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2023年02月05日23:32

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ZARDの坂井泉水とバブル経済 3部作(前編)6thシングル「負けないで」をMステで熱唱して丁度30年 アメリカ経済レーガノミックス プラザ合意 世界大恐慌からニューディール政策

 2/5(日)
連日冬晴れが続く中、2月10日(金)、ZARDのデビュー記念日に、東京の平野部でも雪の予報が出た。振り返ると、昨2022年の同じ日にも東京は、積雪を記録していた。当時は東京都江東区のガーデンシアターにて、デビュー30周年記念のフィナーレを飾るライブが開催されていた。


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 今回のテーマは、前編、中編、後編の3部にわたる、ZARDの坂井泉水と日本のバブル経済である。1967年2月6日生まれの彼女は、右肩上がりに成長を遂げる日本経済に支えられ、学生生活を送り、歌手でビューを果たした。バブル期(87年から91年3月頃)には、不動産会社のOL生活、歌手としての下積み生活をそれぞれ2年ずつ続けていた。1991年2月10日に1stシングル「Good bye My loneliness」をリリースする。

 写真=Good bye My lonelinessのCDジャケット Amazonより
 掲載元日記 デビュー30周年記念日2021年2月10日付け 最新J-POPニュースや流氷について  2月10日はZARDのデビュー30周年記念日 坂井泉水の歌声は、次世代のガールズバンド「SARD UNDER GROUD」に歌い継がれる 動画アリ
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バブル経済は、政府によってとめられた。90年3月に大蔵省が、民間の銀行に、行き過ぎた貸し出しをしないように行政指導をする。借主の支払い能力を精査し、融資額を年収の3分の1まで制限した。いわゆる「総量規制」を敷いたことにより、土地の売り買いの頻度を最小限に抑えた。同年には、地価税法を施行し、土地の売買時に税金を課した。日銀は、公定歩合を引き上げ、企業の設備投資を抑える。需要と供給のバランスが崩れ、不動産市場を中心に価格は下落に転じる。93年頃には一般の人々の間でも、不況を実感するようになった。

 坂井泉水がブレイクしたのは93年1月27日に6thシングルとしてリリースした「負けないで」だった。不況により、失業や就職難に陥る人々に、歌を通して励ました。人々に影響を与えた坂井泉水の足跡を振り返りながら、日本と同盟国であるアメリカ経済を見つめていく。

 本題 ZARDの坂井泉水とバブル経済(前編)6thシングル「負けないで」をMステで熱唱して丁度30年 アメリカ経済レーガノミックス プラザ合意 世界大恐慌からニューディール政策

 経済関連日記 2022年9月29日付 日本経済史とマクドナルド 1971年のニクソンショック、1985年のプラザ合意、1991年のバブル崩壊 レーガノミックス 2022年9月22日の日銀と日本政府の為替介入
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 直近の経済関連日記 2023年1月20日付 レーザー光の新技術で害虫退治、東京湾にクジラが出現。日銀の金融緩和策とマクドナルドの新商品
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 直近のZARDの6thシングル「負けないで」の関連日記 2022年12月12日付け ZARD坂井泉水が育った丹沢山麓秦野市を旅する〜負けないで〜 2022年第10回目 12月4日(日) 駅メロ誕生について 来月負けないで発売30年 2022年の秦野市の旅を振り返る 国際情勢や防衛費増額
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 第1章 6thシングル「負けないで」ミュージックステーションでの熱唱

2月5日は、ZARDのファンとして特別な日だった。30年前のこの日、1月27日に発売された6thシングル「負けないで」をテレビ朝日系列のミュージックステーションで披露したのである。ゴールデンタイムに放送されるMステの出演をきっかけに、CDの売上枚数は、一気に上昇する。オリコン ウィークリー・チャートにて、初登場2位だった。発売から2週目と3週目にもトップ3を維持し、4週目で1位に輝いた。1993年の月間シングルチャートでは1位、ウィークリー・チャートにおいて、10週連続にて、トップ10入りを果たした。同曲で、国民的人気歌手になったZARDの坂井泉水は、人々にテレビ出演を期待されながら、顔出しもしなくなった。

