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2018年07月20日15:33

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中国王朝史42 中華帝国

●辛亥革命と袁世凱と中華民国

これまで再三「中華帝国」とか「中華王朝」とか呼んできたが、
実は「中華帝国」という名前の王朝が一時的に存在していた。
1915〜1916年の間である。洪憲帝というとピンとこないだろうが
「袁世凱」が皇帝を名乗っていた時期なのである。

実は、国の名前に「中華」を入れたのは
1912年の「中華民国」が最初だと言われている。
ただ、この「中華」とは、
「華夷秩序(かいちつじょ)」と呼ばれる自国中心主義を表した国名であり、
彼らが民主的国家の建国を目指す一方で、
“中華思想”にまみれていたことも示しているのだ。

中華民国建国の経緯は以下の通りである。

1840年、アヘン戦争に敗北した「清」朝は
「南京条約」締結によって事実上「開国」することになり、
「外交」の必要性に迫られることになった。
それまでの彼らの外交は、如何に社交的であっても
「宗主国と朝貢国」の関係を保ち、
貿易一つとっても「朝貢貿易」だった事は既に述べた。

だが即ち「清」朝は当時有数の大国家でありながら、
笑うくらいに旧式の時代遅れの国体であり、
国民や現場官僚が肌でそれを感じているのを知りながら、
支配者はその姿勢を崩さなかった。
外国の圧力や内部からの改革を拒む動きを取り続けていたのだ。

それが瓦解する「南京条約」を経て
列強国に次々と半植民地的に食い荒らされる中でも、
それは変わらなかった。
清朝に限らず、中華王朝は比較的社交的で
王族には外国人が接触する事もあった筈だから、
既に革命によって共和制となったフランスなど
新しい国がどんどん海外に進出していることも知っていた筈である。
だが、支配者は政治体制の転覆に繋がる改革は望まないために
改革派を弾圧するなど世界情勢の中では大きく後退して行った。

1860年代に入ると、
憂国の士である一般官僚と知識人階級らは
「洋務運動」という欧米知識を取り入れながら政治改革を、
という政治運動が行うようになった。
これに基づき殖産興業富国強兵への動きも出てきたのであるが、
そんな折に1894年の日清戦争の敗北により更にダメージを受け、
改革はさらに遅れることになった。

決定的にダメージを受けたのは
1900年の「義和団の乱」による8カ国連合軍の北京進駐である。
反乱軍の義和団も(烏合の衆ではあったが)また憂国の士であり
「扶清滅洋」をスローガンに、中国に進出していた外国軍を襲撃したのである。
清朝が責任をもってこれを鎮圧し、他国の介入を許さないように最大限努力すれば
もしかしたら歴史は変わっていたのかも知れないが、
西太后ら守旧派は実力も伴わないのに義和団を支持、
連合国軍に宣戦布告するという暴挙に出たため、
清朝は列強に北京を占領され、力づくで捻り潰されたのである。

中華思想の根底にある朱子学の影響もあってか
天子(皇帝)を挿げ替えることに抵抗があったのだろう
しかし、時流も読めず実力もない死に体の清朝がある限り、
このままでは中国に未来はない、と切羽詰まった革命運動家たちは挙って
「清朝打倒」「中華回復」をスローガンとして立ち上がり、
ようやく革命の機運が高まっていったのである。

1905年には日本に逃れていた孫文が、
全国に散らばる革命組織の連合に成功、
「中国同盟会」が結成されるなどし、
各地で武装蜂起が発生するなど、いよいよ清朝も追い込まれる事態となった。
そして18省ある内の14省までが清朝から独立し、
1911年の武昌蜂起ではそれをせき止めるだけの力も残っていなかったのである。

1912年、清の皇帝・宣統帝溥儀が退位すると
国民党政府は中華民国の大総統の地位を北洋軍閥の袁世凱に委譲する。
だが、「嫌われ者」の袁世凱への反発は内外に発生し、
議会民主制を目指す民衆の支持基盤だった国民党と袁世凱は対立する事になる。

