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2023年06月23日23:15

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小田原城、北条早雲の生涯 ZARDの坂井泉水が育った丹沢山麓秦野市を旅する 2023年第9回目 〜瞳閉じて〜 シングルリリース20周年記念 厚木市飯山観音、七沢森林公園、開成町のアジサイ祭

 6/23(金)

 少子高齢化が進む中、いかに介護を必要とせずに、長く生きるか、課題となっている。ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン校によると、脳の萎縮を防止するうえで、昼寝が効果的との研究結果が示された。定期的に昼寝をする人としない人との間で、脳体積を比較したところ、2.6から6.5歳分の差があった。勤め人に限ると、休みの日を除いて、昼寝をする環境にはない。若い頃よりも、高齢者になるほど、昼寝の効果が高まるという。適度な運動、睡眠、食生活が、長寿の秘訣である。日本は、今高齢化の最先端を走っている。

昼寝に“脳の健康保つ”効果、加齢で脳が萎縮する速度遅く
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=84&from=diary&id=7461078

 <ZARDの坂井泉水が育った丹沢山麓秦野市を中心に旅する 2023年第8回目 6月17日(土)〜瞳閉じて〜 厚木市、松田町、開成町、小田原市>

前回 第8回目 訪問日5月21日(日)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985146406&owner_id=32437106

前年同期 2022年6月19日(日)
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982624503&owner_id=32437106


目次
・第1部  日本史 小田原城の城主北条早雲/宗瑞の生涯 下克上からの成り上がり
 (1)小田原の地形
  (2) 後北条氏の始祖北条早雲の戦略
(3) 伊豆から小田原へ
(4) 南関東地域の覇者へ

・第2部 旅物語 テーマ曲「瞳閉じて」

・第1章 厚木市飯山観音、七沢森林公園
・第2章 秦野市 カルチャーパーク、松田町西平畑公園、開成町アジサイ祭
・第3章 松田町 西平畑公園 開成町アジサイ祭
・第4章 小田原城 ライトアップ

舞台は丹沢山地の麓、6月17日から18日の2日間に渡った丹沢山麓厚木市、秦野市、足柄上郡松田町と開成町、小田原市である。

 小田急電鉄と神奈川中央交通が発行した「丹沢・大山フリーパス」を使用すると、厚木市、伊勢原市、秦野市内の指定区間は、2日間乗り降り自由になる。

 ZARDの名曲に描かれた若者目線に立ち、、2日間に渡った旅の1日目となる、17日の訪問地を紹介する。


6月17日の最高気温は30度、アジサイが咲く丹沢山麓秦野市を中心に、厚木市、足柄上郡松田町、開成町、小田原市のアジサイスポットを巡った。

秦野市で育った坂井泉水が発表した曲をテーマにした旅、今回は2003年7月9日に36枚目のシングルとしてリリースされた「瞳閉じて」である。間もなく発表から20周年を迎える。

 写真=「瞳閉じて」のMVの一幕 クリックで視聴 bilibili https://www.bilibili.com/video/BV1Bp411Z7tZ/?spm_id_from=333.337.search-card.all.click

フォト

ZARDの発表曲の中でも、実に変化に富んでいた。ピアノ伴奏のみで歌い上げるバラード調のAメロから一転して、Bメロは疾走感溢れるポップスへと変わる。歌詞の内容から、一貫したストーリーが見える。Aメロは、主人公の青年の恋心を描く。対照的にBメロは、主人公自身が行動を起こし、恋人へ思いをぶつける。梅雨の晴れ間にふさわしい、雲間からのぞく太陽が、将来のある男女を明るく照らし出していた。若者目線に立って、アジサイが咲く神奈川西部地域をレポートする。

  第一部日本史 小田原城の城主北条早雲/宗瑞の生涯 下克上からの成り上がり

 初めに小田原市の礎を築いた後北条氏の始祖早雲の生涯について解説する。現在、神奈川県西部地域では、箱根観光の玄関口としても、紹介されている。シンボルは、新幹線が止まる駅に程近い、小田原城である。海辺に位置する城の天守閣からは、東側の相模湾と共に、北の酒匂川沿いの平野部を一望できる。西側の箱根の山々は、防波堤代わりになった。伊豆から小田原を経て、三浦半島まで攻略した北条早雲の生涯を辿る。