CDの売上枚数は165万枚、発売から30周年を記念して、音楽誌で特集が組まれている。ZARDの楽曲製作に携わった寺尾広氏は、週刊現代の取材で、曲の誕生秘話について語った。

 写真=ミュージックステーションで「負けないで」を歌う坂井泉水
掲載元 Being Giza 音楽まとめ速報より https://being-giza-matome.com/2020/09/26/tv-programs/
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 詳細 週刊現代 2023年1月28日付け ZARD『負けないで』がリリースから30年…歌詞もメロディも全部最高だった!https://gendai.media/articles/-/105046?imp=0

名曲『負けないで』を生み出した、ZARD・坂井泉水の「知られざる素顔」
https://gendai.media/articles/-/105047?page=3

寺尾氏は、ディレクターとして、坂井泉水と出会ったのは、デビュー1年前の1990年だったと振り返った。初対面時彼女は、バブル絶頂期の若い女性の間で流行ったミニスカートを履いていた。週刊現代のインタビューにおいて、あれほどの美人とは気付かず、姿勢が良い人との印象だったと、語った。マイクを握ると、清楚な容姿から創造できないほど、声が大きくて良くとおり、大人しそうな見た目とのギャップに驚いたという。

写真=2021年時寺尾広氏と坂井泉水(1995年3月10日 6th ALBUM Forever you時)
掲載元 PRITIMES 2021年11月4日付 https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000146.000071793.html
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 寺尾氏は、デビュー2年後にリリースされた「負けないで」が産まれた過程についても話した。デビュー後、長戸大幸(ながとだいこう)プロデューサーの後押しによって、作詞は全て坂井泉水が担当するようになった。彼女は、作品つくりに取り掛かる際、はっきりとしたテーマを決めていた。負けないでの曲が出来上がると、歌詞のテーマは、平成に生きる昭和の女に決めたという。昭和の学生時代を経て、平成のバブル期に華やかな暮らしを送る人物をイメージした可能性もある。93年といえば、バブル崩壊による「平成の大不況」の始まりだった。学生の間では、数少ない企業の採用枠を目差し、就職戦線が激化していた。寺尾氏のインタビューについては、第5章に続く。

      第2章 1985年のプラザ合意とアメリカ経済

バブル景気は、1986年12月から1991年2月頃といわれている。きっかけは、1985年9月22日の「プラザ合意」にあるといわれている。プラザとは、米・ニューヨークシティーのホテル名である。当時G5(アメリカ、イギリス、フランス、日本、西ドイツ)の大蔵大臣や中央銀行の総裁が集い、為替レートの安定化に向けて、協議を行った。会議の出席を呼びかけたのはアメリカだった。アメリカは、ベトナム戦争に投入した戦費の拡大による財政赤字に苦しんでいた。65年に、南ベトナムを支援する口実で本格的に介入した。2月7日には、北ベトナムに空爆を開始し、枯葉剤を含め、大量の化学薬品を散布した。1967年に、国防費の半分を占める年間200億円を投入する。国土防衛意識が高い北ベトナム軍は、激しく抵抗する。丘陵地から平地まで変化に富んだ地形を知りつくす南ベトナム解放民族戦線のゲリラ戦法により、アメリカ軍は包囲され、一度に大量の人員を失った。1973年1月27日のパリ和平協定に基づき、同年3月からアメリカのニクソン大統領の声明により、兵を引き上げる。

アメリカ軍の撤退が完了すると、小康状態になった。75年4月30日に、サイゴンのアメリカ大使館の職員が脱出するまで、2年に渡り続いた。北ベトナム軍との戦いで、アメリカを後ろ盾にしていた南ベトナム軍は敗れ、南北統一を果たす。翌1976年6月24日に、サイゴンは、北軍の指揮官の名からホーチミン市と名称が変更になる。同日ベトナム社会主義共和国が成立した。

