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2015年08月26日07:28

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愛は霊的な鏡

 関係性にまつわる課題に関心がある方は、ちょっと下記のサイトを覗いてみてください……この記事は、ぼくたちの京都時代(もう20年も前の頃のこと)にオーガナイズしたサガプリヤのグループ参加者の体験記です。友人のパリトーショが、当時ぼくが発行していた『TSUKUYOMI』という小冊子に寄稿してくれたものですが、サガプリヤというひとのワークがとてもよく描かれています。 参加を希望される方は、ご連絡ください。

 http://now.ohah.net/pari/work/sagapria.html

 サガプリヤとの出会いは、ぼくにとって大きな機縁となりました。20年ほど前に受けた彼女のワークや個人セッションから関係性をめぐる気づきをたくさん得ることができたのです。有名なラクダ / ライオン / チャイルドのワークを創案したのもサガプリヤです。

 サガプリヤのワークの基本は関係性のワークです、そしてその関係性は、ひとりひとりの右足と左足の関係にオーバーラップしてくる部分が多いのです……Heart of Lifeのオリジナルワーク『グラウンディングレッグス』は、ぼく自身の瞑想体験とサガプリヤから得た洞察、そしてあけみちゃんの声かけのワークやプロセスワーク的手法のハイブリッドになっています、、、、第一チャクラは根のチャクラだけれども、その根の根とも言える両足のワークです。

 関係性の奥にあるものに光を当てようとするならば、右足と左足のなかに深く入ってゆくことが役立ちます、それら内面のパートナーシップのありようが、そのまま外側のパートナーシップに反映されていることへの気づきがもたらされます、先日の日記で、1/22に名古屋で行われるグラウンディングレッグスは定員に達したとお知らせしましたが、定員枠を12名まで拡張することにして、広めの会場を探しているところですので、参加を希望されるかたはご一報ください。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
     〈グラウンディングレッグス(定員 12 名)〉

  ■ 1/22(土) 10:30〜17:30
  ■会場は、主催者である華ちゃん宅をお借りすることになりました。
  ■受講料。 18,000円(再受講の方は12.000円)

  レッグワーク、カラーブリージング、トーニング、ミスティックウォーキング、ボディワークやサウンドシンセスなどを用いて、重力と語らいながら、脚足、第一チャクラ、赤の領域に働きかけてゆきます。グラウンディングの感覚を呼び起こし、エネルギーを活性化させることで深い安定感、意欲、持久力を呼び起こし、内面への探索に必要な土台を整えてゆきます。また右の足と左の足がもつエネルギーの質や違いについての新しい気づきと理解を育み、左右の脚のエネルギーバランスを整える技法を紹介してゆきます。
 
*主催は、華ちゃん(吉田以寿美さん)にお願いしてありますので、お申し込
 み、お問い合わせは、華ちゃん(090-1099-2133)までお願いします。

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  ちょうどOSHOの講話のなかに、愛と瞑想(気づき)をめぐる、切ないほどのことばがありますので、紹介しておきます。『黄金の華の秘密』という講話シリーズのQ&Aに含まれている部分です。

     …………………………………………………………………………

問い:

「何故愛は、霊的な成長においてそんなに大切なのですか?」

OSHO:

愛と気づきは、両極の最高の高みだ。
ちょうど、男と女、生と死のように、
暗闇と光、夏と冬のように、
外と中、陰と陽のように、
身体と魂、創造と創造者のようにだ。

愛と気づきは、両極の高みで、
変容が起こる最後の極みだ。

愛には2人が必要だ。それは関係性だ。
それは外に向かう。外に向かうエネルギーだ。
相手が、愛される人がいる。
相手が、あなた自身より重要になる
あなたの喜びは、相手の中にある。

もし相手が幸せなら、あなたも幸せだ。
あなたは相手の一部になる。
ある種の依存関係がある。
そのように、相手が必要だ。
相手なしでは、あなたは寂しさを感じる。

気づきは、完全に独りになって、
注意深く自分自身とともに、 ただあることだ。
それは関係性ではないので、他者は全く必要ない。
それは外側に向かうことではない。
それは内側に向かうことだ。

