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2021年11月02日22:57

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11/2(火)独立30周年ウクライナの歴史(3)ザポロージャ・コサックの戦い(後篇)11月2日はロシアのピョートル1世が正式に皇帝の称号を得て丁度300年 シリア情勢について   

 11/2(火)
 初めのニュースは、国際情勢である。国連の報告書によると、シリア国内で、アサド政権が、秘かに大量虐殺している可能性が指摘された。政権側は、事実を否定しているものの、兼ねてから非人道的行為が行われていると、欧米各国から非難されていた。この10年で、政権に拘束された人は、少なく見積もって数万人になるという。真相の究明が求められている。
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6726037

 今回は、西暦1700年から1721年にわたった大北方戦争の2回目である。1回目は、戦争終結300年の節目を迎えた2021年9月10日に発表した。2回目は、戦争で功績を挙げたロシア帝国のピョートル1世が、正式に大帝の位を授かって300年になる11月2日にあわせて公開するにいたった。21年にわたる戦争は、不凍港バルト海沿岸地域の獲得を目指す大国ロシアとスウェーデン王国が、激しい火花を散らした。戦争の序盤、スウェーデンの若き王カール12世が、ロシア側につくポーランド、デンマーク=ノルウェー、ザクセンとの戦いに勝利し、北方同盟から離脱させた。選挙王政のポーランド・リトアニア共和国に関しては、ピョートル派のアウグスト2世を退位させ、フランス系のレシチンスキを王に立てる。ポーランド・リトアニアを属国化し、破竹の勢いで首都モスクワを目指して進む。大国ロシアは、スウェーデン側の行動ルートを予測し、通り道に当たる村を焼き払い、補給基地を断った。スウェーデン軍の方が、疫病などにより、兵士の数が大減っていく中、ロシア帝国は万全の体制で迎え撃つ。大北方戦争の結末と共に、ウクライナの行方を考察する。

 前回関連日記 
9/8(水) 独立30周年ウクライナの歴史(3)ザポロージャ・コサックの戦い(前編)英雄フメリニツキーの登場 9月10日で大北方戦争終結300年
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9/10(金)独立30周年ウクライナの歴史(3)ザポロージャ・コサックの戦い(中篇)9月10日で大北方戦争終結から丁度300年 withコロナ時代を見据えて動くB’z https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980302669&owner_id=32437106

  第1章、ウクライナのヘトマン、マゼッパの選択
 大北方戦争は、ロシア帝国とポーランド・リトアニア共和国によって分断されたウクライナの運命を大きく変えた。ロシア帝国領の左岸ウクライナの方は、コサックのトップとなる棟梁(ヘトマン)職にマゼッパがついていた。彼は、ピョートル1世と行動を共にしたものの、仲間達が前線に送られて、命を落とす中、猜疑心を抱くようになった。1708年にウクライナ入りしたスウェーデン軍と交渉した結果、鞍替えの決断をした。
マゼッパの選択によって、ウクライナの自治権に関する問題が表面化した。彼の生い立ちから振り返ると、キエフに程近いビーラ・ツェール・クヴァの小領主の家系で生まれた。父は、フメリニツキーの反乱に加わっている。マゼッパ自身は、先代のサハイダーチヌイの正教保護によって作られたキエフ・モヒラ・アカデミーに入学した。