 アメリカ側は、経済被害が大きかった。記録的なインフレにより、失業者が増加した。ウォーターゲート事件の責任により、1974年8月9日にニクソン大統領が辞任すると、政策が大きく変わった。ウォーターゲート事件は、当時ニクソンが所属した共和党による、対抗勢力の民主党本部への盗聴事件である。アメリカ史上初となる大統領の任期途中の辞任により、副大統領のフォードが昇格した。ニクソンは、1971年8月から始めたインフレ抑制策の一つ「物価統制法」を、辞任前に全面解除した。同年8月15日には、金を保有することにより、国際通貨として認められた米ドルの信用を揺るがす事態が起こった。終わりの見えないベトナム戦争の長期化を懸念して、各国の政府や投資家が米ドル+金と、自国通貨の交換を申し出たのである。1943年にニューヨーク・シティにあるブレトンウッズホテルで、連合国の首脳が集い、金の保有数が高い米ドルが、国際基軸通貨に認定された。為替の安定化のため、固定相場制が採用されたのである。当時円ドル相場は360円、米ドル・金の交換の兌換を停止したニクソン大統領の生命により、ブレトンウッズ体制は終了する。米ドルは価値を失い、通貨自体切り下げられたのである。為替レート安定化のため、1971年12月アメリカのスミソニアン博物館にて、当時の先進国の代表者が集った。為替の変動幅の拡大について議論されたのである。金とドルの交換率は、1オンス=35ドルから38ドルへ引き上げられた。日本円は1ドル=360円から308円となった。ブレトンウッズ体制から国際基軸通貨米ドルを切り下げたうえでの固定相場制を、会議場所にちなみ「スミソニアン体制」という。為替の安定化は、米国の金の保有率の低下により、厳しくなっていた。きっかけは1972年6月、貿易収支の赤字により、イギリスのポンドが、売られる傾向になったからである。イギリスは、固定相場の維持を断念する。1973年2月には日本も変動為替相場制に移行し、3月にはEC諸国も追随する。スミソニアン体制は完全に崩壊した。


 米ドルの信頼回復に失敗したことにより、米国は不況に見舞われる。物資の不足による、悪いインフレに拍車がかかった。ベトナム戦争介入前の1965年まで、年率平均4,7パーセント程度の経済成長に対し、インフレ率1,3パーセントである。75年には7%、オイルショックが起こった79年イラン・イスラム革命に端を発する第2次オイル・ショック時には12,1%上昇した。親米のパフレヴィー王朝が倒れ、反米姿勢を明確にするイスラム原理主義者ホメイニーが、政権を奪取し、国の体制が大きく変わった。石油の減産体制をとったことにより、世界的に供給量が不足したのである。1978年以降にOPEC(石油産油国機構)が段階的に値上げした状態だったことにより、価格高騰に歯止めがかからなかったのである。
 OPECとは1960年6月14日に、産油国の利益を守るべく、立ち上げた組織である。当初加盟国は、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5カ国だった。現在は13カ国である。OPECは、イランのホメイニーの減産体制を歓迎した。石油価格の上昇により、利益率が上がった。

 非産油国は、経済の行方を懸念して、会議を開いた。1978年6月には第5回先進国首脳会議が東京で開催(東京サミット)する。アメリカ(カーター大統領)・日本(大平首相)・イギリス(サッチャー首相)・西ドイツ(シュミット首相)・フランス(ジスカールデスタン大統領)の首脳は、共同声明で自国の利益を守るべく、価格を引き上げる産油国を非難する。他の国に対しては、石油輸入を抑制することにより、人々にエネルギーの節約をよびかけた。輸入インフレに陥った先進国は、経済成長が鈍化した

 世界経済をリードしていた日本は、1973年の第四次中東戦争に端を発した1度目のオイル・ショックの経験を踏まえ、石油不足に備えた。当時は石油を原料にするトイレットペーパーの買占めが行われ、ドラッグストアの棚から消えた。小売店では、供給不足に備え、販売価格を大きく引き上げた。高度経済成長期が終焉し、74年の日本の経済成長率は、戦後初のマイナスに転じた。

