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2020年03月13日03:29

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東郷元帥のカールツアイスのプリズム双眼鏡!

■東郷元帥のカールツアイスのプリズム双眼鏡!

カールツアイスはドイツのカメラレンズメーカーやメガネレンズメーカーとして知られている。ライカとカールツアイスの組み合わせは、ニコンやキヤノン、ペンタックス、ヤシカ、リコーなどのフィルムカメラ、一眼レフカメラのルーツになったメーカーだ。レンズ交換ができるカメラの選択肢として、カールツアイスのレンズを組み合わせるという使い方もあった。

明治時代にはすでに光学メーカーとして操業していて、世界的な名声を得ていた。今もドイツはライカのカメラと共に、レンズメーカーとして、高い評価を得ている。カールツアイスのレンズが付いたクラッシックカメラを手に持って操作してみると、まずその金属の塊感がものすごい。光学ガラスを手間暇かけて磨き上げたレンズが重すぎてびっくりする。

僕はかろうじて、ダイキャストボディのニコンF、ニコンF2、ニコンF2フォトミック、ニコンF2チタンカバーのプロ仕様、ものすごい重さになるニコンF2モータードライブ付き、ニコンF3というおおらかなオートフォ〜カス付き、そしてオートフォーカス付きのプラスチックボディカメラへと移行して行った。デジタル時代になってもFを愛用しているが、最近では処理速度の早くなったリコーの35シリーズでもいいかと思っている。コンパクトで軽いからね。

どれが好きだったかと言えばF2チタンのプロ仕様だ。頑健で操作しやすく一眼レフカメラと言えばこれがイメージだ。少し重いけど、どこの国にも持って歩いた。軽くなった電子機構付きの一眼レフカメラも便利だったけど、電子接点が雨に弱くて、リークして止まってしまうことがある。電池残量も気になるしね。

必ず予備機として機械式シャッターのズームレンズ付きのF2を持って行った。イベント当日の天気が激変することがあるから、この組み合わせが必須だった。それより極悪の天気で頼りになるのがニコノス5という水中カメラだった。フィルムをセットするには、飯ごうのようなダイキャスト製のボディからカメラ本体を引き出して行う。海洋冒険家のジャック・クストーの愛したモデルだ。

モノクロページの場合は、36カット分に切って詰め替えた35mmのコダックのASA感度400のトライXが写真部から支給された。カラーページ用の取材は、印刷媒体なのでポジフィルムのコダクロームのASA65か天気が悪ければASA200をセットする、カラーの再現性はいいが、現像液は猛毒というしろものだった。できれば2段階増感の粒子がギリギリ荒れない範囲でシャッタースピードを調整して撮影していた。手ブレが心配だったな〜。

カールツアイスを知ったのは、日露戦争の日本海海戦で連合艦隊の旗艦を務めたイギリス製の戦艦三笠だった。横須賀港に記念館として固定展示されている。東郷平八郎司令長官が首から下げていたと言われる、カールツアイスのプリズム式双眼鏡が特別展示されていた。銀座の玉屋という輸入業者がドイツから取り寄せて、東郷さんに届けられたものだという。倍率は8倍と表示されていたように思う。

もう一人、東郷さんのプリズム双眼鏡を借りて見せてもらって、惚れ込んでしまった駆逐艦乗りの中尉も玉屋にオーダーして手に入れているという。連合艦隊には2つのカールツアイスのプリズム双眼鏡が存在していたのだ。当時の日本海軍の標準装備は天体望遠鏡のような形状で、甲板に三脚を立てて据え付ける、倍率4倍程度の単眼鏡だった。つまり2人の高価なドイツ製の双眼鏡は私物だったのだ。

当時の大学の教授クラスの月給が50円から100円という時代に、カールツアイスのプリズム式双眼鏡の値段は300円くらいだったそうだ。中尉の月給の半年分だったようだ。小振りな真鍮製ボディに、滑り止め加工された黒い革張りで、カールツアイスが磨いた高精度レンズ数枚に、間に三角のプリズムがセットされ、接眼レンズがついたモデルだ。黒い革のストラップが装着されていた。

当時はおおらかだった、実はその双眼鏡を学芸員に許可をいただいて、真っ白な手袋を借りてそっと持たせてもらったのだが、小振りな双眼鏡なのにずしりと重く、流石にレンズの表面はカビが覆っていて曇っていた、レンズ止めのリングにはカールツアイスの刻印がはっきり刻まれていた。その姿がダイキャストボディの完全防水ボディのニコノス5のたたずまいにそっくりなのだ。

明治時代のドイツの光学機メーカーの作り出したテイストを、日本工学のエンジニアもインスパイアを受けているのだろう。日本光学はカメラや望遠鏡や双眼鏡や、距離測定用の双眼鏡や単眼鏡も製造しているし、潜水艦の複雑な構造の潜望鏡も今でも製造して自衛隊の潜水艦いに納入している。カールツアイスも砲兵用の距離測定双眼鏡などを製造していた。

フィルム時代はプレスの分野では、ニコンの優位性が優っていたが、キヤノンの進出もあって、強力なライバル関係だった。しかし、コニカミノルタが口火を切った、レンズの中に振動モーターを組み込んだオートフォーカスカメラの時代に入って、進化を遂げると、プロカメラマンの仕事内容が変化する。

