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2020年06月11日08:16

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北狄(12)

烏桓は漢に接していたが鮮卑はこの時代はまだ接していない。漢は烏桓を万里の長城の南
側に住まわせ、衣食住を提供して国境警備および匈奴への対抗勢力として使った。これを
監督するために護烏桓校尉という役所も設けた

これ以降烏桓は漢に与して匈奴や鮮卑と戦うようになる。とはいっても漢王朝に忠誠した
というわけではなく、衣食住は提供してくれるし適当にご機嫌取っておけば金品までくれ
るという「朝貢制度」が美味しいからだった

漢はこうして南匈奴と烏桓を取り込んでいったわけだ。金品つまり賄賂で周辺諸国を懐柔
するというのは中国伝統の技である。最近ではジミントーやコーメイトーという一派をま
んまと懐柔しているようだ。アメリカではミンシュトーという一派を手なずけている

この後、漢は南匈奴と共に北匈奴征伐軍を形成し紀元90年頃には北匈奴を打ち破った。
敗れた北匈奴はバイカル湖方面へ逃げていったという。一説によればこの北匈奴が後にフ
ン族となり東ヨーロッパ方面に進出。押し出されるようにゲルマン民族がローマ帝国領に
移動していったとされる。漢と匈奴の争いがローマ帝国を滅ぼしたというワケだな

さてさて北匈奴が去った後のモンゴル平原にチャーンス!とばかりに入ってきたのが鮮卑
である。匈奴の場合リーダー格を単于と呼んでいたが鮮卑の場合は大人と呼ぶ。この時期
檀石槐という人物が大人についていた。この人物がなかなかのものだった

北方騎馬民族はなかなか一つにまとまらないが、カリスマ的リーダーが出るとまとまる。
まとまると強い。かつての冒頓単于に相当するような人物であった

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