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2020年03月23日06:18

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広く世界に知識を求めた日本

憲法に留まらない。五箇条の誓文にあるように、明治政府はまさに世界に学びました。例えば、土木や陸軍はフランスやドイツに、教育はアメリカやフランスに習い、海軍は、イギリスやアメリカの指導を受けました。

国立公文書館などに所属されている立法資料には各国の事例が綱羅されており、その努力には息をのむ思いがします。先進国の事例を綱羅的に集め、そのなかから日本に合う形を探る手法は、明治国家建設に共通する作業でした。

その調査にはきわめて深い政策への理解と高い語学力が求められます。この務めを果たしたのは、若手の官僚たちでした。大学で学んだ専門性と行政に従事した経験を持つ官僚は、新知識の導入に大きな役割を果たしました。

この流れを大きく前進させたのが岩倉使節団です。この使節団は条約改正交渉の失敗で知られていますが、ミッションはそれだけではなかったのです。彼らは世界の最先端の文物や制度を学び取ってくれることを条約改正に並ぶ目的として与えられていたのです。

もちろん、岩倉使節団が欧米を見聞する以前から、各省はそれぞれに優秀な若手官僚を派遣していました。使節団はこれらの留学生の知識やネットワークを営みに用いて調査を行い、民主主義や分業による大量生産の方法といった近代国家の機能を理解して帰国し、近代化を進めていくのです。

もっとも、当初は薩摩や長州といった「官軍」の若手が留学の機会を得やすかった。それどころか学問の頂点にあった大学南校にも、「官軍」の子弟が優先的に集められ、強い批判を生んでいました。

五箇条の誓文は第3項ですべての人々が志を持ち、それを叶えることのできる社会をつくる宣伝していたから、学びの機会が一部に限定されていることはこの精神に反していました。状況を変えたのは学生でした。

大学南校の学生からより広く学問の門戸を開放するべきであるという建議が行われ、意外にもこれが採用されたのです。1870年、大藩から3名、中藩から2名、一万石の小藩あっても一名の青年を送り出すように全国に命が下ったのでした。

これを「更新世」制度といいます。授業が英語で行われるため、英語を解する優秀な青年であることが条件とされました。藩閥も、自分たちの子弟だけでは人材供給が追い付かないことを理解していたのです。


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