自転車レースやトライアスロンの撮影なら、コースを下見して、ここが勝負どころになって、この地点から撮れば迫力ある場面を切り取れるというレース展開を想像して、撮影の場所を選び、しかもフィニッシュの写真も必要という場合は、移動のタイミングもはかる。最低でもレンズの違う一眼レフを2台持って、ここでは長玉、ここでは広角、時にはズームレンズと、画角を決めておく。

順光や逆光、半逆光の状況を見て、明るさに合わせて被写界深度というピントの合う距離を想像して、絞りのF値を設定して、シャッタースピードを設定して、写すものを決めて、画角を決めて、手ブレしないように静かにシャッターを押して、一瞬を切り取るのだ。フィルムは36カット撮れるが、決定的な瞬間を撮り損ねないように、残カット数も頭に入れておく。

その全てがカメラマンの仕事だった。キヤノンの電子システムが先行し始める。電子カメラの時代に入ってプレスの占有率が逆転し始める。オートに設定すれば絞りもシャッタースピードも、ピントも手ブレ補正もカメラがやってくれるようになった。ということは、カメラマンは現場に行ってイベントへ立ち会い、撮影場所を決めて、画角を決めて、シャッターを押せば大抵は間違いなく写真は撮れる。現場に行くことと、一瞬を切り取るセンスの問題になっているのだ。

キヤノンのイオスシリーズのプロ仕様は30万円、50万円と価格設定が高騰して撮影マシン化していく。オートフォーカスのピントが合うまでの時間の短縮、モータードライブのオープンミラー状態とも言える秒間10コマに全てベタピンで対応できるまでに進化する。F1マシンも、グランプリバイクも、100mも怖いものなしでピントが合うし手ブレもない。しかも、瞳の位置をセンサーが感知して、その部分にマルチフォーカスしてピントを合わせることもできるようになった。

ニコンはこのカメラの電子化の段階で遅れを見せた。さらに銀塩フィルムの時代から、デジタル化のフェーズに入って、画素数、画像処理の演算スピード、カラーバランス、メカニカルスピードにおいて、電子回路の設計能力、光を捉える半導体のイメージセンサーの性能で、キヤノン得意の半導体づくりで大きな差をつけられる。

ニコンのトップモデルのFシリリーズや上級機種のデジラルカメラは、新型発表のたびにプロカメラマンように、特別価格で供給されて、改善が期待されたが、そのたびに半導体の交換とか、回路の設計変更されたものへの交換が行われた。銀座のプロラボヘ調整に出すたびに性能が知らぬ間に、オートフォーカスのスピードやイメージセンサーのカラー特性が向上していたことを思い出す。

ニコンのプロラボのエンジニアが出版社に出張してくれて、使っているカメラを出しておくと、シャッタースピードの微調整、あらゆる場所のマイクロネジの緩み、マウントの歪みの調整、フィルム面までのフォーカス距離の調整、レンズ表面のクーリーニングはもちろん、ズームレンズを分解して内部に侵入したダストの除去やレンズまでクリーニングしてくれる。だからニコンからキャノンへの乗り換えキャンペーンがどんなに条件が良くても、性能差を感じても、乗り換える気にならなかった。

一眼レフのレンズも、デジタルカメラの受光体の半導体面までの距離がわずかに変わり、専用レンズへや新型ボディへの買い替え下取りキャンペーンが行われた。ガラスのレンズから、プラスチックレンズへの移行があって、オートフォーカスのモーターへの負荷が減って、スピードも上がった。F値が小さい明るい大口径レンズでも、持っても軽くなった。

いずれにしても、デジタルカメラになって、初期段階はキヤノンのイオスに追い付け追い越せで、ランニングチェンジが盛んに行われていたのだろう。ある時、高性能の小型デジタルのビデオカメラで定評があり、放送局用のプロ機材も作っている部門からの情報リークがあって、ニコンとの提携話が進んでいるという。

ニコンが受光体のイメージセンサーの自社開発を諦めて、ソニーのイメージセンサーを採用するというのだ。そこからがニコンのデジタルカメラの進化スピードが飛躍して、イオスと肩を並べるようになった。中級機種や廉価版モデルにもテクノロジーが導入されて格段にシステムが進化した。パソコンによる画像処理のスピードも飛躍的に進化した。

このデジタル化の分野では、ドイツのカールツアイスもライカも相当遅れた。小型のイメージセンサーの開発は、失敗作と言えるほどに、カラーバランスの再現性がひどかった。レンズの特性がイメージセンサーとの相性が悪かったみたいだ。セピアカラーの写真かと思えるほどの性能のばらつきがあった。コンタックスも初期モデルはひどかったな〜。

デジタルのファインダー内の液晶の粒子や、実際にイメージセンサーが捉える範囲とファインダーの視野範囲の誤差の問題も解決されて、メーカーや国の枠を超えたコラボレーションも普通になって、半導体供給やノウハウの移転のおかげで性能は改善されている。ソニーのデジタルのビデオカメラや、スマホのカメラレンズにカールツアイスのレンズがついている時代なのだ。

そういうコラボレーションが盛んになった時代だからこそ、日本製のイメージセンサーの再現性の素晴らしさや、安定した性能の評価は、製造メーカーのエンジニアに支持されるようになっている。どこの国のメーカーも簡単に壊れるものや、性能の不安定なものを作れば支持されなくなる。日本製部品の安定供給を確保して組み込みたいのだ。


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