 写真=現在のキエフ・モヒラ国立アカデミー大学 掲載元 https://ja.uni24k.com/u/15276/
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優秀な成績で卒業したことにより、ワルシャワに招かれた。ポーランド王ヤン・カジミエシ三世から寵愛され、国費で持ってしてオランダへ留学したのである。海外生活で文化を学び、卒業後に王の下で働き、語学を生かして、使節団に任命される。カトリック信者のポーランド系の貴族と折が会わなかったのか、西暦1663年にウクライナに戻った。2年後の1669年に右岸のヘトマンを勤めていたドロシェンコ(在位1665年から1676年)の元で副長官に昇進する。1679年にクリミア汗国に使節団として派遣されると、ザポロージャ・コサックに拉致され、左岸ウクライナを支配するモスクワへ連行された。語学が堪能で、社交に長けたマゼッパは、左岸のヘトマンであるサモイロヴィチ(在位1672年から1687年)の元で働くようになった。サモイロヴィチが、大きな失敗を犯して、強制的にヘトマン職を奪われ、シベリアへ追放処分を受けると、マゼッパが代わりを務めた。左岸のヘトマンとして、ピョートル1世(在位1682年から1725年)と同盟を結び、コサック兵を出動させた。南下政策を成功させたことにより、ピョートル1世から褒美として2万箇所の荘園が送られたのである。大地主となった彼は、資金を手に入れると、ウクライナの文化の振興に費やしたことにより、一般コサックに還元したのである。西暦1700年に、大北方戦争が勃発すると、両者の間に亀裂が深まる。ピョートルは、中央集権化を目指すに当たり、ウクライナを完全に配下におく狙いがあった。前線部隊で活躍したのはコサックだった。破竹の勢いで進撃し、デンマーク=ノルウェー、ザクセン、ポーランド・リトアニア共和国を降伏に追い込んだカール12世軍の前に、対等に渡り合えなかったのである。コサックの死傷率は50%から70%にものぼった。おりしも、ポーランド・リトアニアは、スウェーデンの属国化し、レシチンスキが王の座について、ウクライナ入りしていた。マゼッパに心変わりする転機が訪れたのである。やがてカール12世もウクライナに入り、マゼッパと交渉した。1708年秋、ついにマゼッパはピョートルから、カール12世に乗り換える決断を下したのである。

 写真=右側マゼッパ 左側カール12世 ウィキペディア マゼッパより
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マゼッパは、コサックの全運命を握り、スウェーデンと同盟を結んだ。モスクワのピョートルの方にも、直ちに情報が入った。彼は、腹心のマゼッパの裏切り行為に憤慨し、報復措置として、首府バトゥーリンに兵を向け、6000人の住民を無差別に虐殺した。新たにピョートル側に残ったコサックから新ヘトマンを任命した。忠誠を誓ったイヴァン・スコロパツキー(在位1709年から1722年)が抜擢され、スウェーデンとの戦いに挑む。マゼッパは、味方が付き従ってくれることを信じて疑わなかったものの、8000人の仲間を除き、モスクワ側に残ったのである。マゼッパの選択を多くのコサックは容認しなかった。

       第2章 ポルタヴァの戦い、オスマン帝国の対モスクワへの戦い

一方、カール12世を慕うクールランドのレーヴェンハウプトは、南下を続けるうちに、モスクワ軍から追撃される。1708年10月9日、小さな村の近くの川を渡っている最中にピョートル1世率いモスクワ軍に襲われた。このレースナヤの戦いで大量の兵を失ったレーヴェンハウプトは、カール12世に援助を求めるべく、大砲と食糧の大半を遺棄したまま逃げ出した。カール12世の主力部隊と合流した時には補給品を欠いた状態で7000人が残っていた。同年10月にはマゼーパの拠点バトゥールィンが攻略されている。
翌1709年春になり、カール12世は前進を進めたものの、飢餓や疫病により、その数3分の1まで減らしていた。糧食を得るために、ウクライナのボルスクラ川沿いのポルタヴァに入った。既にピョートル1世軍が待機していた。指揮官であるピョートル自身も、カール12世軍の到来を受けて、町に向う。いよいよ世紀に残るポルタヴァの決戦が始まる。7月8日、ピョートル軍42,000とスウェーデン軍16,000が相対した。カール12世は先の包囲戦の最中に狙撃を受けて、手負いの身だった。実践の場に立てず、指揮権はカール・グスタフ・レーンスケルド将軍に委ねていた。激戦の末数で勝るモスクワ軍が大勝し、スウェーデン軍は数千人の戦死者を出して潰走した。カール12世は、マゼッパと共にオスマン帝国領へ逃れ、スウェーデン軍の残余はペレヴォローチナで降伏した。
戦況の行方を注視していたデンマークとザクセンが再度北方同盟に加わり、スウェーデンに止めを刺す。ボリス・クラーキン の狡猾な政治的手段によってスタニスワフ・レシチニスキは廃位させられると、アウグスト2世がポーランド王に復位した。ピョートル1世はバルト地方での戦役を継続し、最終的に強力な海軍を築いた。1710年、モスクワ軍はリガとタリンを占領した。エストニアとリヴォニアの降伏によりバルト地方はモスクワに統合された。なおマゼッパは、1710年に失意のうちに没している。