国民党は1913年に初めて行われた選挙で第一党となるなど勢力が強かったが、
いざそこから首相を選任しようとすると
袁世凱は国民党の実質リーダー・宋教仁を暗殺し
他にも多々横暴が目立ち、孫文らと袁世凱は対立してしまう。
孫文は、実権を握る袁世凱の北洋政府に対して
さらに革命を企てるがこれも弾圧。国民党も解散させられてしまうのである。
孫文は再び日本に亡命する。

ここで結党されたのが「中華革命党」と呼ばれる政党である。
この革命党が1919年に上海で改組されたものが
現在まで続く「中国国民党」である。
外部から見ると宋教仁の国民党も中国国民党も
孫文の影響下に発生した政党・政治団体であり
イデオロギーもそれぞれ一貫せず帝政や帝国主義に反発し
自治を求めたものに過ぎなかったので
勝手に「これらは別物」と当人たちが主張しようとも
区別の仕様がない
どちらも精神的主柱に孫文という同一人物を置き
「同一と言えば同一、別物と言えば別物」以外の何物でもない。

一方、実質の中国軍だった北洋軍閥を率いる袁世凱は
自らの野望を実現せんとし、
1915年には「中華帝国」を名乗り帝政を復活させ、自ら皇帝に就任しようとした。
少なくとも皇帝として振舞った時期があり
諸外国から承認され、証拠資料も多数残っているので
「しようとしたが、失敗した」という表現は正しくない。
「宣言して就任して承認されたが瓦解した」のである。

しかし清朝という帝政に行き詰って共和制に移行したばかりだというのに、
大衆からの支持も得ない袁世凱は逆行を図ったのである。
これには内外から反発があり、失敗に終わる。
ただ、一時的にとはいえ諸外国も承認した正式な国家である。
そして失意の中1916年袁世凱は病死し、
彼が居なくなると「中華民国」が復活し、
歴史上は事実として確実に存在した「中華帝国」は
無かったこと(一時的な内乱)として扱われようとしているのである。

ここまで袁世凱という人物について悪し様に述べてしまったが
彼には彼なりの考えがあっての行動であり
その評価が劣悪なだけで、実に不幸な一面があった。
彼は北洋軍閥を率いた、とされているが
「北洋軍閥」は元々は「ジェネラル・リーこと李鴻章」が育てた軍閥であり
袁世凱はその後継者である。
肝心の清朝は借金と金食い虫まみれの砂上の楼閣で
李鴻章らは忠義によって私財も擲って軍閥を運営していた、というのが
本当のところである。
従って、軍艦を海外から購入したり、兵士を訓練したり
欧米に対抗する手段としては「私兵で賄われていた」のであり
袁世凱はそれを受け継いだ清代からの政治家だったのだ

ところが
モンゴルや満洲では顕著で
中国でも伝統的にそうなのだが
法治国家ではなく人治国家であることが
中国王朝の特徴の一つで
カリスマ性の高い有能なリーダーが
数多くの武装勢力を束ねることで乱世を鎮めていく。。。というのを
もっともスマートな形に考えている思想がある。
三国志で劉備玄徳が主人公なのも
具体的に指示されていない「彼の人徳」に
多くの有能武将が従い、蜀漢を形成していく。。。という
他国文化ではちょっと理解に苦しむストーリーになっている。
しかも魏軍に敗れ敗走していくさなかも
彼を慕う民衆が何万人も後を追って付いて行き
道中で危険な目に遭うという描写がある。

ヒーロー待望論、あるいはカリスマ統治主義、のようなものに
20世紀になっても縛られていた、そして
その権化が袁世凱だった、という事なのである。

民衆の政治活動を弾圧したのは
議会民主制という議会で決める政治を実現しようとしたのであり
立憲君主制を目指す袁世凱と対立しただけの話である


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