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2018年09月22日10:16

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最近、思ったこと。part0032


  〔緊急連載〕ロシア東欧史概論対露アウトライン・ダイジェストその8{かっ飛びつまみ食い編その6}。前回モンゴル建国の八大功臣「四狗四駿」の話をして、さて、話はいよいよモンゴルの「ロシア征服」へと進みます。前回までのチャートは以下の通り


1、ジンギス・カーンは中央アジアのホラムズ・シャー帝国を滅ぼし、最精鋭部隊を次の目的地キプチャク草原(ウクライナ・トランスコーカサス)への侵攻させる。
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2、「四狗」ジェベ・スブタイ率いる2万騎の最精鋭部はルーシー・キプチャク連合軍をカルカ河畔に大破する。
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3、ジンギス・カーンはホラムズ・シャー帝国の軍事的中枢だったアラル海北方に遊牧するカルルク部族を長子・ジュチに与えるが、ジュチが病死する。
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4、遠征目的を失ったジンギス・カーンはジュチの子供たちにカルルク部族の統制を命じてジョチ・ウルスを建国させ、全軍を率いて西夏王国討滅戦争へと出陣しそこで陣没する。
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5、未完の遠征を完遂するためにジョチ・ウルスの遊牧騎士達は隣接するボルガ・ブルカール王国へ威力偵察を繰り返し行う。
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6、第二代オゴタイ・カーンは未完の「キブチャク草原制圧」のため大遠征を「クリルタイ(帝国会議)」で議決させる。
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7、議決に従いスブタイ・モンケ・グユク等が率いる35000騎の大遠征軍がモンゴル本土からジョチ・ウルスに到着。
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8、カルルク部族を主体とする現地軍15000騎と合わせ50000騎の騎兵が勢ぞろいし、「ジョチ・ウルスの長」バトゥ・カンがカーンの命令により総司令官として任命され「侵攻軍」が組織される。
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9、バトゥは全軍を3隊にわけ15000騎をボルガ・ブルガール王国に向け、20000騎をカピス海沿岸へ配置し、15000騎をコーカサスの山すそへ向かわせる。
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10、右翼15000騎がボルガ・ブルガール王国を半年でほぼ「壊滅」させる。
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11、すかさず南北共同してキブチャク草原の家畜・牧民を囲い込む。
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12、若干の抵抗・逃亡をあっさり排除して4万戸のキブチャク部族を「接収」する。
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13、すぐさまヤサの軍律でキブチャク部族を「分配」し「組織化」する。
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14、90000騎が組織化完了し、小手調べにキブチャク部族の先導で北部ルーシーへ侵攻する。
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ここまではモンゴルの完勝。文字道理「計画通り!」ってとこだな。ロシア平原の歴史は「時計回りに135度ほど回ったチャイナ史に類似している」と依然書いたが、チャイナ史にたとえれば「内外モンゴル高原」を制覇した状態になったわけだ。


15、北部ルーシーへの侵攻は実質4ヶ月で完勝。ウラジミール大公・ユーリー2世は戦死、ガリーチ公ダニールは降伏後ハンガリーに逃亡し、ノブゴロド公アレクサンデル・ネフスキーは無条件降伏した。
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16、完勝後、モンゴル軍は長期駐留を避け全軍補給のためにトランスコーカサス(ドン川以西のキブチャク草原)へ撤退。
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なぜ、こんなにもあっさりモンゴルの「ロシア征服」がなったのか不思議に思う人が多いと思う。ナポレオンもヒトラーも敗退したロシアがなぜこうも簡単に「陥落」したのか?答えは簡単。


「元々」そこに「いた」からさ。


契丹帝国と共にモンゴル帝国の「祖形」となった突厥帝国がキブチャク草原に始めて侵攻してから650年の歳月が流れていた。トルコ系キブチャク族はスラブ人を統べるゲルマン系ルーシー人たちと「拮抗」する勢力を元々持っていた。そこへ強力無比なモンゴル軍50000騎が突如侵攻してきたのだ。


綱引き「いい勝負」の真っ最中に片っ方がトラクター繫げた様なもんだな(笑)。


これはルーシーの「公」たちとキブチャク族長家との「通婚」関係を調べてみるとよく判る。中川博士は「ルーシー諸公」は「モンゴルの婿殿」になったと書いていたが、実は侵攻前段階ですでに「キブチャクの婿殿」にとっくになっていたわけだ(笑)。後で語るが「ルーシー諸公」は下っ端のキブチャク族ではなく親玉のモンゴルへと「通婚相手」を切り替えた。それが「間違い」だった(-_-;)。モンゴル帝国はそんな「通婚関係」でどうにかなるような甘っちょろい代物ではなかったからだ(黒笑)。