 将来の石油不足に備え、法整備を進めていた。昭和48年(1973年)に「石油需給適正化法」を制定する。需給の適正化を図るため、国が石油精製業者などに石油生産計画などの作成の指示が出来るようになった。

 詳細 オイル・ショックについて 経済産業省 エネルギー庁 ページより
https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/history4shouwa2.html

もう一つ、安定供給のために、石油備蓄するタンクを設置した。昭和49年度(1974年度)中に60日分の備蓄を実現する「60日備蓄増強計画」を実施する。昭和50年(1975年)には「石油備蓄法」を制定し、民間備蓄を法的に義務付け、「90日備蓄増強計画」をスタートさせた。実際昭和54年(1978年)に国家備蓄を開始したことにより、1979年から82年まで、3年に渡るオイル・ショックを乗り越えた。3年間の石油価格は、2,7倍に跳ね上がり、経済成長に一時的ブレーキをかけるものの、84年以降は持ち直す。

 2010年代以降、再生エネルギーが取り上げられているが、原点を遡ると、2度に渡るオイル・ショックにある。1973年に、「サンシャイン計画」と名づけた再生エネルギーの活用に向けた取り組みが始まった。太陽、地熱、石炭、水素エネルギーが候補に上がった。石油代替エネルギー技術にスポットを当て、安全性と共に、低コストで、強い力を生み出せる方法について考案された。1980年には新エネルギー総合開発機構も設立され、技術開発が推進された。代替エネルギーの開発促進のため、1978年に策定された「ムーンライト計画」は、より具体的に効率化を求められる。エネルギー転換効率の向上、未利用エネルギーの回収・利用技術の開発などが進められた。結果、日本の産業は世界でも最高水準のエネルギー消費効率を達成することになった。

 オイル・ショックが起こった1978年10月から1982年4月までの3年半、ZARDの坂井泉水は、産まれ育った平塚市から北西隣の秦野市へと移り住んだ。小学校6年生から高校1年時に辺り、陸上部で汗を流しながら、お花をスケッチし、ノートに詩を書いていた。中学校2年生時、秦野市内の学年別の陸上競技大会において、800m走で3位、最も得意な200m走では、優勝していた。スポーツも芸術の才能にも秀でていたのである。オイルショックに見舞われた頃、心も体も成長する、最も多感な時期だった。


詳細記事 昭和54年
年次世界経済報告
エネルギー制約とスタグフレーションに挑む世界経済
経済企画庁 
https://www5.cao.go.jp/keizai3/sekaikeizaiwp/wp-we79/wp-we79-00302.html#:~:text=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%81%AF10,%E4%B8%8A%E6%98%87%E7%8E%87%E3%81%AF%E9%AB%98%E3%81%BE%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82

 インフレ率のグラフ https://www5.cao.go.jp/keizai3/sekaikeizaiwp/wp-we79/wp-we79bun-3-2-1h.html

 アメリカでは、第38代フォードの時代から第39代米大統領ジミー・カーター時代(1977年1月20日から1981年1月20日)まで、高インフレに苦しんだ。

 第40代大統領、元映画俳優のレーガン政権になり、経済政策の転換を迫られた。彼は、悪いインフレを抑制するため、財政改革に取り組んだ。強いアメリカ、小さな政府を掲げ、新自由主義政策を進める。ケインズ政策の大きな政府の批判し、同時代のイギリスのサッチャー政権と同じく、新自由主義経済を採用した。

対照的に大きな政府は、政府・行政規模の拡大を意味する。大規模な財政出動により、雇用を調整し、経済政策を進める理論である。提唱者、経済学者ジョン・メイナード・ケインズ(1883年6月5日―1946年4月21日)は、第1次世界大戦後に襲った1929年の大恐慌により、新たな理論を提唱した。イギリス人の彼は、ソ連の社会主義には否定する立場だった。未曾有の不況を乗り越えるには、巨額の資本を動かせる国家の力が必要と説き、1936年に著書『雇用・利子および貨幣の一般的理論』を発表した。社会主義的な発想を取り入れた「修正資本主義」という。理論の中核を成す考えは、貨幣支出を伴う有効需要の原理である。有効需要=消費+投資+政府支出+(輸出-輸入)の式で表す。