愛はあなたの存在から出てくる光の動きだ。
気づきは、それとは反対の動きで、
源へ再度戻る光の反対方向の動き、
源へ帰る動きだ。

これはイエスが悔い改めと呼ぶものだ。
--- これは言葉どおりの悔い改めるという意味ではなく、
源へ帰るという意味だ。
パタンジャリはこれをプラチャーラと、家に戻ってくることと呼ぶ。
マハヴィーラはこれをプラチクラマンと、自分自身に帰ることと呼ぶ。
環が完結したという意味だ。

黄金の華の秘密は、あなたのエネルギーの逆向きの動きに基づいている。
完璧にそれに基づいている。
しかし、この逆向きの動きが可能なのは、
あなたが外に向かう動きをしていたときだけだ。
あなたは愛の中に入っていかなければならない。
あなたは、自分自身にたどり着くために、関係性を持つ必要がある。
これは逆説的に見える。

再び子供になるためには、子供は世間に毒される必要がある。
無垢は、再び本当の無垢になるためには、
ずる賢さのあらゆる騒ぎに入っていく必要がある。
子供は無垢だが、それは無知によるものだ。
聖人も無垢だが、それは無知によるものではなく、
経験によるもの、成熟によるものだ。

彼は再び無垢になるが、その再びなることが非常な重要性を持っている。
--- それ以上、彼の無垢を乱すことはできない。
子供の無垢は乱されざるを得ない。
全てのアダムはエデンの園を、無垢の世界を去る必要がある。
全てのアダムは、世間に、その泥沼に出ていく必要がある。
何故なら、そうして初めてあなたは成長し、成熟することができるからだ。

そこでだけ、あなたは学び、
そこでだけ、対比することによって無垢の美しさを見、
そこでだけ、あなたは無垢の輝きを理解する。

あなたが無垢の美しさを学んだ日には、
あなたは、気づきを持つようになっている。
あなたは、家に帰ってきている。

もしアダムが天国を去らなかったら、彼はキリストにはなれない。
彼は子供のままだ。
アダムは、外側への動きを意味している。
キリストは、内側への動きを意味している。
アダムは愛を意味し、キリストは気づきを意味している。
環は完結した。
アダムとキリストの違いは、その方向だけだ。

アダムは外側に向かい、その同じ人が反対に向きを変え内側に向いたら、
彼はキリストになる。
アダムは潜在的なキリストで、キリストはアダムが実現されたものだ。

愛はとても本質的なものだ。
あなたは、自分を得るために自分を見失う必要がある。
愛は、自分を完全に失うことを唯一可能にするものだ。

あなたが完全に失われたとき、あなたは自分がしたことを思い出すことができる。
それはいつも大海に住んでいる魚のようなものだ。
彼は決して大海に気づかないし、その祝福に気づくことはない。
彼は網に捕まる必要があり、
漁師が彼を拾い上げ、砂浜に放り出す必要がある。
その砂浜で、暑い日の下で、
彼は初めて思い出す。
彼は何年も大海に住んできたのに、大海には気づかなかった。
全く気づかなかった。
今や渇きが、暑さが、大海を意識させる。
大海に帰りたいという大きな渇望が起こる。
それが大海にジャンプして戻るためのあらゆる努力を作りだす。

それが探求者の状態だ。
大元の源へ帰りたいという渇きだ。
そしてもしこの魚が大海に再び戻ることができたとしたら、
あなたはその祝祭がどれ程のものか想像できるだろうか?
その魚は大海にずっと住んできて何も祝祭はなかったというのに。
今や祝祭の可能性がある。
今はとてもうれしく、祝福されていると感じる。

