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2022年04月30日12:19

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沢庵講話

百川子興の掛け軸です。

東海禅寺沢庵和尚語

佛は法を賈る。祖師ㇵ佛を賈る。末世の僧ㇵ祖師を
賈る。汝は五尺の身を賈りて一切衆生のほんのふを
ほとこす。

柳ㇵ緑 花ㇵ紅い
色 皍 是 空
空 皍 是 色

池の面に夜々通ふ月
なれとさし路もぬれす
水にあとなし

これは、沢庵禅師の講話から採られたものです。
最初に出てくる「佛は法を賈る」には仕掛けが込められて
います。「賈る」としたら、どこから調達してきたか、
買ってきたかとなります。「佛」は悟った人です。
そこで、買ってきたのではありません。佛は悟りを得る
(古語では「ウル」で、賈ると同音異義語)なのです。
これを加味すると、以下のようになります。

佛は法を得る。祖師ㇵ法を得た佛を賈る。末世の
僧ㇵ法を得た佛を賈る祖師を賈る。汝は五尺の身を
賈りて一切衆生のぼんのうをほどこす。

ここで「佛」は固有名詞ではなく普通名詞です。
誰もが佛になれます。

柳ㇵ緑 花ㇵ紅い
色 皍 是 空
空 皍 是 色

この三行は、最初の「柳ㇵ緑 花ㇵ紅い」が独り歩き
しているようですが、「色 皍 是 空」と合わせると
以下のようになります。

柳の葉は緑色に輝いている。花は紅に染まっている。
しかし、柳の葉は枯れて黄色くなり、茶色がかる。
紅の花も枯れてしまう。時と因果に応じて変わり、
柳の葉にも紅の花にも実体はない。私たちの意識には
常に「柳は緑 花は紅い」であっても。

この実体の無さは、最後の和歌に詠まれます。

池の面に夜々通ふ月
なれとさし路もぬれす
水にあとなし

月は毎夜、池の面(も・おもて)に、その影を映すが、
月の光が池にさしかかっても、さしこんでも、その行路は
濡れることはないし、池の水面に跡が残ることもない。

この和歌は柳と花にとどまらず、佛、法、
祖師にも当てはまるのかもしれません。

緑の柳が枯れても柳の緑が残ることはなく、
紅の花が萎れても花の紅が残ることがない。
しかし、また柳の緑、紅の花を私たちは見る。
同様に、悟りをひらいた者である「佛」は、
その道理を教える。教えられた者は啓発され、
さらなる悟りをひらき教祖となって「佛」に
教えられた道理を他の者に教える。末世では
教祖に教えられた道理をさらに教える僧がいる。
池に映る月の影に実体がないように、教えられた
佛にも実体はない。「佛に遭ったら佛を殺す」
という自己超越を示唆。

この「佛に遭ったら佛を殺す」は最初の「得る」と
「賈る」とも連結するでしょう。

五尺の身を賈ることで煩悩を和らげるは、沢庵禅師
(1573ー1646)より以前に一休禅寺(1387−1406)も
地獄大夫に言ったとされています。故人のお二人にどちらが
先に言ったかと訊いても、どちらが言っても構わないでは
ないかと笑われることでしょう。

こうして、禅的機智にあふれています。
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