         (1)小田原の地形

 城が建てられたのは、大森氏が進出した15世紀中ごろと推定されている。大森氏は、北駿地域と呼ばれる現在の静岡県裾野市・御殿場市あたりに根城を築いていた。関東の争乱で版図を拡大する。さらに相模国や武蔵国で公方足利氏と関東管領上杉氏(長尾氏)による争乱が起こると、箱根を越えて小田原へ本拠を移したといわれている。箱根の山の麓に位置し、海に面した小田原は、立地的にも恵まれていた。永享4年(1432)の関東公方足利持氏の御教書には、「小田原関所」について触れられている。既に室町時代中期には関所も設けられていた。小田原を支配下に置いた大森氏は、関守として交通の要衝も抑えていたことになる。

小田原を城下町として発展させたのは、15世紀末に大森氏から奪取した後北条氏だった。後北条氏は、鎌倉時代に執政権を担った北条氏と血縁関係がない。後世の歴史家は、区別するため、戦国の伊豆で台頭し、南関東へ勢力を伸ばした北条氏の頭文字に「後」をつける。後北条氏は、始祖である早雲/宗瑞の時代、伊勢氏を名乗っていた。実際、室町幕府の伊勢氏の家臣だったのである。

        (2)後北条氏の始祖北条早雲の戦略

 戦国武将として名を馳せるまで、実に巧みな戦略により、争いに勝ち抜き、一国の領主に成り上がったのである。1476年のことだった。今川義忠が京都への遠征の途中、戦死したことにより、後継者を巡り、争いが勃発する。今川義忠と妻である宗瑞の妹である北川殿との間に生まれた龍王丸(たつおうまる)はまだ六歳と幼かった。

写真 掲載元 攻城団 生年と出時について https://kojodan.jp/blog/story/2793.html
フォト

 家督争いを丸く収めたのは、宗瑞であった。「龍王丸が成人(15歳)するまで」の約束で家督代行の座に小鹿(おしか)新五郎範満(のりみつ)がついた。権勢欲から、龍王丸が元服しても、その座を降りなかった。長享元年(1487年)十一月、宗瑞は、龍王丸に請願され、駿府今川館に小鹿新五郎範満を襲撃する。無事に成功し、家督を奪還した。今川家を相続した龍王丸は元服して氏親を名乗った。氏親は、第一の功労者であり、伯父でもある宗瑞に恩賞として興国寺城を与えた。

 拠点が駿河に定まったとはいえ、名のない武将に従うものは少なかった。勢力の拡大には、幕府の力が必要だった。転機は1491年(延徳3年)に起こる。駿河の隣国である伊豆で、将軍家の血を引く武将「足利茶々丸」(あしかがちゃちゃまる)が謀反を起こして、伊豆の覇権を握った。犠牲になったのは、室町幕府11代将軍「足利義稙」(あしかがよしたね)の肉親だった。

室町幕府は、そこで、駿河に拠点を築く、北条宗瑞に足利茶々丸討伐の命を出した。1493年(明応2年)、宗瑞は、幕府からの支持を受けて、事を運ぶ。全面対決を避けるため、足利茶々丸の住む「堀越御所」(ほりごえごしょ)に夜襲をかけたのである。茶々丸を取り逃したとはいえ、掘越御所を手に入れた。再起を喫する足利茶々丸との間では、約5年間戦いを繰り広げた。幕府の援護を受ける北条宗瑞が勝利し、伊豆を平定し、韮山城を領有する。大名家の生まれでもない北条宗瑞が、将軍家の血を引く者を倒して領地を手に入れた。戦国時代における下克上の先駆けとして後世まで語られることになった。

             (3)伊豆から小田原へ

権謀術数に長けた宗瑞は、征服欲から伊豆を拠点に、関東地方の攻略を企てる。
実のところ、後北条氏の祖、北条早雲/宗瑞(そうずい)の計略によって、小田原の城主大森氏は追い落とされたのである。

 詳細 小田原市 小田原デジタルアーカイブ https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/004/