 ポルタヴァの戦いにより、戦況は大きく変わり、北方同盟の再結成が加速する。

1709年 ・ロシア皇帝ピョートル1世とポーランド王に復位したアウグスト2世との間でトルン条約を締結
    
・アウグスト2世とデンマーク=ノルウェー王フレデリック2世によりドレスデン条約を締結

1710年 ・ハノーファー選帝侯がハノーファー条約により、北方同盟に新加盟
      選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒは、後にイギリスのジョージ1世になる。

1713年 ・ブランデンブルク=プロイセンとロシア帝国の間でシュヴェート条約を結ぶ。

1715年 ・イギリスのジョージ1世は、3つの同盟を結ぶ
      ベルリン条約       締結国 デンマーク=ノルウェー
      シュテッティン条約   締結国 ブランデンブルク=プロイセン
       グライスフヴァルト条約 締結国 ロシア

一方スウェーデン軍側は、大きな痛手を蒙っていた。カール12世が率いるスウェーデン兵とウクライナのイヴァン・マゼーパが従えるコサックは、オスマン帝国内のモルドバのベンデルにコロニーを築き、建て直しを図る。保護をしたのは、スルタンのアフメト3世だった。敵将のピョートル1世は、黒海沿岸の領土を巡って争うスルタンに対して、コロニーの破壊を要求する。スルタンの方は、従うことなく、長年のライバルとの戦いに備えた。1710年11月に、黒海沿岸の領土獲得をもくろみ、ピョートル1世に対して、宣戦布告する。

 ピョートル1世は、受けて立ち、オスマンの属国を味方につける。キリスト教徒と共にモルダヴィアとワラキアの太守ディミトリエ・カンテミールに、反乱を起こすように説得する。1711年に兵約4万を率いてオスマン領内へ侵攻したものの、スルタンに作戦を見破られていた。モスクワ軍は、プルート川(現在のモルトバ共和国とルーマニア共和国の国境を隔てる川)にて、陣を張っていた約15万のオスマン軍の総攻撃を受けた。勢いは完全にオスマン軍が上回っていた。モスクワ側の兵隊が次々と命を失う中、ピョートル1世も捕縛される危機にあった。同行していた愛人エカチェリーナ(ピョートル亡き後女帝として即位)から説得を受けて、深手を負う前に和議に持ち込んだ。同年7月12日に、ロシア帝国とオスマン帝国の間でプルート条約が調印された。モスクワには不利な内容となった。アゾフ要塞の返還、ポーランドの内政への不干渉、カール12世の帰国の容認などである。

 写真 掲載元 livedoorブログ 2017年10月08日10:16 歴史人(1276) ロシア 39 ロマノフ朝 大帝の時代 9/18http://blog.livedoor.jp/kagawatakaaki/archives/50782991.html
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カール12世は命拾いしたとはいえ、アフメト3世の指示を無視した。ベンデルに臨時宮廷をつくり、共闘してロシア帝国に戦線布告し、追い落とそうともくろむ。アフメト3世は、戦争の継続を望まなかった。軍勢において、ロシア帝国を中心とした北方同盟の方が確実に上回っている。アフメト3世は、カール12世を庇ったとはいえ、今後の対応については決めかねていた。1713年に事態は変わった。北方同盟との戦いに再挑戦する意思を持つスウェーデン人兵が、カリバリク(騒乱の意味)を起こすと、鎮圧に向うトルコ兵と争った。アフメト3世は、騒乱のきっかけを作ったとされるカール12世を拘束し、アドリアノープル近くのデモチカに幽閉する。自由の身を奪われたカール12世は、1714年10月に、脱出に成功し、騎馬で敵地を走破して僅か2週間足らずで北ドイツのスウェーデン領シュトラールズントに帰還した。挽回を喫して、北方同盟と再度戦うものの、一向に戦況は上向かない。翌1715年7月23日から12月23日までの5ヶ月に渡り、シュトラールズントの包囲戦が行われた。バルト海からのスウェーデン追放を掲げて、ザクセン、イギリスの北方同盟の2国に、ブランデンブルク=プロイセンが加わった。同盟軍が圧勝する結果に終わり、スウェーデンの領土はますます縮小した。

