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2018年09月27日10:32

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最近、思ったこと。part0033


  〔緊急連載〕ロシア東欧史概論対露アウトライン・ダイジェストその9{かっ飛びつまみ食い編その7}。さっさと終わらせよう。後で全文チャートするとして20以降のチャートは以下の通り


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20、総司令官バトゥ・カンと副将スブタイは協議の末、遠征続行を決断しオゴタイ・カーンへ許可を求める。
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21、首都カラコルムから遠征続行の命令が届き、北部ルーシーをにらみ中部ルーシーのチェルニコフへ威圧進駐する。
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22、3路に分かれて70000騎のモンゴル騎馬軍団が一挙にキエフに殺到する。
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23、「木城」キエフは一瞬にして陥落し、全市が焼き払われ、全住民が「皆殺し」にされる。
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22、キエフ落城後、周辺農村から根こそぎ男を「人狩り」して「軽歩兵」隊を編成し、残余を「奴隷」として売る。
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23、歩兵20万、騎兵7万の東欧遠征軍がキエフ郊外で「組織」される。
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24、総司令官バトゥ・カンは全軍を3隊(支隊を含めると5隊)に分け、キブチャク征討と同じ「巻き狩り」戦略でキブチャク・マジャール騎兵をハンガリア盆地中央部追い込むよう全軍に指令し、東欧遠征軍を出撃させる。
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いよいよ、モンゴル軍のヨーロッパ遠征が始まった。総司令官バトゥ・カンは軍を三隊にわけ、主力を右翼に置き兄・オルダにルーシー軽歩兵とバイダル・コデンの騎兵を付けてポーランドへ侵攻させる。中央軍と左翼軍はベレッケ峠からハンガリア盆地に侵攻し、カダアン率いる左翼軍はトランシルバニアへ、中央軍バトゥとスブタイが直率しはそのまま直進してブタペストへ向かう。右翼軍はポーランド・ドイツ連合軍を連破し、中央軍は複雑な外交交渉の上、1241年4月11日にハンガリー王べーラ4世率いるハンガリー本軍とバトゥ・スブタイ率いる中央軍とがモヒ平原にて「本軍決戦」を行い、モンゴル側が「完勝」する。


25、まず、北からの援軍を絶つため兄オルダにルーシー歩兵10万とバイダル・コデン率いる20000騎の騎馬隊を与えポーランドに進攻させる。
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26、オルダ支隊の東部ボーランド制圧と同時にバトゥ・スブタイ率いる中央軍30000騎とカアダン率いる左翼軍20000騎の騎馬隊と要地占領のために付属するルーシー歩兵5万がベレッケ峠からハンガリア盆地に侵攻。
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27、ベレッケ峠を越えた所でカダアン率いる左翼軍20000騎とルーシー歩兵がトランシルバニアへと向かう。
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28、同じ頃、右翼軍バイダル支隊がポーランドの首都クラコフを占領。ワルシャワ近郊へ威圧進駐した右翼軍本隊と合流してシュレジエンへ進攻。
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29、右翼軍がシュレジエンの首都ヴロツワフを占領、レグニツァ郊外のワールシュタットでドイツ・ポーランド連合軍に完勝
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30、直後、バトゥ・スブタイ率いる中央軍30000騎がモヒ平原にてハンガリー王べーラ4世率いるハンガリー本軍と「本軍決戦」を行い、モンゴル側が「完勝」する。
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31、中央軍がハンガリーの首都ブダペストを占領、バトゥはカダアン率いる左翼軍20000騎にトランシルバニア制圧後のべーラ4世追跡とクロアチア・ダマルティア制圧を指令し、右翼軍にはポーランド制圧後の中央軍との合流を命令する。
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32、中央軍はハンガリーの古都エステルゴムに進攻してこれを占領、命令を受けた右翼軍はカルパチア山脈を越えてモラビア軍を撃破しの首都オモロウツを占領。
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33、中央軍は北上してスロバキアへ進攻し、オーストリアの首都ウィーンを狙うがここで帝都カラコルムからオゴタイ・カーン崩御の知らせと監国(皇帝臨時代行)ドレゲネ皇后からの全軍撤退命令を受ける。
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34、バトゥ・カンは歯噛みするもグユクの即位そしてトランスコーカサスへの進攻を恐れ後日を期し副将スブタイと協議の上全軍に撤退を指令する。
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35、まず、バトゥ・カンは敵に弱みを見せないために北上してウィーン近郊に威圧進駐して、右翼軍と合流。
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36、そのまま東帰せず、南下してセルビアへ進攻し広く散った左翼軍を順次合流させ、ブルガリアを制圧して海沿いの道を通って自領であるトランスコーカサスへと帰還し遠征軍を解体した。
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またしても「遠征」は「未完」に終わった。一般にはオゴタイ崩御がヨーロッパを救ったとされるがそんな簡単なものではない(-_-;)。事実、ジョチ・ウルスはその後もルーシー進攻前同様に東欧特にポーランドへの「威力偵察」を繰り返しており、1259年には最初の進攻に匹敵する20000騎の騎馬隊を動員して東部・南部のポーランドを焼き討ちし首都クラコフを占領している。やる気満々(笑)。ではなぜ、ヨーロッパはモンゴルの侵略を免れたのか?理由は2つある


