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2022年04月08日00:11

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ノートの写し242

〇常識的な観点からすれば、事象選択ではすべてがひっくり返っているように思われるだろう。とはいうものの、事情選択の立場からすれば、常識に対しても同じことが言える。もしあなたがみんなと同じようには暮らしたくないと望むなら、もしあなたが月並みな成功で満足したくないと思うなら、そして、もしあなたが「盛りだくさんのプログラム」に乗っているすべてを自分の人生で受け取りたいと願うなら、あなたを修行者と呼ぶことにしよう。事象選択の修行者は、運命の寵児ではなく、修行者の方が運命を選ぶのである。もしあなたが自分の常識という一枚岩を揺り動かすことが出来たなら、あなたは欲しいものをすべて手に入れることだろう。それは決して雲間へと飛び去ることではなく、逆に地上へ降り立つことを意味する。なぜなら、広く世間に受け入れられている常識とは、本当は地に足のついた物などではないからである。その点についてあなたはすでに一度ならず納得されたことと思う。しかし、間もなく尋常ではないもっとたくさんの物事が目の前に繰り広げられるのを、あなたは見ることになるだろう。
 まずは掲げられた目的に視覚化が、いつも成果をもたらすとは限らない理由について説明してみたい、密教や従来とは異なる心理学の熱烈な信望者であっても、視覚化を完全には信頼することが出来ないでいる。視覚化には簡単なやり方もあれば、かなり複雑なやり方もある。何らかの成果があることもあれば、ないこともある。私個人としては、このような制度では満足出来ないし、おそらくあなたも同じ意見であろう。どうか安心して頂きたい、事象選択における視覚化は、決して一般に理解されているような視覚化ではない。それどころか、事象選択の法則による視覚化は、実際にとてもよく効く。その信頼性は保証付きである。
 良く知られている視覚化の技法には幾種類もあるが、それらは次の三つのグループに分けることが出来る。一つ目のグループは、夢想することである。実用的な観点からすると、これは最も弱くて頼りにならない視覚化の部類に入る。夢想することは有害ではないが、実用面では無益なことである。夢はかなわない。通常、夢想家たちは自分の夢を実現させる権利を真剣に主張したりはしない。自分の夢が実現したらいいと強く思っているだけである。しかし、夢想家達は心の奥深くでは、夢がかなう可能性を信じていないか、または所有し行動する意図を持っていないかのどちらかである。夢想家たちは自分の夢をはるか遠くにある星々のように眺めている。それは何の根拠もない空中楼閣のようなものだとほのめかされると、「私の夢だ、放っておいてくれ」と言ってカキ貝のようにパタンと貝殻を閉じてしまう。夢想家たちの目的をハッキリ定義づけるとすれば、それは夢想することそのものであって、それ以上の何物でもない。
 二つ目のグループは、映画である。ここで私が言おうとしているのは映画館で上映される映画フィルムの事ではなく、の自分の願望についての思考上のフィルムのことである。頭の中でフィルムを映し出すことは意図的に行われる。この点が夢想することとの違いである。所有し行動する意図があり、行動の中の一つに、映画フィルムを映し出すような形での願望実現の視覚化がある。それはどのようにして起こるのか。例えば、あなたが家を欲しいとして、それをあらゆる細部にわたってあれこれ念入りに想像するとしよう。あなたの頭になかには、極めて鮮明な画像化、または、ほとんど目で見ているような明確な画像があり、毎日ずっとそのことを考えている。
 あなたがこの課題を見事にやり遂げたとしよう。願望は実現されるはずと思われるだろう。あなたは何を得られるか、当ててみよう。必ずやその家を目にすることは出来る。あなたが想像した通りの家か、ほぼそっくりの家である。けれども、その家はあなたのものでは無い。それは通り沿いに立っている他人の家か、映画の中に出てくる家である。なぜなら、あなたは注文した通りのものを受け取るのだから、確かにあなたは一生懸命に家の視覚化に取り組んだが、その際、「給紙係」にそれがあなたのいうことを全く説明していない。だから、休止係はあなたの注文を忠実に履行しただけである。あなたは、他の本の中で教わった通り、視覚化のプロセスの質に気を奪われたため、その家の持ち主は誰かという一番大事な点を忘れてしまった。これこそが資格化に取り組んでいる人が犯しやすい主な間違いである。フィルムは依然としてフィルムのままで、あなたはいつまでたってもその登場人物にはなれない。あなたは、ホームレスがショーウィンドーを見るような目つきで、その家を眺めることになる。
 資格かの三つ目のグループでは、あなたは観客として映画を見るのではなく、頭の中で映画に出演している。これはもうずっと効果的である。あなたは自分の役割を演じながら、しかるべき人生ラインのパラメーターに同調する。例えば、あなたの目的が家を持つことだとしよう。頭の中でその家を絵でも鑑賞するように眺めてはならない。自分の家についての仮想現実的な夢を、ある意味、現実のものとして、自分の中に築き上げるのである。家の中に入り、部屋から部屋へと歩き回り、回りにある品々に手を触れてみる。暖炉の前の肘掛椅子に座ってくつろぎ、心地よいぬくもりを感じ、煙の香ばしい香りをかぎ、薪を暖炉にくべてみる。キッチンへ行き、冷蔵庫の中を除く、そこには何が入っているだろうか。寝心地のよさそうなベッドに横たわってみる。気分はどうだろうか。家族とともに食卓を囲む、引っ越しのお祝いをしよう。家具の位置を変えてみるのもいい。庭の芝生を手で触ってみよう。緑色で柔らかい芝生を。花を植えてみよう。リンゴの木から身をもぎ取ってかじる。自分が家にいることを実感して見るのである。ここはあなたの家なのだから、苦悶する夢想家のような目つきで、手の届かないものやはるか遠くにある景色を畏敬の念を持って眺めるように、あなたの家を眺めてはいけない。あなたはすでにその家を所有しており、それが現実のことであると装うのである。
 この視覚化がスライドである。このようなスライドはあなたの快適域を広げ、時間の経過とともに必ず現実化される。しかし、いつそれが起こるのかは分からない。長く持たなければならない事もあり得る。すべては、あなたがそのスライドをどれほど丹精込めて手入れしたかにかかっている。もし、少し手入れ下は放っておくという事では、何も期待できない。奇跡が本当に起こることはない。

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