  第3章 モスクワの反撃

 一方モスクワのピョートルは、1711年にプルート川の戦いでオスマン帝国に破れ、アゾフ海周辺の土地を手放したものの、再獲得を目指して邁進する。1712年、ピョートルの腹心フョードル・アプラクシン将軍が率いる約7万の軍隊が、スウェーデン領フィンランドに侵攻した。翌1713年から1714年にかけて、戦いがヒートアップする。1714年2月のラッポラの戦いでフィンランド駐留主力部隊を倒すと、同年7月ハンコ岬沖でガレー船海軍が、スウェーデン軍に大勝した。モスクワ軍は、フィンランド領にとどまり続け、陸地では村に押し入り、手当たり次第食料を略奪したことで知られる。歴史家は、1714年から終戦した1721年までの8年間、「大いなる怒り」と呼んでいる。

 写真=現在のバルト海周辺の地図 世界史の窓 バルト海より
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 スウェーデン軍を率いるカール12世は、困難な事態に陥った。既にバルト海沿岸地域を手放し、軍勢においても北方同盟を下回る。そこで、イギリス名誉革命で王の座を追われたスチュワート家を引きいれようとした。戦争に勝った見返りとして、ジョージ1世を追い落とし、スチュワート家を復位させるのである。計略を見抜いたハノーファー選定候から国王へ昇格したジョージ1世は、戦線布告ととらえ、スウェーデンに兵を差し向けた。

 カール12世自身、スチュワート家との交渉は上手くまとまらなかった。そこでバルト海の領土を巡り、足並みが乱れ始めた北方同盟を突き崩すべく、モスクワ・ツァーリー国と和議に持ち込んだ。1718年5月にスウェーデン全権ハインリヒ・フォン・ゲルツ男爵とモスクワ全権アンドレイ・オステルマンが、バルト海のオーランド島で会談する。スウェーデンはモスクワに対してかなり譲歩した。代わりにモスクワと共闘してデンマークやハノーファー、ポーランドと戦うことを提案した。バルト地方の代償としてドイツでの権益の回復を狙ったものの、交渉は長引いた。

 カール12世は、モスクワとの交渉をハインリヒ・フォン・ゲルツに任せ、デンマーク領ノルウェーで戦闘の舞台に立っていた。1718年12月11日、オスロ南東に位置するフレデリクスハルドの包囲作戦の最中、狙撃されて、命を落とした。

 絶対的指揮官を失ったスウェーデン軍は、直ちに撤退したものの、悪天候が重なり、退却途中に多くの兵を失った。歴史家は、キャロリアンの死の行進という。スウェーデン王国のトップには、戦死したカール12世の後を、妹のウルリカ・エレオノーラが継いだ。ロシアとの交渉で好条件の引き出しに失敗したハインリヒ・フォン・ゲルツ男爵は、全ての責任が降りかかり、軍部によって斬首刑に処された。

 カール12世の死後、モスクワのピョートル1世は、講和条件をスウェーデンに提示していた。スウェーデン側が拒否したことにより、戦闘は続いた。1719年の夏場、モスクワ艦隊によるスウェーデン東部襲撃により、いくつかの群島に作られた要塞は焦土と化す。軍部がハインリヒ・フォン・ゲルツを処刑したことにより、モスクワとの交渉が打ち切られ、総攻撃を食らったのである。

 モスクワとの戦いを続けている間に、他の北方同盟国とは和解に持っていった。ハノーファー=イギリス、ブランデンブルク=プロイセンとの間では、1719年から20年にかけてストックホルム条約を結んだ。フランスが仲介に入ったことにより、スウェーデンにはバルト海北部のヴィスマールと北部ポメラニアの領有は認められた。ハノーファーは、ブレーメン=フェルデンを、ブランデンブルク=プロイセンは、南部ポメラニアを獲得した。対照的にイギリスとは、領土割譲なしの講和を結び、モスクワ・ツァーリー国との仲裁を頼んだ。

