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2020年03月31日13:27

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マリオ・ロッシンがいいね!

■マリオ・ロッシンがいいね!

イタリアの老舗のチネリのスチールフレームの製作拠点がイタリアの工房に戻って製作されているようだ。創始者のチノ・チネリはフレームビルダーではなくプロデューサー的な役割だった。工房を作り職人を雇ってフレームやステムやハンドルを製造していた。

幸いなことに、イタリアの小さなフレーム工房が花盛りだった頃にイタリアの工房に行って、フレーム作りを見せてもらい、創業者もインタタビューもできて、フレームをオーダーすることができたし、紹介者がいて、フランスのルネ・エルスとかアレックス•サンジェ、ジェミニにも行って創立者やフレームビルダーに会えている。

日本の輸入代理店に紹介してもらったり、イタリア在住の知り合いにコンタクトしてもらって、撮影許可も含めて訪問の日を設定してもらった。パッソーニ、ロッシン、ジャンニモッタ、マジー、チネリ、デ・ローザ、チ・クワトロ、コルナゴ、ビアンキのレパルトコルサ、フレームチューブメーカーのコロンブス、ビットーレジャンニなど、ミラノ近郊の色々なファクトリーを訪ね歩いた。

行ってわかること。見えてくることもあった。例えば有名なチネリ、ミラノ郊外の店鋪兼工房を訪ねた。スチール製のロードやピストのステムを溶接していた工房や、有名な1960年代に盛んに作られていたスーパーコルサのスチールのフレームを作っていた工房を、何故かマネージャーが付き添って見せてくれた。この製造ラインは日本からのツアーで訪れる日本人が案内されるラインだ。

1964年の東京オリンピックで初めて日本へスーパーコルサは持ち込まれて、完成度の高さに日本の自転車関係者は驚愕したという製品で、日本のフレームビルダーに影響を与えた。ロストワックス製のイタリアンカットラグやコロンブスのチューブもSLXに変更されているが同じようなフォルムで継続生産されている。昭和30年代にヨーロッパ遠征していたプロレスラーの力道山や豊登もお土産に買って来たことが知られている。

しかし、チネリの工房に職人は一人もいなかった。昼休みでご飯を食べに行っているので製造の過程を見せられないという。実はチノ・チネリが創業したチネリは、当時はフレームも生産していたが、卸屋さんと、小売店と、製造メーカーと、ステムやハンドルがアルミの時代に入って、訪問した時代にはフレームなどの製品の製造をイタリアや台湾の工房へ外部発注している会社だったのだ。日本には完成車やフレーム、コロンブスのチューブやラグを輸出していた。

有名なチネリのお店とフレーム工房のラインは息子のアンドレア・チネリからアントニオ・コロンボへ売却されてからもミラノ郊外に残されていて、1960年代の姿のままだった。しかし、スチールフレームのスーパーコルサはこの当時は台湾に生産拠点を移していて。

チネリのレーザーシリーズは、ロマーノ市の提携工房のアンドレア・ペゼンティがチネリと契約して設計・制作を数人の職人と担当していた。例のチネリのマネージャーがペゼンティの工房に来て、次のミラノショーに向けたレーザーの製作を、常磐の上にフォーンタイプのマックスフレームチューブやフィンになる板材を置いてミーティングしていたのを目撃している。

チネリの2代目がコロンボ鉄鋼の御曹司のアントニオ・コロンボへブランドを売却していて、ミラノ市内にチネリ製品を販売するショップのグランチクリズを設立していた。コロンブスの傘下に入って、ミラノ郊外の店舗は壁からレーザーやスーパーコルサのフレームが下げられていた工房も取り壊されて、グランチクリズも転売されてブランドネームとカーボンロード、スチールのロード、ステンレスのロード、スチールのピスト、ハンドルやステムなどの製品ラインナップとイタリアや台湾の協力工場や、台湾のチューブの卸だけが残されることになる。

ミラノ郊外にあるコロンブスを訪問すると、スチールチューブの最後の模索時代で、フォーン加工のマックスとかミニマックスとかに続いて、異形チューブのMSチューブの時代になっていた。スチールチューブの引き抜き加工のラインがあった。

