漱石全集の年表を見ていると、漱石の生まれ育ちがいかに不安定な液状化した地盤のうえでなされたものかが見て取れて驚かされる。
慶応三年(1867) 江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町一番地)に父・夏目小兵衛直克、母・ちゑのもとに金之助生まれる
父50歳母42歳、恥かきっ子の末っ子
生後ただちに四谷の古道具屋に里子にやられたが、まもなく生家に戻る
慶応四年明治元年(1869) 塩原昌之助・やす夫妻の養子となり引き取られる
明治四年(1871) 養父昌之助が職を失なったため、一家は住まいを移る
明治六年(1873) 養父の就職により一家は浅草に転居
明治七年(1874) 養父の不倫が元で夫婦不仲となる
「それは僕が幼少の頃であった。僕は父と母の喧嘩する声で毎晩目を覚ました」断片
夫の裏切りを訴えるやすに同情した直克は、やすと金之助を一時引き取る
「金之助は、養家から実家に移ったことを子供心にも喜ぶが、期待に反し、
暖かい態度では迎えられなかった」
やすと金之助はまもなく、やすの実家榎本の家あたりに引っ越す
やすは離婚を決意し、塩原家長男である金之助を養父のもとに戻す
明治八年(1875) やすは離縁の手続きをとり、実家榎本の戸籍に復籍
それに伴って、金之助は再び夏目家に帰る
「実父直克は、厄介者が戻ってきたという感じを抱いていた」
このように、十歳に満たぬうちに点々と漱石の居場所は変わり、実父母・養父母の間での複雑な人間関係のもとに置かれることになった。
また漱石が生まれ育った時期は明治維新を挟み、大いなる変転の時代でもあった。
王政復古の大号令、 鳥羽・伏見の戦い、 戊辰戦争、 江戸は東京と改められ、 天皇即位の大礼、 廃仏毀釈、 戸籍法ができ、 廃藩置県の詔書、 初の戸籍調査、 庄屋・名主・年寄などの称号廃止、 太陰暦廃止、 地租改正条例、 東京警視庁設置、 東京新橋間に馬車鉄道が引かれ、 読売新聞創刊、 日曜日休日制定。
これらのことが漱石誕生から十年のうちに起こった。
漱石の文学が、生誕以降のそうした複雑な家庭の環境と社会環境の爆発的大変動によって生まれたものであることは間違いないだろう。
ログインしてコメントを確認・投稿する