詳細 刀剣ワールド城
https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/04/

ことの始まりは1494年まで遡る。当時、山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃していた。扇谷家の上杉定正は宗瑞に援軍を要請した。宗瑞は、山内家当主で関東管領上杉顕定の軍と荒川で戦った。勝敗は、突如決まった。上杉顕定正が、落馬により死去したとの報が入ると、撤兵したのである。

関東一円に勢力を伸ばした扇谷家は、相模の三浦氏と大森氏の代替わりにより、衰退が顕著だった。当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3名が、突然同じ時期に死去したことにより、後継者が育っていなかったのである。


 北条宗瑞は、扇谷家の混乱に乗じて、南関東一円を支配下に置くべく、企てた。南に相模湾、東に酒匂川、西に箱根の山々が連なる小田原は、まさに天然の要害、大森氏頼の死により、後を継いだ子供の藤頼(ふじより)を追い落とした。効率的に小田原を攻略するべく、城主である藤頼が留守にする時間を狙う。実のところ、父親氏頼時代に、宗瑞は跡継ぎの藤頼に取り入るべく、贈り物を与えていたのである。藤頼は、城主となると、宗瑞に気を許し、招き入れていた。

1495年9月、すっかり信頼関係を築くと、ようやく計画を実行する。韮山城から小田原へ、一通の手紙を送った。文面は、以下の通り、シカ狩りの協力を依頼する内容だった。
「伊豆で鹿狩りをやっていたら、鹿が皆小田原城の裏山に逃げてしまった。伊豆に追い返すため、勢子(せこ)を入れさせてほしい」

藤頼は、二つ返事で引き受け、全周9kmの城壁の中へ、勢子と勘違いした兵隊を通した。北条宗瑞の攻略部隊は、中へ入ると、夜襲をかけるべく、早速実行に移す。シカを捜索するとの目的を、警備隊に伝えて、箱根の山へと移動した。急峻な斜面を利用して、千頭の牛の頭に松明をつけて、麓の村へと突撃したのである。板橋の町屋(小田原城の西側下方面)を焼き、城へと邁進した。当時、大森藤頼の兵隊は、山内上杉家と戦った扇谷上杉家へ援軍を出していたのである。残った守衛では、抵抗さえままならなかった。こうして、64歳の宗瑞は、伊豆の韮山城に留まりながら、労力をかけず、小田原を手に入れたのである。

 写真 掲載元 北条五代の部屋より http://godairoom.travel.coocan.jp/g_rival/g5_godai_rival_omori.html
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     (4)南関東地域の覇者へ

小田原城を簒奪して以降、関東の東への勢力拡大は、頓挫していた。一円を納める扇谷家の上杉氏と山内上杉氏が和解し、協力関係を築いていたからである。攻略に向けて、用意周到に準備を進めた。永年1年(1504)に、立河原(現在の立川市)の戦いで、宗瑞は、甥である今川氏親と上杉朝良(扇谷上杉家当座)と手を組み、上杉顕定(山内上杉家11代目)と足利政氏から成る連合軍と相対した。結果、扇谷上杉家が勝利し、援軍を出した北条宗瑞も西への勢力拡大への端緒となった。

 一連の扇谷上杉家と山之内上杉家の戦い、長享の乱は、1504年の立河原の戦いで、扇谷上杉家が確かに勝利を収めた。北条宗瑞と今川氏親群が帰還したことにより、山之内上杉家は挽回を喫して立ち上がる。越後上杉家が山之内上杉家に加わると、形成は一気に変わった。扇谷上杉家が降伏し、山之内上杉家と和睦することにより、1487年から始まった長享の乱は、1505年に幕を閉じた。戦いは実に18年間に及んだ。

北条宗瑞は、立河原の戦いから兵を引き上げ、両上杉家が戦いで消耗するまで、待っていた。これまでの戦で、宗瑞が率いる部隊は、傷口を最小限に抑えていた。南関東平定に向けて、手はずが整った。永正9年(1512)三浦半島攻略の拠点となる玉縄城(現在の鎌倉市)を築城する。城主に次男氏時を据えると、小田原城との二つの拠点を設け、三浦道寸の岡崎城(現在平塚市岡崎)を挟み撃ちにした。同年8月、宗瑞は三浦道寸の岡崎城(平塚市岡崎)を襲撃した。道寸は奇襲攻撃に太刀打ちできず、住吉城(逗子市小坪)から新井城へ(三崎町小網代)と移り、追っ手を巻いた。戦略が功を奏した北条宗瑞は、再起を喫する三浦道寸に警戒しつつも、鎌倉に入った。鶴岡八幡宮の神前に戦勝を祈るとともに、荒れ果てた社殿の復興を誓って和歌を奉納した。
その句は「枯るる樹に又花の木を植え添えてもとの都に成してこそみめ」である。永正9年8月13日のことだった。永正13年(1516)、相模の最大勢力だった三浦道寸、義意父子が篭る新井城を3年に渡り、徐々に攻略し、自害に追い込んだ。