ダブルバテッド加工やスパイラルバテッド加工、肉薄チューブの熱処理炉があって、ヒートトリーテッド加工が行われていて、0、5mm肉厚の究極の軽量スチールチューブのウルトラフォコも製造されていました。素材は伝統のマンガンモリブデン鋼から溶接後の材料劣化が少ないクロモリ鋼に変更されて、コロンブスが情報発信していた溶接方法や酸処理のアドバイザーはペゼンティが担当していました。

たまたま取材拠点にした北ミラノ駅周辺で乗ったタクシーの運転手も、住所のメモを渡すとすぐにわかってくれて親切に訪問先へ案内してくれた。大変だったのは紹介されて雇ったトランスレーターが、自転車に関して全くの素人だったのだ。こっちが解説しないと専門的な話が進まないのだ。

訪問した中で昔のコルナゴの一番職人がピカリと光っていた。コロンブスの薄いチューブも躊躇なくプロパンガスバーナーで真っ赤に温めてラグ付きでロー付け溶接していた。ロー材のまわりも十分だった。誰だか聞き取れなかったがプロ選手用の軽量フレームだという。

当時のコルナゴの年間生産台数は5000台とエルネストは言っていた。もちろんスチールの溶接フレームがメインで、カーボンや、軍事用のチタン合金製のダウンチューブを2本にしたフレームを試作していると見せてくれた。カルビチューボやチタニオの原型モデルだった。

カーボン&アルミラグとの接着フレームはイタリア国内生産、ティグ溶接で組み上げるチタン合金製フレームは、モラッティ製かとも思えたが、カザフスタンかロシアが生産地になるという。壁にはメルクスのアワーレコードのサポートをするエルネスト、世界チャンピオンのサローニと並ぶエルネスト、そういう写真が額に入れられて飾られていた。

エルネスト自身はフレームは作らないが、頭を指差して、アイデアはどんどん湧いてくるし、有名ブランドとのコラボレーションの実現とか、有名選手とのジョイント話は積極的に取り組んでいると言っていた。ただ、だんだん高騰しているプロチームへの供給話は契約が難しくなっているという。

エルネストもロッシンの腕の良さを認めていて、メルクスのフレームは彼が担当していると言っていた。メルクスとエルネストのジョイントは、あっさり解消してしまう。だけどフレームのブランドは1社しか表示できないルールなので、エディ・メルクスのロゴを入れたかったメルクスとおり会えなかったのだそうだ。

コルナゴは本格的なカーボンレームの時代に入って、セミモノコック製法が主流になって、生産ラインの投資が大きいことや、採算ラインを達成する販売数の達成が難しいと判断して。台湾のジャイアントとの資本提携に踏み切る。持ち株比率は41%と言われ実質的な提案と議決権を持っているのでジャイアント傘下と言える。カーボンセミモノコック製法のフレーム生産をジャイアントに任せて、最高峰のカーボンラグとカーボンチューブのC40、C50などの生産だけをイタリアの工房で行うようになり、エルネストは雇われマネージャーとして、プロデュース業に専念している。プロチームやフェラーリなどのブランドとの提携も継続している。

現役時代からベルギー人のメルクス選手は、自社ブランドの立ち上げを計画していたし、自分の名前のロゴ入りのフレームで走ることで、ブランディングを確立したかったのだ。現役プロ選手にして、ベルギーのケッセル社や日本の宮田自転車と、エディ・メルクスブランドでロードバイクがライセンス生産されていたのだ。

メルクスはクサーノの小さなフレーム工房のウーゴ・デ・ローザが作るスチールフレームに目をつけて、フレーム供給の契約を結ぶ。コンパクトにナベックスプロのラグを削り込んだ、ショートポイントのイタリアンカットラグは、シャープな仕上がりを誇り、日本のフレームビルダーにも影響を与えている。まるまるデザインをコピーしてロストワックスで製造しているいる日本のブランドもあるくらいだ。

当時は日本から日大自転車部でメカニックを経験していた長澤義明氏がデ・ローザのスタッフとして働き始めていた。フレームは作っていなかったが、ラグの削り出しや、チューブの溶接部のした仕上げを担当したり、パーツの組み付けを担当していた。ホイール組も長澤氏が担当して、フレが出にくいと選手に評判だった。プロチームのメカニックとしても働いていた。