霊的な成長のためには、愛は必要だ。
更に愛は鏡として働くので、それ以上のものだ。

誰かあなたを愛する人の目の中に、自分の顔を見たことがなかったら、
あなたが自分自身を知ることはとても難しい。
ちょうど、自分の肉体的な顔を見るのに鏡を見る必要があるように、
自分の霊的な顔を見るためには、そのような鏡が必要だ。

愛は、霊的な鏡だ。
それはあなたを育てる。
それはあなたを統合する。
それはあなたが内側の旅する準備を整える。
それはあなたの本当の顔を思い出させてくれる。

深い愛の瞬間、本当の顔の一瞥がある。
しかしその一瞥は反射という形でやってくる。
ちょうど満月の夜に、湖の中に映った、静かな湖の中に映った、
月を見るときのように、愛も湖のように働く。

湖に映った月は、本当の月の探求の始まりになる。
もしあなたが湖に映った月を見たことがなければ、
あなたは本当の月を決して探すことはないだろう。

あなたは月を探すために、何度も何度も湖に入っていくだろう。
何故なら、あなたは最初こう考えるからだ。

「湖のどこか深い底のところ、  
これが本当の月がある場所だ」と。

あなたは何度も何度も飛び込み、そして手ぶらで上がってくる。
そこであなたは月を見つけられない。

そうしてある日、あなたはこの月がただの反射に過ぎないのだとわかり始める。
それはとてつもない洞察だ。
そうすればあなたは上を見ることが可能になる。
もしこれが反射だとしたら、月はどこにあるのだろう?
もしこれが反射なら、あなたは反対の方向を見なければならない。

反射は、湖の深い場所にある。
そうなら、本当の月は湖の上のどこかにあるに違いない。
そうして初めてあなたは上を見上げ、旅が始まることになる。

愛は、湖に写った月は、
瞑想の一瞥を与えてくれる。
しかしそれは反射であって本物ではない。
だから愛は決してあなたを満足させることはできない。
実際には、愛はあなたをいっそう不満に、不満足にする。

愛は何が可能かをあなたに気づかせるが、物を届けてくれる訳ではない。
それはあなたを欲求不満にする。
そして深い欲求不満の中でだけ、
自分自身の存在に向きなおる可能性がでてくる。

愛する人達だけが、瞑想の喜びを知っている。
愛したことがなく、愛に欲求不満を感じたことがない人は、
月を探しに愛の湖に飛び込んだことがなく、
決して欲求不満になったことがない人は、
空の本当の月を見上げることはない。
彼らは決してそれに気づくことはない。

愛することができる人は、遅かれ早かれ宗教的にならざるを得ない。
しかし愛することがない人は、
--- 例えば政治家だが、彼らは人を愛することができず、
権力しか愛することができない。
そういう人は、決して宗教的にはならない。

或いは、お金に取り憑かれていてお金だけを愛する人は、
お金を愛するという愛しかしらない人は、
決して宗教的にはならない。
多くの理由で、彼にとってそれは非常に難しい。

お金は所有できる。
あなたはお金を持つことができ、所有することができる。
お金を所有することはたやすいが、愛する人を所有することは難しい。
実際にはそれは不可能だ。
あなたは所有しようと試みるが、
どうして生きた人をあなたが所有できるだろう?
生きている人は、あらゆる方法で抵抗し、最後まで戦おうとする。
誰も自分の自由を失いたくはない。

愛には自由ほどの価値はない。
愛には大きな価値があるが、自由ほど高い価値はない。
だから、人は愛されたいと思うが、愛に縛られたいとは思わない。
このため、遅かれ早かれあなたは欲求不満になる。
あなたは所有しようと試みる。
しかし所有しようとすればするほど、
愛が不可能になり、相手があなたから離れていく。

所有することがなければないほど、
あなたは相手と近づいた感じがある。
あなたが全く所有することがないと、
恋人達の間に自由が流れていると、
そこには大きな愛がある。

第一に、人を所有しようとする努力は失敗せざるを得ない。
それによる欲求不満は自分自身に投げ返される。

第二に、もしあなたが人を所有しないことを学んだら、
もしあなたが、自由が愛より価値があることを、
愛より遙かに高い価値があることを学んだら、
遅かれ早かれ、分かるだろう。
自由があなたを自分にもたらすということを、
自由があなたの気づきに、瞑想になることを、
自由は瞑想の別の面だ。