 イギリスは、モスクワ・ツァーリー国に対して、スウェーデンとの講和を働きかけた。スウェーデンは、モスクワ側の要求には応じず、戦いを続けることになった。1720年7月のグレンガム島沖の海戦で、スウェーデン軍がほぼ一掃されたことを受けて、勝負は決した。

 スウェーデン国内では、1720年5月に、戦死したカール12世の妹ウルニカ・エレオノーラの夫ヘッセン=カッセル方伯世子フリードリヒが、権力を握っていた。エレオノーラは、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒ(カール12世の甥)に王位の座を狙われた経緯から、夫に譲ったのである。

エレオノーラの夫フリードリヒは、モスクワ・ツァーリー国との講和を決断する。1721年9月10日にフィンランドの南西部ウーシカウプキにおいて、両国の代表団が会議の場にたった。モスクワが占領していたフィンランドは、カレリア地域を除いて、スウェーデンに返還された。エストニア、リヴォニア、イングリア、ケックスホルムの大部分、バルト海に浮かぶサーレマー島はロシア領となった。

 21年に渡り、バルト海の覇権を巡って争った大北方戦争は、終結した。会議が行われたウーシカウプキの旧名にちなみ、両国間で結んだ講和を「ニスタット条約」という。

 写真=ニスタット条約の風刺画 掲載元 ロシア ビヨンド https://jp.rbth.com/history/85540-roshia-wo-taikoku-ni-shita-300-nen-mae-no-kouwa-jyouyaku
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 大北方戦争により、ロシアは大国への道を歩む。ニスタット条約の締結からほぼ2ヵ月後の11月2日、ピョートル1世は、正式にロシアの元老院から皇帝として承認された。大戦の勝利から「大帝」の位を授かった。国名もモスクワ・ツァーリーから、ラテン語でルーシーを意味する「ロシア」に改めた。

 対して敗れたスウェーデンは、王の権力を縛り、貴族が中心となる自由の時代に入った。親ロシア波と反ロシア波に分断され、1枚岩ではなく、議員の間では汚職が蔓延していた。1771年に、グスタフ3世のクーデターにより、再び王権が強化され、貴族の地位は下げられたのである。

 大北方戦争は終結して丁度300年、ヨーロッパ北東部の地図を大きく変えた。ロシアは
、今なお世界最大の面積を持つ国家として、西側諸国が中心のEUをけん制しながら、地位を保っている。対してスウェーデンは、立憲君主制として歩み、今福祉国家として発展を続けている。

  第4章 制裁を受けるウクライナ国家、

 大北方戦争の最中、モスクワが支配する左岸ウクライナは、ヘトマン職を務めたマゼッパが、ピョートルを裏切ったことにより、制裁を受けた。ピョートルは、ヘトマンのポジションを自ら選出し、首府をモスクワ・ツァーリー国の国境に程近いフルヒフに変えた。ロシアの二連隊が常駐することにより、ヘトマン職に就任したイヴァン・スコロパードシクィイ率いるコサック隊ににらみを利かす。コサック隊の任務は、戦闘において最前線での戦いと共に、新都サンクトペテルブルクの建設に伴う埋め立て工事である。遠隔地ラドカ運河掘削と共にカフカス地方の要塞建設にも借り出された。過酷な労働により、命を落とす者が耐えなかった。1722年にイヴァン・スコロパードシクィイが亡くなると、さらに権限が縮小された。フルヒフは小ロシア省に編入され、ヘトマン職を空白にしたのである。

1725年にピョートル1世が病死すると、締め付けは緩和された。1727年10月1日に、息子のピョートル2世は、ダヌィーロ・アポーストルをヘーチマンに選んだ。正式に首府フルヒフでの会議によって、就任したのである。親ロシア派のアポーストルは、1654年のペレヤースラフ協定を持ち出し、自治権の回復を請願する。ピョートル2世側は、主に2つの条件付で認める決断を下した。