17、反乱したアス族(現代のオセット人)討伐の最中に総司令官バトゥ・カンとオゴタイの子グユク、チャガタイの子ブリが指揮権をめぐって対立する。
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18、副将スブタイから連絡を受けたオゴタイ・カーンはグユク、ブリ、そしてバトゥ・カンの盟友(アンダ)モンケに本土帰還を命令する。
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19、ジャルリク(カーンの命令・勅令)に従いグユク、ブリ、モンケと15000騎のモンゴル正規軍が遠征を抜けカラコルムへと帰還する。
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さて、「トラブル」発生(笑)。「計画通り!」とはなかなかいかんもんです。ここで「正規軍」が半減しモンゴル帝国独特のモンゴル→カンクリ族→キブチャク族→ルーシー人→スラブ人の「征服順位別ヒエラルキー」が弱体化するのだが、総司令官バトゥ・カンと副将スブタイはモンゴルの「組織力」に絶対の信を置いて協議の末「遠征続行」を強行する。と、同時に「ヒエラルキー」の弱体化を補うために


「恐怖(テロ)戦略」を発動するわけだ(怒)。


はーーーーー(-_-#)、「無理な作戦」では常に「下っ端」が泣く事になるのよ<(T^T)>。いつの時代、どこの世界でもそうだがモンゴル帝国ではこれが「ちょーーーー極端」なの(ToT)。


20、総司令官バトゥ・カンと副将スブタイは協議の末、遠征続行を決断しオゴタイ・カーンへ許可を求める。
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21、首都カラコルムから遠征続行の命令が届き、北部ルーシーをにらみ中部ルーシーのチェルニコフへ威圧進駐する。
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22、3路に分かれて70000騎のモンゴル騎馬軍団が一挙にキエフに殺到する。
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23、「木城」キエフは一瞬にして陥落し、全市が焼き払われ、全住民が「皆殺し」にされる。
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ね、「極端」でしょ(ToT)。キエフは北部ルーシーを従わせるための「生贄の羊」にされたのよ(ToT)。だから、北部ルーシー攻略やこの後の東欧攻略戦のように「外交」による「妥結交渉」を全部すっ飛ばしていきなり「全軍」による「全力攻撃」を受けてる。だから、「クニージャ(公)」はさっさとルテニア(ガリチア)に逃げ出して全員生き延びてるのよ(-_-#)。「許されない」とそこだけは判っていたからね(ToT)。これですめばまだよかったんだけど、まだこの続きがあるんだからやりきれない(-_-#)。15000騎のモンゴル正規軍の不足を補うために


「矢盾(弾除け)」代わりの「軽歩兵」としておよそ20万人のウクライナ農民が「人狩り」による大動員を受ける羽目になったわけだ(怒)。


ちなみに「軽歩兵」を拒否するとそのまま鎖につながれてイスラム圏へ「奴隷」として輸出されることとなった。エジプト・マムルーク朝の創設者バイバルスはこの時「売られた」一人だ。モンゴル帝国では武官・文武権任官の他は「家畜」と「奴隷」と「その他(庶民)」しかいないってみんなわかった(-_-#)?


22、キエフ落城後、周辺農村から根こそぎ男を「人狩り」して「軽歩兵」隊を編成し、残余を「奴隷」として売る。
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23、歩兵20万、騎兵7万の東欧遠征軍がキエフ郊外で「組織」される。
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24、総司令官バトゥ・カンは全軍を3隊(支隊を含めると5隊)に分け、キブチャク征討と同じ「巻き狩り」戦略でキブチャク・マジャール騎兵をハンガリア盆地中央部追い込むよう全軍に指令し、東欧遠征軍を出撃させる。
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ついに、モンゴル軍は東欧そしておそらく「計画」ではライン川以東のゲルマニア(神聖ローマ帝国本土)制圧を目指して27万の大軍を進発させた。中世では「兵力」は「脅し」の意味も含めて大げさに書かれるものだか「徹頭徹尾の軍事的合理性」権化・モンゴル帝国では自軍の「作戦計画」を阻害するあらゆる要素を「徹頭徹尾排除」するのでこれはほぼ「実数」と見て良く、ヨーロッパではローマ帝国全盛期にもなかった空前絶後の大軍だ。そして、そのゆくえ、ヨーロッパの運命を左右した戦争についてはまた次回語ろう。


おまけにみくしー検索かけてみました。

「ロシア史」


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