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2017年10月25日11:47

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『子規の音』、森まゆみ著、新潮社、2017年

日曜日は雨。
雨にも負けず、図書館に予約していた『子規の音』
新潮社2017年を借りにいった。

著者は1954年の東京生まれ。
子規庵と線路を挟んだ谷中で大学生の頃、働いていた。
当時住んでいたのは千駄木。千駄木の谷間jから山一つ
越せば根岸。地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を1984年創刊。
根岸の「笹乃雪」「羽二重団子」「書道博物館」「カフェ・ド花家」
に雑誌を置いてもらい、3か月間ごとに集金に回っていた。
根岸を取材してくれと言われた。
この頃から歩くようになった。
著者は昭和30年代のサウンドスケープと共にお茶屋さんや
風呂桶屋の香りを挙げている。「子規を読むことは、私にとっては
五感の解放であった。」ここから来ている『子規の音』。

本書の「はじめに」で引用されている次の句が気になった。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
著者の森まゆみ氏は瓶の字を「かめ」とフリガナを付けているが、
これは「びん」の間違いだ。
理由は、この短歌は次の一連の短歌の初めの句であるが、前書きに
この「瓶」は机の上にあると断っているからである。
なお、机とは子規が左脚を伸ばせないため、机の一部を切断して
左膝をそこに入れて、左脚を固定させた机のことであろう。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1721300511216342&set=a.1724312250915168.1073741950.100000092300831&type=3&theater

最初のページでずっこけたが、本書は子規の足音を背景と状況込みで
生活空間のうちに描いており、お薦めの一冊となっている。

以下、興味深いトリビアを挙げてみよう。

明治22年11月10日、子規は従弟の藤野古白を巣鴨病院に見舞っている。
巣鴨病院は府立精神病院。現在の小石川高校あたりにあったそうだ。
「恋人岡倉天心と引き離された九鬼男爵夫人波津子(はつこ)が
幽閉されたのもここである。のち世田谷の都立松沢病院に改組。」(77)

明治23(1980)年
子規が東京にいる間に、家は売却され、「湊町4丁目16番地に移転。
川端の家は武家屋敷であったが、今度の家は女二人の小さな家だ。」
川端の家とは?
「子規が生まれて一年も経たずに湊町新町、のちの湊町4丁目1番地の
川沿いの家に移った。北隣は祖父大原観山の家、高浜虚子の生家池内
(いけのうち)家、西一軒おいてとなりが三並良(みなみ・はじめ)の
生家歌原家。」

次の俳句の前書きは秀逸。

 この夏、子規は鎌倉にも行き、雨の中でのどから血の固まりを吐き出す
ことになる。これが子規の命とりとなった病気の最初お兆しであった。
 冬の句、これも音が聞こえそうだ。
 
 明家やところどころに猫の恋

「根津のあとにて」と前書きのあるこの句は、明治21年6月30日を
もって、根津遊郭が深川洲崎に引けたあとのがらんとした町の様子。
やっぱり子規は根津を見にいっていたのだ。(66)

家禄50俵取りの御馬廻可加番だった正岡家は、明治維新のあと
廃藩置県が行われたさい、1200円の家禄奉還金を得た。藩主からの
給料が出なくなった代わりに、版籍奉還を受けた政府が武士に退職
一時金を払ったようなものである。この奉還金を正岡家の後見人たる
叔父の大原恒徳などが上手に管理して、彼らが創立にかかわった松山の
第五十二銀行に貯蓄し、正岡家の暮らしと子規への仕送りを支えた。
もう一人の相談役、f時の漸(すすむ)も帰郷後、第五十二銀行の経営に
関わっている。子規の金遣いの荒さから漱石は「正岡は鐘がある男と
思っていた」という。「処が実際はそうでは無かった。身代を皆食い
つぶしていたのだ」。(101)

明治25(1892)年 『月の都』を出筆していた頃、子規は本郷区
駒込追分町30番地の借家に住んでいた。(111)


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