 外部リンク 新井城攻略について 玉縄城を守る 玉縄城址街づくりの会より
https://tamanawajo.jp/hojosoun

85歳にして、南関東地域を勢力圏に置いたのである。智謀知略に長けた北条宗瑞は、伊勢氏の家臣から南関東一円を収める武将へと上り詰め、後世に名を刻んだ。1519年9月8日、老衰により88歳で亡くなった。

写真=北条宗瑞/早雲の戦い図 掲載元 まっぷる 2022年5月13日 https://www.mapple.net/articles/bk/556/
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南関東の支配者となった後北条氏は、5代続いた。2代目氏綱は、小田原城に定住し、町を整備した。3代目氏康の頃には、上杉謙信や武田信玄さえ攻略に難航するほど、防備をきっちりと固めている。町全体を外溝で囲い込み、敵の侵入を阻んだ。長時間の籠城戦に備えるべく、酒匂川から水を引き入れ、稲作を行った。1590年に、豊臣秀吉によって、攻略され、90年余り続いた後北条氏は、滅びたのである。 
 
時は21世紀、小田原市は、箱根の麓であり、戦国武将の故郷としてアピールした。交通の便も良く、20世紀に開通した東海道新幹線が停車して以降、一段と栄えた。城の周りは、観光スポットと化し、家族連れやカップルが訪れる。春は、桜の花が、梅雨時は 菖蒲やアジサイが開花し、フォトスポットとしても定着した。交通の利便性と、古くから残る文化により、小田原市は今全国的に注目を浴びている。
以下 小田原城の歴史と特徴より https://abundance-life.com/blog/2022/11/17/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E7%89%B9%E5%BE%B4/

  第2部 旅物語 〜瞳閉じて〜

第1章 厚木飯山観音 

6月17日(土)

 梅雨の晴れ間、朝7時代一人の青年が、飯山観音のバス停から降りた。さんさんと太陽光が降り注ぐ中、青年は小高い山の中腹に位置する古刹飯山観音を目指して、リュックを片手に、歩き出した。麓の飯山花の里は、GW中に赤色や朱色のポピーの花で彩られていた。当時を懐かしく感じながら、階段を昇り始める。緑が濃くなった世界で、透明なブルーと薄いピンクに彩られたアジサイを鑑賞するうちに、心が洗い清められる。

    写真=長谷寺の境内   写真=バス通りに面した飯山花の丘付近
フォトフォト

 西暦2003年7月9日に36thシングルとして発売された「瞳閉じて」では、過去を懐かしむ主人公を描いている。

Aメロ冒頭の歌詞

心臓(ココロ)を強く叩いたり、溺れるように涙を流したい、輝ける未来に期待を抱いていた。あの日はポケットの奥にしまいこんだ 夢の中で よく見知らぬ街をさまよっているの

 つらいとき、寂しいときは、誰しも経験する。進路が未確定な若いうちは、夢を描き、そして恋に落ちる。時はバブル崩壊による長く続く経済の低迷期だった。恋人と将来を誓い合っても、未来への展望が開けず、別れてしまった。当時の思いを胸にしまいながら、旅を続けた。

続いて青年が訪れた場所は、同じ市内の七沢森林公園だった。東丹沢の麓に位置する起伏に富んだ公園内は、谷戸部から尾根部にかけて、一面雑木林が広がる。軽トラックに乗って、谷戸部から昇ってきた一人の職員によって、園内のアジサイ路を案内された。とても気さくな人で、疎らに通る散歩客に対しても、声をかけていた。アジサイ路は、尾根沿いから矢谷戸部の森の里町方面の森のアトリエ館前へ続く階段沿いである。