当時のスチール製のロードフレームは、フレームチューブへの熱残留応力による折損を恐れて、小物のロー付けが最小限に留められていて、ブレーキケーブルも、変速レバー台座も、ナンバー台座も、シフトケーブルのハンガーリードも、チェーンステーのアウターストッパーもバンド止だった。その後にそれらの台座が低温ロー付け溶接されるようになる。

当時はフルカンパニョーロのレコードのアッセンブルのロードレーサーの価格が36万円くらいだった。デ・ローザのプリマト、ロッシンのロードが全盛期だった。フレームビルダーにも年齢や経験の積み重ねで旬がある。30歳くらいから65歳くらいまでがピークと言えるだろう。

まず心配されるのが健康と体力の問題で、経験を積んで獲得したテクニックや集中力の継続時間でカバーできるのにも限界がある。緩急を心得て製品のクオリティーを保って晩年を迎えるわけだ。生産量や製造スピードは低下する。溶接用のメガネやサングラスをかけて作業していても、溶接の有害な光による目の網膜へのダメージも問題なのだ。ティグ溶接にしてもプロパッmガスバーナーでも、日本で主流のアセチレンバーナーでもリスクはあるのだ。

だから、旬の時期にフレームビルダーと出会うことが重要なのだ。当時のロッシンは独立して共同経営者と揉め始めていた頃で、苦境に立っていた。ロッシンには宮沢清明さんが仕事を手伝っていた。揉め事に巻き込まれないように、後に、ジャンニ・モッタへ移籍していく。

悩めるロッシンだったが、その仕事内容は素晴らしく、フレームの美しさはもちろんだが、組み上がったロードレーサーの迫力も素晴らしかった。アシンメトリック塗装とクロームメッキなどのバランスも斬新だった。フロントフォークの先曲がりも美しく、荒れた路面の震度吸収性も実用的だった。

ロッシンは共同経営社にブランド名を取り上げられて、ファクトリーも解散してしまった。のちにロスアートというブランドでスチールフレームの生産を再開している。一方、デ・ローザはエディ・メルクスの所属したフィアットやC&Aチームへのフレーム供給契約を継続した。

エディ・メルクスブランドでのゴーストブランドでの供給でした。メルクスは自社ファクトリーでのフレーム生産を現役引退と同時に開始する決断をして、ベルギーに生産ファクトリーを開いて、ウーゴ・デ・ローザをアドバイザーとして契約して、クサーノの生産ラインと同じプレヒートマシンなどを導入してスチールフレームの量産体制を築きます。

デ・ローザは事実上ウーゴが引退して、息子たちがビジネスを受け継いで、グローバル展開している。クサーノのか連れの生産ラインは活動を停止して、ラボの一部は残されているが、カーボンフレームやスチールフレームをアジアの生産拠点で生産して、チタン合金、マグネシウム合金、スチールのオーバサイズ、スチールのスタンダードなどを製品ラインナップしている。

ベルギーに生産ラインを開設したメルクスは、自身がフレームビルダーになるのではなく、ファクトリーのオーナー社長に就任する。ベルギー自転車競技連盟の最高顧問に就任して、現役時代の6日間レースのパートナーでロードチームの同僚だった。パトリック・セルキュと強化にも取り組んでいる。

生産されたフレームは、イタリアンカットのショートポントラグはロストワックス製、エンドもロストワックス製のチューブに被せるタイプになって、フレームチューブはコロンブスがスタンダードでした。ピストとロードがラインナップされました。ベルギーのトライアスロンナショナルチームのスポンサードも行なっていました。

アルミ合金製のティグ溶接フレームの流れが5年くらいあって、すぐにカーボンフレームの時代が否応なしにやってくる。メルクスはカーボンフレーム製造のラインを作ることを検討したが、その投資資金の大きさ、採算ラインの厳しさに躊躇して、中国系のファンドへの会社の売却を選択した。

ロッシン、デ・ローザ、メルクスのブランドの変遷を見守って来たが、こうも激変するとは思ってもいなかった。何だかフレーム素材の変化が大きく影響しているな〜というのが実感だ。小規模のファクトリーで対応できる、スチールやアルミの時代は、職人を雇っても生産量が少ないのでビジネス規模も小さいが、個性豊かな時代だった。カーボンフレームの量産時代になって、生産ラインの構築には大きな資本が必要だし、委託生産のロットも大きくなって、小規模の資本では付いていけなくなっているのだ。





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