1、モンケ・カーンによる「湿潤アジア制圧政策」がジンギス・カーンの「通商路確保戦略」を押しのけてモンゴル帝国の基本国策となった事。


判りやすく言えば「アホでビンボーなヨーロッパ」なんぞより「賢く豊かなチャイナ」がほしーーーーー☆、ってわけだ(笑)。ヨーロピアンよ「ボンビーなアホ」でよかったな(笑)。この頃のチャイナは世界で最初に「エネルギー革命」を成しとげ、「文化」「技術」「経済」で全世界をリードしていた。アフリカの酋長さんのお墓から「宋銭(チャイナのお金)」が沢山てでくるぐらい(笑)。だが、


「軍事力」の形成に絶望的に「失敗」した(-_-#)。


武器つまり軍事技術的にも全世界をリードしていたにも係わらずだ。当時の最新兵器「弩(クロスボウ)」の発達史等を調べてみればよく判る。これは社会構成と思想的要因が複雑に組み合わさって起こったことで現代日本とも多くの「相似」点があることなので前期モンゴル帝国史において詳述する。そして、二つ目は


2、ハンガリーのマジャール騎兵がいくら利益で釣っても「寝返」らなかった事。


だ(怒)。負け組ドイツ人の書く歴史が酷く「ひん曲が」っているので、この点がこれまた酷く「軽視」されていることが苛立たしい(-_-#)。当時、ハンガリーはヨーロッパ最大・最強の王国で、それがモンゴル帝国と「組め」ば全ヨーロッパの完全制圧などかーーーーんたんだった(黒笑)。でも、誘えど、誘えど、マジャール騎兵は「節操堅固」にこれを拒み続け、反撃の尖兵になった。モンゴル人たちは「面食ら」った、いままでそんなこと一度もなかったからだ。接襄地帯(農耕地帯と遊牧地帯の境目)に遊牧する遊牧民は常に農耕民から「敵視」されており、「対立」と「怨念」が有るのは当たり前だと思っていたからだ。ここに、


モンゴル軍事文化の仇敵「信仰」が登場することとなったわけだ(笑)。


マジャール騎兵たちは大金持ちのモンゴル帝国の権力者であるより、びんぼーで敬虔なクリスチャンであることを迷わず選んだのよ(-_-;)。「神も仏もあるもんか!」式の天然アウシュビッツとしか言いようのない12世紀モンゴル高原に発祥したモンゴル帝国の人々にはこれは酷く「理解しがたい」事だった(苦笑)。繰り返し、繰り返し、工作を仕掛けるも結局だれも寝返ることはなかった。


「聖イシュトバーンの王冠(ローマ教皇が改宗したハンガリー王の与えた王冠)」がヨーロッパ・キリスト教世界を救ったのさ。


洒落や冗談ではなく「単純な事実」としてね(-_-;)。ハンガリー史後に王位を乗っ取ったドイツ人が書くんで酷く、酷く、酷く、「歪ん」でいるのが酷く苛立たしい(-_-#)。いっそ俺が書いたろかとも思うがそんな時間ねーーーーーー(ToT)。ヨーロピアンは「も少し」ハンガリー人の「節操堅固」だったところを評価してもいいと思うぜ!さてと、話がずれた元に戻す。


37、トランスコーカサスへと帰還したバトゥ・カンはボルガ下流域の三角州(現アストラハン付近)と中流域の旧ブルガール王国(現カザン付近)を巡回し、東に兄オルダを西に弟ベルケを送り自領ジュチ・ウルスを固める。
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38、モンゴル本土ではグユクの母である監国(皇帝臨時代行)ドレゲネ皇后がクリルタイ(帝国会議)開催を策してバトゥ・カンに出席を繰り返し要請するが、グユクの即位とそれへの臣従を嫌って、要請を無視し続ける。
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39、痺れを切らしたグユクがバトゥ抜きでクリルタイ(帝国会議)を強行し第三代カーンへと即位する。
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40、グユクはバトゥへの威圧のためにモンゴル本土の兵50000騎を率いて自領の旧ナイマン王国領へと進駐する。
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41、それを伝え聞いたバトゥ・カンが30000騎を率いて旧ナイマン王国領に接する旧カルルク族領へと進駐する。
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42、両軍が接触する直前、グユク・カーンが急死する
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ま、どう見ても「暗殺」だろうね(-_-;)。その後のトゥルイ家の奪権といい、「通商路確保戦略」派であるチャガタイ・オゴタイ派の急速な弱体化といい、この直後に即位するモンケ・カーンのジュチ・ウルスとの堅く複雑な「同盟関係」といい、タイミングよすぎるもんな(-_-;)。さてと少し長くなったなここから始まる「モンゴル帝国」全体の急速な「変質」とジュチ・ウルスの「独立」状態の確立についてはまた次回語ろう。



おまけにみくしー検索かけてみました。

「ハンガリー」


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