 写真 掲載元 DIAMONDO ONLINE 2017年4月1日 https://diamond.jp/articles/-/109385
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彼は、不況に見舞われた際、失業者対策として、財政出動による、公共事業を興こすことの必要性を強調する。ケインズ理論を裏付けるかのように、各国政府、不況時には、減税とセットに、大規模な財政出動をし、雇用を増やす。失業者に仕事を与え、給料を貰うことにより、一定額税金を納めてもらえる。つまり、未来への投資を行うのである。政府の投資額の分だけ、生産額を生み出せる。経済学では「乗数効果」という。ケインズの主張によると、公共事業の中身は大きな問題と説いていない。投資に躊躇すれば、失業率を改善できない。買い手市場が長く続き、労働者に対する賃金抑制に繋がる。政府の視点に立つと、民間事業の縮小により、利益が減る分、税収は増えない。失業率は改善せず、消費支出額は減額する。つまり、消費が伸びず、新たな事業は生まれない。従って、失業者は救済できない。国は、失業手当の支払いにより、負担は増すばかりである。力強い消費による、経済の好循環を作るのは、国が積極的に投資をすることが必要だ。公共事業を起こし、雇用を創出し、生産力を向上させる。ケインズの修正資本主義では、巨額のマネーを動かせる国が、個人を豊かにするのである。

 ケインズの理論に先立ち、アメリカでは、大恐慌から脱出を図り、景気対策を練っていた。当時フーヴァー大統領は、古典派経済学者として、景気には波があり、やがて上向くと主張し、対策を練らなかったのである。国内の景気対策として、1930年6月にスムート=ホーリー法を制定し、国外からの輸入物に高い関税をかけた。大恐慌からの巻き返しを図る諸外国と歩みよれず、報復としてアメリカ産の輸出物にも高い関税をかけられる。世界全域にわたって、貿易の停滞により、景気はどん底のままだった。1931年に、事業者に投資していた銀行は、貸し倒れにあった。貸した資金を回収できず、倒産に追いこまれた。人々は、預金を引きだすことができず、さらに苦しめた。増大する失業者は、満足な給付金も与えられず、生活が立ち行かなくなった。バラック小屋を建てて、一箇所に固まって過ごした。名づけて「フーヴァー村」という。共和党から大統領に就任した彼は、2932年の大統領選挙にて、財政再建と公共の福祉を打ち出した民主党から指名されたフランクリン・ルーズベルトに敗れた。


大恐慌の原因について 掲載元 You tube ニューディール政策 
https://www.youtube.com/watch?v=a-EfXoXvpeI
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1933年に第32代米大統領に就任したフランクリン・ルーズベルト大統領の下、事業者へのお金の貸付、銀行および通貨の統制、社会保障の充実を含め、6項目掲げ、国が主導の経済、福祉事情を行った。対外的には、輸出力の回復のため、ドルの切り下げが望ましいと考え、就任当初1933年4月19日に金本位制度を停止した。

彼の経済政策は日本
語に直訳して新規まき直しを意味する「ニューディール政策」という。農業部門にも積極的に政府が指導を行い、供給過多になりがちの綿花や食肉の生産量を調整した。減産に応じた農家には、保証金を与えたのである。

 自由を精神とするアメリカ国民からは、政府主導のニューディール政策は歓迎されなかった。一時的に失業者数は改善されながら、政府主導による経済政策に、反対する声も多く、裁判沙汰にまでなった。NIRA(全国産業復興法)による労働時間の短縮や最低賃金の確保、AAA(農業調整法)による生産量の調整について、最高裁の判決では、「公正活動を阻害する」ことを理由に違憲判決を出された。