・税金の過半をロシアの国庫に送ること、
・政府内でロシア人役人を増やして、ヘーチマン国家における領地購入を許すこと

 ウクライナに帰ったアポーストルは国内の整備に着手した。1729年から1731年にかけては検地を行い、違法に私領となった土地を国有化する。経済の改革も進め、ヘーチマン国家史上初めて国家予算の収支を明らかにし、金融制度を改新させた。1730年には裁判の改革も行い、「ウクライナの裁判への指示」を公表し、訴訟と抗告の新たな手続きを定めた。

写真=アポストール ウィキペディアより
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1730年にピョートル2世が没してアンナがロシアの皇帝になると、アポーストルは、ヘーチマン国家の自治権の拡大に成功した。女帝アンナの信頼を勝ち得たことにより、駐留するロシア軍は6つの連隊にまで縮小された。大北方戦争時にマゼーパに味方したコサックは無罪放免となった。18世紀初頭からロシア側が設置したウクライナからの輸出品に対する差別税率は解除された。女帝の承認を受けて、キエフはヘーチマン直轄領なった。政府内のロシア人の役人は減り、ウクライナ国内での土地購入は禁止された。1708年にロシア軍が破壊したザポロージャーのシーチは、1734年にピドピーリナ川の河岸で復権した。

コサックの権威回復に努めたアポーストルは、1734年1月17日に生誕地ソローチンツィ村で心臓麻痺により死去した。遺体はアポーストルが建立した現地の教会で手厚く葬られた。アポーストルの死より1750年までにヘーチマン職は空白となった。彼の功績により、ロシア帝国への併合は免れたのである。西暦2006年8月16日にアポーストルの功績をたたえるべく、ウクライナ大統領ヴィクトル・ユーシチェンコがヴェルィーキ・ソローチンツィ村に銅像を建てた。

 一時的にヘーチマン国家は主権を回復したものの、時のエカチェリーナ2世によって、180度変わった。エカチェリーナ2世は、ウクライナの文化の抹殺を図り、第1段階として1765年にウクライナの自治区を示す「スロボダ・ウクライナ」を廃止した。時に反旗を翻すコサックは、無法集団とみなし、解体を命じた。16世紀からオスマン帝国との防波堤として利用していた経緯がある。1774年にオスマン帝国のアブドゥルハミド1世との間で「クチュク・カイナルジ」条約を結び、領土問題は解決した。翌1775年に、オスマン帝国との和解により、コサックの必要性が無くなったのである。コサック隊に加わった兵隊は、ロシアの連隊に加わる、もしくは土地を求めて、放浪した。アゾフ海東岸のクバン地方に移り住み、開拓民として成功したものもいた。ウクライナ自体は、小ロシア県に編入され、地図上から姿を消したのである。
歴史を振り返ると、1648年に民族的英雄ボルダン・フメリニツキーの指揮の下、ポーランド・リトアニアの支配下から逃れ、独立国家を築いた。ウクライナのヘーチマン国家は、クリミア・タタールとの関係を強化した。地政学的に、バルト帝国のスウェーデン、東欧の強国ポーランド・リトアニア、イスラム系のオスマン帝国に囲まれ、常に大国に脅かされる存在だった。1654年にフメリニツキーは、モスクワ・ツァーリーのアレクセイに保護を求め、ペレヤースラフ協定を結んだ。結果的に1667年のアンドルソヴォ条約により、ウクライナは、モスクワ・ツァーリー国
とポーランド・リトアニア共和国に分割され、再統一には20世紀まで350年も待たなければならなかった。ウクライナの右岸地域を支配したポーランド・リトアニアは、1771年、1793年、1795年に、ロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア王国によって3分割された。従って右岸ウクライナの西部ガリツィア地方(ハーリチ地方)の大部分は、オーストリア帝国に組み込まれた。一つの民族がロシア帝国とオーストリア帝国に分断されたまま、150年以上歩むことになる。

 写真 掲載元 個人ブログ 日本は大丈夫!?より https://blog.goo.ne.jp/dxo186556_001/e/838a228cc3a038418312c8d6947e077d
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 現在人口4000万人を抱えるウクライナは、大国の影に隠れながらも独自の文化を育んだ。今なお勇猛果敢で、仲間を慕い、国を愛するコサック隊の精神は、現代人に受け継がれている。




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