自由から始めたら、あなたは気づくようになるし、
気づきから始めたら、あなたは自由になる。
それらはいっしょに進む。
愛は一種の微妙な束縛だ。
それらはいっしょに進むが、愛は必須の経験だ。
成熟のためにはとても大切なものだ。

マージェリー・ウィリアムのすぱらしい本「ビロードのウサギ」
という本に、愛を通してやってくる真実のすばらしい定義がある。


ある日そのウサギが尋ねた。

「真実とは何なの?
 それは、あなたの中にがやがや言う声があって、
 それに取っ手をとりつけるという意味なの?」

その裸馬は言った。

「真実というのは、君がどう作られたかではなく、
 君に起こることさ。
 子どもが長く君を愛するとき、
 単に一時の遊びのためじゃなく、本当に君のことを愛するとき、
 君は真実になるのさ」

ウサギは尋ねた。

「それに傷つけられることはない?」

裸馬はいつも正直なのでこう言った。

「ときにはそういうこともあるけど、
 君が真実なら、傷つくことは気にしない」

彼は尋ねた。

「それは、興奮するときのように一気に起こるの?
 それとも少しづつ?」

裸馬は言った。

「それは一気には起こらない。
 君はそうなっていくが、それには長い時間がかかる。
 だから、くじけやすかったり、刃こぼれしやすい人や、
 注意深く世話をやかないといけない人には、
 なかなか起こらないんだ。

 普通は、君が真実になる頃には、
 君の毛は抜け落ち、目は落ち込み、関節が緩み、
 みすぼらしくなっているさ。
 でも、そんなことは全然気にならない。
 だって、君が一度、真実になったら、醜くくはなれないからさ。
 それが理解できなる人達にとってはね。
 もし君が一度、真実になったら、二度と不真実には戻れない。
 それはいつまでも続くんだ」


愛はあなたを真実にする。
それがなければ、あなたは実体のない幻想のままで、
夢のままでいることだろう。

愛はあなたに実体を与える。
愛はあなたに統合を与える。
愛はあなたに中心を与える。

しかしそれは旅の半分に過ぎない。
あとの半分は瞑想の中で、気づきの中で完結されなければならない。
だが愛はもう片方の半分を準備してくれる。
愛は最初の半分で、気づきが後の半分だ。
それに伴う痛みを受け入れて、それを通り抜けていきなさい。

そうだ。それは傷つける。
しかしあなたが愛のうちにあれば、なんということはない。
実際には、そのどの傷もあなたを強くしてくれる。

ときにはあなたをものすごく、酷く傷つけることもある。
しかしそのどの傷も
あなたを挑発するのに、
あなたの真価を問うのに、
あなたの居眠りを壊すのに必要なものだ。
それらの危険な状況はどれも、あなたを油断無くするために必要なものだ。

愛は地面を整え、愛の土壌の中で瞑想の種が成長できる。
そして、愛の土壌でしかそれは起こらない。

だから恐怖によりこの世間から逃げだす者は、瞑想に到達することはない。
彼らは何生にも渡ってヒマラヤの洞窟に座り続けることはできても、
瞑想に到達することはない。
それは不可能なことだ。

彼らはそれを稼ぎ取った訳ではないからだ。
先ずそれは、世間で稼ぎ取る必要がある。
先ず彼らは土壌を整える必要がある。
そして愛だけが、土壌を整える。

だから私は、私のサニヤシンに世間を捨てないように要求するのだ。
その代わり世間の中にいて、その挑戦を受け入れ、
その危険性を、その苦痛を、その傷の痛みを受け入れなさい。

それを通っていきなさい。
それを避けてはいけない。
近道などないのだから、それを見つけようとしてはいけない。
それは苦闘だし、骨が折れるし、困難な仕事だ。
しかし人はそのようにして頂上に到る。

