「ナムアミダブツとか、ナンミョーホウレンゲキョーとか、ナムダイシヘンジョーコンゴーとか、仏教のほうじゃ、お宗旨が違っても”南無”は定番だけどさ。
あれ、どういう意味?
”東西南”は「きたない」だけど、南が無いって、「日本沈没」の途中でまず九州が沈んじゃって、北日本と東日本と西日本はまだ残ってる、みたいな状態のこと?」
「この際だから、マヂレスしますとね。
あれって、漢字にはあまり意味はない。 サンスクリットの namas の音を写したものだからね。
だから、南摩や納莫と書いてもいいんだって。
仏さんや菩薩さんの名を呼ぶときに、心からの帰依を示すために名前の前につける語で、敬礼(きょうらい)とか帰命(きみょう)とか訳すらしいよ。」
「あ、そうなの。 切支丹の家で育ったから、ちっとも知らなかった。
あ、じゃあ、失敗した・残念無念ってときに、ナムサン! ていうのは、あれは何?」
「ああ、あれは南無三宝(なむさんぼう)の略でね。
三つの宝、仏さんと仏法と僧、つまり坊(ぼん)さんに帰依しますというのが、文字通りの意味。
それが転じて、驚いたときや失敗したと思ったときに発する間投詞っていうか、感嘆符みたいなものになったということらしい。」
「じゃあ、英語の”Jesus!”や”Oh my God”とまったく同じなんだね。
でも、向こうで引き合いに出されるのは、たった一人だかひとつだかの神なのに、仏教だと帰依する相手が三つも出てきて、面倒っぽいね。」
「いや、西方教会っていうか、ローマカトリック系に限っていえば、三位一体説ていうのがあって、そこそこ面倒だよ。
父・子・聖霊は三つにして一つっていう、よくリクツがわからないあれね。
ムカシのあっちでは、それを信じてるっていわないと、異端だといって審問されたり、火あぶりにされたりしたもんだよ。
「おーまいがっ」と「じーざす」と、間投詞が二系統あるのも、この”さんみいったい”の副産物なわけで。」
「なるほど。 でもさ、それじゃ、聖霊を引き合いに出して、「おーまい、ほーりーごーすと!」とかいわないのはなぜよ。」
「いやまあ、聖霊の出現は、ペンテコステの日っていう、一日限定のイベントだからね。
もっとも、米国のホーリーネス系の教会のなかには、年がら年じゅうホーリーゴーストが出現するっていう、楽しいところもあるようだけど。」
「ふうん。 なんか、ややこしいね。
まだ、仏・法・僧のほうが、わかりやすいや。
じゃあ、ぼくはこれからは驚いたときには、鳥の鳴き声みたいに、「おおまい、ぶっぽぅそー!」っていうことにしよう。」
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