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2015年04月30日00:29

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夜と霧

何度か読んでいて、何度か日記にも書いた事がある。

アウシュビッツ生存者が語る「死の収容所」、解放から70年
http://www.afpbb.com/articles/-/3037740?pid=15081151

時折、上記のような記事を見たり、小説やテレビや何かで見聞きした時に思い出すのだけれど。

何故このような事を起こすのか、理解は確実に超えていて、全体としての想像は全くつかない。

ただ、そう言った事が人類史上では起こっている事だし、それは別に一度や二度の出来事ではないと言う事と、今後も起こりうるだろう、と言う事はわかる。

理解も想像も超えているので、これについてどうだと言う事を全く言えないのだけれど。

これらの事が起こった事で、今、人類が此処に至れた、それらが起こっていなければ今は無い、と言う観点からすると、今後は、仮にどのような幸福が訪れようとも、このような事は起きてもらわなくて良いし、起こしてもらいたくないし、要らない。

もし「それらを起こさなければ、もっと酷い事になり、今後幸福などと言う場面は人類に訪れない」と言うのであれば、超人類的措置として、やめよう。
人類は生きるのやめよう。

「それでも、幸福が訪れると言うのなら、そこに希望があるのなら、これらの事を起こそう、起きても構わない」と言う事であれば、理解出来る。
大きい小さいは関係ない、と言う事だ。
「どんなに犠牲を払ってでも、不吉極まりない禍々しい行いが繰り返されたとしても、もし、辿り着ける場所があるのなら、なんでもやる」

もちろん、ぼくにもあるもの、欲、だ。

「炎」と言う現象は、どのような小さな炎でも、現象として起こる事があれば、最大の炎を生み出す事が可能と言う証になる。
そして「炎」と言う現象は存在している。
子供の頃から、指先から炎が出せれば、要はドラクエの魔法、ギラが出せれば、ベギラゴンが出せると踏んでいた。
それが出ないので、ベギラゴンも出せない、と言う事に至っているぼくとしては、人間の魔法、欲と言う現象は存在している。
欲の別の形、死の収容所、を生み出す事が出来る、と言う事だ。
ただ、欲の別の形には、ホイミもある筈なんだ。
炎やギラ以上に、欲は魔法の要素を備えている。
欲そのものは、恐らくは、なんでもない。
なんでもないと言う事は、なんにでもなると言う事でもあるだろう。
なんにでもなるから、途轍もない魔法にもなりうる。
そして誰でも持っている。

なんで、誰にでも持たせたのかな。
自分で自分に持たせたんだよな。
やはり、命と心の対立による存在の飛躍が狙いなんだろうな。


『夜と霧』(よるときり)は1946年に出版されたヴィクトール・フランクルの強制収容所経験に基づいた作品。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E3%81%A8%E9%9C%A7_%28%E6%96%87%E5%AD%A6%29
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