写真=ニューディール政策について 掲載元 Tryit 5分で分かる世界史 フランクリン・ルーズベルトの改革 https://www.try-it.jp/chapters-12143/lessons-12146/point-2/
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政府主導のニューディール政策は順調にすすまず、金融引き締めにより、企業活動は停滞する。採算をとれない事業は規模縮小、または取りやめるなどの選択により、余剰人員は解雇された
。金利の上昇による、経済活動の停滞を招き、再度失業者増加に繋がった。新たな資源を求めて、植民地政策に活路を見出した。利権がらみの争いから、二次大戦が起こったともいわれている。

 


ケインズ理論を否定するレーガンは、市場機能を重視する「小さな政府」と「「強いアメリカ」をスローガンに掲げ、公共事業の投資を控える。

規制緩和と減税をセットに、民間に事業参入をうながす。
失敗すれば全て
、自己責任、福祉事業も最小限にとどまった。当時の悪い物価上昇に歯止めをかけるべく、マネーサプライ(貨幣供給量)を抑制した。高金利政策により、強いドルを維持し、海外からの石油輸入コストを安くした。日本からも高金利のドルを求めて、資本が流入する。

 新たに打ち出した政策は、4本柱から成る「レーガノミックス」という。
(1)歳出削減、(2)減税、(3)規制緩和、(4)安定的なマネーサプライ

就任当初1981年1月20日時点、インフレ率12%、失業率7,5%、金利20%だったのである。

 金利が高いと、経済活動に障害が起こる。企業は、借金による負担が大きく、設備投資は抑制されていた。事業規模が拡大しない限り、失業者数も改善しない。原油高もピークを過ぎて、強いドルも相まって、徐々に価格も低下していた。経済の流れを良くするべく、中央銀行も利下げに踏み切った。レーガン大統領就任時、経済は上向きかけたとはいえ、軍事費を増強したことにより、財政赤字は大幅な改善には至らなかった。日本と西ドイツが、輸出産業をリードし、アメリカの貿易収支は改善しなかったのである。貿易と財政の「双子の赤字」を抱えていた。

 写真 掲載元 Ameba ”米軍は横須賀からは撤退しない!”という保証はない!―日本は東アジアでどう生き残るか(19)2018年8月8日
https://ameblo.jp/koshioheikuroh/entry-12396024064.html
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 景気を向上させるには、輸出産業の回復が必須である。そこでアメリカ主導により、1985年9月22日に、当時G5の中央銀行総裁や大蔵大臣が、ニューヨークシティーのプラザホテルにて会議を開いたのである。各国の代表者の理解を得て、ドル安へ誘導する、協調介入にのりだすことで一致したのである。世界経済の行方を左右する「プラザ合意」によって、日本円と西ドイツの通貨マルクは、会議で決められたとおり、10%から12%の幅で切り上げられた。合意翌日の9月23日、ドル円相場は235円から20円も円高に振れる。円高に歯止めがかからず、1986年7月には、150円で取引された。国民の間では海外旅行ブームが起きる一方、輸出産業は大打撃を受けた。ドル安も十分進行したものの、アメリカ製品の輸出は、目標どおりには伸びず、貿易赤字は改善したとはいいがたかった。輸出産業の回復が進まなければ、通貨安による、コストプッシュ型のインフレに見舞われかねない。

 そこで、1987年2月22日に、プラザ合意に次いで、各国の代表者が集い、為替市場への協調介入について議論された。新たにイタリアとカナダが加わり、G5からG7へと名称が変わっている。フランスの首都パリにあるルーブル美術館の会議室にて、行き過ぎたドル安を是正し、円とマルクの取引価格の安定化を目指した。通称ルーブル合意は、各国の政府の連携が不十分と指摘され、為替相場は安定しなかった。プラザ合意後、アメリカ政府の意向をうかがいながら、日本は経済政策を進めていた。つまり円のレートは、150円未満、金利引き上げは認められにくい状態になる。プラザ合意後、日本経済は、投機熱が過熱し、バブル状態になった。

 次回は、プラザ合意をきっかけに内需拡大に踏み切った政策に端を発するバブル経済を取り上げる。
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