「先々週くらいでついに、抱えている原稿が、小さいのも含めてまったくゼロになったんだけど、考えてみたら、それってたぶんン十年ぶりのことなんだよね。」
「おお、おめでとう! 山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう、っていうその山のあなたに、ついにたどり着いたわけだね。」
「そういえば、そうなんだろうけど。
でもね、書かなきゃいけないものを抱えているっていう義務感っていうか負債感がぜんぜんなくなった状態って、えらくあやふやな、まるで雲を踏むような気分で。
・・・正直、なんだか不安なんだよね。」
「幸せって、そうゆうもんじゃないの。
先代圓歌師匠の歌奴時代のネタでいえば、山のあな、あな、あな・・・っていうかさ。
さらにいえば、初代広沢虎造の節で、♪山のあな〜たの空遠く〜、幸い住むとぉ人の〜いう っていうか。」
「浪花節はないだろ。
要するにさ、ずっと原稿を抱えこんできた負債感がなくなると、私ってだれからも何も求められていないのね、いらない子なのね的いじけた気分になってきて、すなおに自由を謳歌できないんだよね。
なんかさ、だれか私に何かを求めて。 でもって私を束縛して、縄持ってきて亀甲縛りをして、団鬼六さーん、みたいな。」
「わかった。 それって、バイト探しはフロムエー、じゃなかった、エーリッヒ・フロムといういちびりのおぢさんがその昔に言った、『自由からの逃走』の欲求ってやつだな。
そうゆうときには、宗教か運動に身を投じて、集団的マゾマゾごっこに打ち興じるとよろしい。
手ごろな投身先のリストを作ってあげようか。」
「いや、それはいい。 人見知りをするたちなので。」
「人に縛られたいけど人見知りって、きみそれ、矛盾してない?」
「いや、人間って、本来的に矛盾を内包した存在だから、それでいいのよ。
あーあ、しなきゃいけないことを脇において遊んでるときの、あの罪悪感。 蜜の味だったなあ。
角を曲がったら、新たな負債が足に絡みついてこないものかしら。 ああ、ただし、私にしかできない「ならでは」タイプの期待や要請じゃないとだめよ。 でもって、体力が落ちているからそんなにしんどくなくて、それなりの対価も得られて、そのうえ面白くて・・・。」
「注文が多いなあ。 要するに、急に暇人になって落ち着かないだけなんだから、まあ、勝手にほざいていなさいよ。」
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