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 日陰に咲く株は、本来の色がしっかりと出る。人もまばらな園内では、ゴールデンウィークの頃と変わらず、キビタキの澄んだ鳴き声に、メジロの長く伸びるような声が加わり、リズム感が生まれる。

 静寂に包まれた園内で、ほっと一息つく青年の心境は、サビの歌詞に現れていた。

「瞳閉じて 二人繋がっている事を 私に伝えてほしい、涙を流す姿は、誰にも見せない、雲の色が違うは、雲の色が今日は明るい」

 梅雨空から一転して、晴れ間がのぞくと、日の光を浴びたアジサイが、一段と栄える。心も軽やかになった青年は、次の目的地へ向って出発した。

 第2章 秦野市 カルチャーパーク、松田町西平畑公園、開成町アジサイ祭

昼時に訪れたのは、水無し川沿いの秦野市カルチャーパークである。ソメイヨシノの緑の葉が庇の代わりになり、アジサイは直射日光から逃れ、しっかりと花を咲かせていた。

 我々ヒトが暑い太陽光で肌荒れするように、アジサイの花も日光が当たりすぎると、萎れてしまう。中腰になってアジサイを鑑賞するうち、恋人への思いを募らせた。青く透き通った花弁が、美しい人を連想させたのである。

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青年の気持ちは、Bメロに描かれている。

歌詞:「むき出しのままの、君の心は、どこに行ってしまったの、あの日から」

 突如姿を消した恋人へ向って、問いかけた。

続く歌詞:「パズルのようにピースはめ込み、季節が変わるたび いつの日か 奇跡が起きて」

 春、夏、秋、冬と四季によって我々ヒトの過ごし方は異なる。ここカルチャーパーク沿いの水無し川沿いでは、春先のソメイヨシノの開花に始まり、梅雨時アジサイが咲く。上流の神奈川県立はだの戸川公園では、四季折々花々が咲き、秋にはクヌギやコナラがオレンジに色づく。色鮮やかな紅葉が、ハイキング客を出迎えていた。季節ごとにライフスタイルが変化することにより、出会いが生まれやすい。


 歌詞:「私だけが孤独なの?Why 形だけの words of love」

 アジサイを通して、恋人を見つめる青年、心が通じたのか、「私だけが孤独なの」と返事が返ってきた。彼は、自分はここにいると、幻に向って叫ぶ。

第3章 松田町 西平畑公園 開成町アジサイ祭

 午後1時頃訪れたのは、隣の足柄上郡松田町の河津桜の名所、西平畑公園、人影もまばらで、ゆったりとした時を過ごせる。彼女のことが気になる青年、標高180mの園内から、足柄平野を見下ろした。ハーブガーデンの傾斜地に位置する庭には、アジサイの花が咲いている。園内の富士山を前にした空中ブランコは、開いていた。人の姿が少ない分、空虚感に襲われる。ふと、平野が広がる南側へ目を転じると、階段を上ってきた彼女の姿があった。

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サビの歌詞:「瞳閉じて、君の感じているものを、私に伝えてほしい、不思議な力がこの世にあって、君が笑うと、うれしい、君が笑うと、とてもまぶしい」

 日中の気温は30度越え、雲がなく、太陽光がアスファルトに跳ね返り、さらに熱を帯びる。再会した二人は、手を取り合い、再出発した。

 写真=西平畑公園(地図上では松田山ハーブフェスティバル会場と表記)から開成あじさいの郷へのアクセス 掲載元 魔女の知恵 2017年9月23日 https://majonochie.com/913.html
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 西平畑公園から、西へおよそ2,5kmの開成町のアジサイの里へと向った。開けた田園地帯に、1983年から5000株のアジサイが植栽された。6月10日(土)から18日(日)まで、アジサイ祭が開催されていた。水路やあぜ道に咲く株は、水面の反射光によって、色味が引き立った。

フォトフォト

 アジサイ道を歩きながら、あしがりの郷、瀬戸屋敷を訪れた。祭の開催期間、江戸時代から残る古民家と敷地内の池を中心に、アジサイアートが展示された。カップルから、子連れの家族、老年の夫婦が、狭い敷地内で道を譲りながら、アジサイに視線を注いでいた。フォトフォト
再会した二人は、燦燦と降り注ぐ太陽に温められ、気持ち的にも前向きになった。

