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2018年07月04日18:55

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中国王朝史37 大英帝国大嫌い

●大英帝国が嫌われる理由

 中華王朝の話から逸れるが、少し補足的に述べてみたい
言うまでもなく「イギリス」というのは日本における便宜上の呼称で、
ポルトガル語で該当する連合王国の王政復古(1660年)の時に
母体となった「イングランド共和国」を指す「イングリス」という言葉が訛ったものである。

 現在の「イギリス」は社会の授業で習うと
「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」とかそんな風に習うはずである。
「イギリス」の歴史もややこしいので本稿では、
同国とそれを母体とする王朝を一括して「イギリス」と呼んでいるが、
現行の「グレートブリテン及び…」という形になったのは1927年で、
それまでは「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」、
その前は「グレーブリテン王国」(1707〜1927)と一応変遷があるのである。

ややこしいので世界史でもこの部分ではあまり触れないが
実はそうだ、という事である。

 そしてこの国の王朝名だが、
現在は「ウインザー」朝の第4代「エリザベス2世」が女王であるが、
彼女のルーツを辿ると「ハノーヴァー」朝の最後の王「ヴィクトリア女王」の夫、
アルバート公から始まる「サクス・コバーグ・ゴータ」朝にある。
ただ、このドイツの地名が入った呼称を
同王朝の二代目「ジョージ5世」が良くないと感じたのか
「ウインザー」朝に改めたのが始まりである。

この「ウインザー」朝が始まったのが1907年の事であるから、
大英帝国が世界の半分を治めていたのは
主に「ハノーヴァー」朝時代の事なのである。
世界に冠たる「大英帝国」としては、「ウインザー朝」初期も同様であったが
その「ジョージ5世」はヴィクトリア女王の孫であり、
ウインザー朝はハノーヴァー朝のヴィクトリアの血筋が途絶えたわけではなく、
血統という観点でいえば継続王朝なのである
(男系としては断絶扱い)。

さて、 「清」朝と対峙していた頃の大英帝国は
産業革命から勢いついて植民地政策を前面に押し出し、
「世界の半分」を手にしていた。
そして外交においては極めて傲慢な国であった。
また「重商主義」を採り、
方々で国策会社を作っては植民地の生産物を右から左に貿易し
利益に変えて「国富」を目指していたのだ。

そのイギリスの植民地の中でも、インドは優れた農作物生産地であった。
しかし、その主力生産物の一つである綿花の相場においては
彼らの大きな阻害要因となったのが「中国の綿花製品」だった。

「アヘン戦争」の講和条約「南京条約」(1842年)により、
清朝に対して圧倒的な不平等条約の獲得に成功したのであるが、
それでも貿易収支的には思うようにはいかなかった。

●アロー戦争

 そこでいよいよ中国侵略を目指して起こした戦争がある。
最初の「アヘン戦争」は清朝側の時代の読み違い、
或いは政治的判断の誤り、或いは長い平和&鎖国による軍隊の弱体化など
清朝にも多々問題があった事は前項で書いた。

しかし、次の「アロー戦争」はイギリス側による悪意と侵略意識に満ちた
酷い開戦理由だったのである。
1857年、「水夫が逮捕された」のを口実に戦争を仕掛け、最後は北京を占領した。
ありとあらゆる不平等な条約を盛り込んだ北京条約(1860年)は、
もはや条約というよりも植民地に対する通達に近いもので、
これを清朝政府は飲まざるを得ないほどに弱体化していたのである。

これに乗じて、時同じくして「洪秀全」を首班とした
太平天国という怪しい信仰宗教が反乱を起こし(太平天国の乱)、
次から次から各地の民族も蜂起を繰り返すなど、
かつての清朝の威光は殆ど失われていたのである。

そんな清朝を支えたのが曽国藩や李鴻章、左宗棠、張之洞ら「軍閥」であった。
清朝皇帝の咸豊帝は太平天国の乱の最中で即位し
翌年に始まったアロー戦争にも敗れ、北京を逃れることになった。

また、次代の同治帝が即位すると、
咸豊帝の后であった「西太后」が垂簾政治を展開し、
軍閥らを駆使してさらに清朝の威信回復に努めようとするが
全く話にならず加速度的に清王朝は滅亡の道を辿っていくのである。

知る限り、英国とは利己主義的で侵略的で不平等を愛し
乱暴で酔っぱらいの国家である。
英国人がそうだとは言わないが、英国政府は当時はそうだったのである。



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