されている。

 トワイライトタイム中、三脚を据えた一組の老年夫婦が、沈みゆく夕日の中に浮かび上がる富士山を狙っていた。

  青みを帯びた空と、町灯りがあいまるトワイライトタイムは、マジックアワーと題されるように、特別なひと時である。高台の田園地帯から、近代的な町明かりを見下ろすことにより、リフレッシュできて、いつのまにか迷いもなくなっていく。

 我々の社会生活においても、進学や就職により、ステップアップする。社会人になっても、転勤、もしくは転職により、新たな人間関係を築く。いかに変化に対応できるのか、適応力が問われている。めまぐるしく変化する日常を過ごしていると、昔ながらの田園地帯に身を置くことにより、再スタートを切れる。秦野市への旅も続いていく。

 

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