そうすれば、ヘリコプターで頂上に降り立つより喜びは増す。はるかに多くなる。
何故なら、ヘリコプターの場合成長しないうちに到着することになるからだ。
あなたはそれを楽しめないだろう。

その違いを考えてみなさい。
あなたは大変な思いをしてエヴェレストに達する。
とても危険だ。
途中で死んでしまいかねないし、決して頂上に到達しないことは大いにありえる。
無謀で危険だ。

足を踏み出す毎に死が待ち構えており、
とても多くの罠がある。
成功するよりもはるかに多くの失敗の可能性がある。
あなたが到達する可能性は百に一つしかない。

しかし、あなたが頂上に近づくにつれて大きな喜びが生まれる。
あなたの魂は高く舞い上がる。
あなたがそれを勝ち取ったのだ。それはただではなかった。
あなたが払ったものが大きいほど、その喜びは大きい。

考えてみなさい。
あなたは頂上にヘリコプターで連れて行ってもらうこともできる。
あなたは頂上に立つが、ちょっと愚かでバカみたいだと思う。
---自分はここで何をしているのか、と。
5分以内にあなたの関心は終わってしまい、こう言うだろう。
「わたしは見終わった。ここには大したものはない」と。

旅がゴールを創り出す。
ゴールは旅の先にはじめから座っているのではない。
旅が、その歩みの一歩ごとにゴールを創る。
旅がゴールなのだ。

旅とゴールは別れてはない。それは二つののものではない。
目的と手段は二つのものではない。
目的地は、道のすべての場所に渡って分散している。
全ての手段がその内に目的地を含んでいる。

だから、どんな生きる機会も逃してはならない。
生き生きする機会を、
責任を負う機会を、
引き受ける機会を、
全面的に関わり合う機会を、
逃してはならない。

臆病になってはいけない。
生に直面しなさい。それに出会いなさい。
そうすれば、次第にあなたの内側の何かが結晶化してくる。

確かにそれには時間が掛かる。
裸馬が言ったことは正しい:
「普通は、君が真実になる頃には、
 君の毛は抜け落ち、目は落ち込み、関節が緩み、  
 みすぼらしくなっているさ。
 
でも、そんなことは全然気にならない。  
だって、君が一度、真実になったら、醜くくはなれないからさ。
それが理解できなる人達にとってはね。  
もし君が一度、真実になったら、二度と不真実には戻れない。
それはいつまでも続くんだ」

それは永遠だ。

しかし、人はそれを稼ぎ取らなければならない。
繰り返させてほしい:
人生では、何もただで得ることはできない。
もしただで得たなら、それは役に立たない。
あなたは支払わなければならない。

そして支払いが多ければ多いほど、あなたはそれから多くを受け取ることができる。
もしあなたが愛に全ての人生を掛けるリスクをとれるなら、
あなたが得るものはすばらしいものになるだろう。

愛はあなた自身をあなたに送り返してくる。
それはあなたに瞑想の影を見せてくれるだろう。
瞑想の最初の一瞥が愛のうちに起こる。
すると、あなたの中にその一瞥を実現したいという大きな望みが生まれる。

単に一瞥ではなく、あなたがその状態に永遠に生きることができるような
そんな状態を実現したいという望み。
愛はあなたに瞑想の味を教えてくれる。

愛におけるオーガスムの経験は、
サマディーの、エクスタシーの最初の経験だ。
それはあなたにもっと渇きを与える。
今やあなたは何が可能かを知り、もうありふれたものでは満足できない。
聖なるものがあなたを貫き、聖なるものがあなたのハートに届いた。

神があなたのハートに触れ、あなたはその感触を感じた。
今やあなたはその瞬間を永遠に生きたい。
あなたはその瞬間が人生全体になってほしい。
それは確かにそうなる。

そうならなければ、人は満足できない。
愛は一方ではあなたに大きな喜びをもたらし、
一方では永遠の喜びに対する渇きをもたらす。

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