最終第4章 小田原城 ライトアップ

最終目的地は小田原城址公園である。アジサイ祭の期間は、天守閣の営業時間が午後5時から6時まで1時間延長された。日暮れ時には、境内のアジサイと菖蒲園が、ライトアップされる。

   16時38分             16時39分
フォトフォト

 天守閣は、小田原の城下町と共に、東の相模湾一帯が見渡せた。西側は、箱根の山々によって、駿河国(現在の静岡県)の武将の行く手を阻んだ。南東へおよそ2km歩くと、早川漁港である。天然の要害でありながら、海の幸にも恵まれていた。

小田原城の天守閣で閉園まで1時間余り見学した二人、午後7時15分頃から始まるトワイライトタイムに合わせて、アジサイと菖蒲の花が競演する広場へと移動した。園内のベンチでは、若いカップルや老年の夫婦が、ゆったりと腰掛けていた。松田町の西平畑公園で再会した二人も、アジサイと菖蒲の花に目を向けながら、それぞれ思いを言葉で伝え合った。

Bメロのサビの歌詞:「瞳閉じて 今も繋がっていることを 私に 伝えてほしい 時々逃げ出したくなる 臆病者 」

 目を閉じて、心を砥ぎ澄まし、正直に主人公は、彼女へ告白した。

続くサビの歌詞には、彼女の思いが打ち明けられている。

「雲の流れが違うは、雲の流れが今日は速い」

日が暮れて、園内がライトアップされた。昼間の鮮やかな色合いとは対照的に、光と影が織り成す幽玄な世界に、ひきつけられる。

 写真=19時15分        写真=19時17分
フォトフォト

 空が青みを帯びた時間帯、二人は全体像を見渡した。コンデジの夜景モードに設定して、スローシャッターを切った。青みを帯びた空の下、ライトアップされたアジサイや菖蒲の花が、より引き立つ。トワイライトタイムが過ぎた午後7時38分、広場から天守閣を見上げると、真っ白い壁面が、光を反射し、荘重で格調高い。小田原の城下町の中でも、異彩を放っていた。

 写真=19時38分          写真=19時44分
フォト  フォト

 日が完全に落ちた午後7時40分頃、足元が暗くなるにつれて、カエルの合唱が響き渡る。戦国時代、日本各地の田畑で生息したものの、今では農薬の影響により、その数は少なくなりつつある。木道を歩く人々によって、靴音がたつ中、菖蒲が育った田んぼで、カエルは鳴き声を上げ続ける。敷地の外では、ビルが立ち並び、電車が頻繁に通り、バスも行き交う。対照的に、天守閣を望む夜の公園内は、神妙な空気に包まれていた。かつての城主は、カエルの鳴き声を聞きながら、梅雨時の夜を過ごしていた。

 日が完全に落ちると、全体像は掴みにくくなる。対照的に、暗闇に浮かぶアジサイの色合いや輪郭が浮かび上がり、神秘的である。都会の喧騒から離れ、戦国武将に思いを馳せながら、幽玄なひと時を楽しむうちに、心と体の距離がぐっと縮まった。

 続くサビの歌詞

「Ah 君の感じているものを 私に伝えてほしい 不思議な力がこの世にあって、君が笑うとうれしい、君が笑うと、とても眩しい」

 同じ場所でも、昼と夜では、全く違う様相を呈する。まさに小田原城址公園には、不思議な力が眠っていた。

 写真=19時48分          写真=20時3分
フォトフォト

 小田原市は、後北条氏が残した遺産を活用し、城址公園として整備した。夜の園内で響くカエルの合唱は、当時を偲ばせる。

 写真=20時11分
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 電気がなかった時代、人々は、外出を極力避けて、ランプの明かりを頼りに、暗い室内を移動していた。平成時代以降、冬時のイルミネーションを含め、ライトアップの催しが盛んになり、夜ならではのデートや写真撮影が定着した。「瞳閉じて」の作詞者、坂井泉水は、純粋な青年をテーマに、物語を描いていた。発表されて20年、平成から令和になり、今の若者にもしっかり届いていた。旅は続いていく。



 
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