mixiユーザー(id:28135846)

2017年09月17日01:28

739 view

「音楽」でも「言葉」でもない、それを超えた「何か」を感じる時・・・・センチュリー定期二日目

今日は、「音楽」と「それを超えた何か」と、そのどちらをも感じられた、濃厚な時間でした。

大阪 ザ・シンフォニーホール
センチュリー第219回定期演奏会(2日目)
飯森範親指揮 日本センチュリー交響楽団/バッハアカデミー合唱団
(コンサートマスター 荒井英治)
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番ニ短調(ピアノ:ジョージ・ヴァチナーゼ)
カンチェリ:スティクス(ヴィオラ独奏:丸山奏)

結論から言ってしまえば、スティクスは昨日の方が良かったです。その一方で、コンチェルトは今日の方が断然よかった。不思議なもんですね。

正直、昨日のラフマの出来は、うーん、でした(だから何も書かなかった)。特に1楽章、ソリストのピアノの響きは混濁するし、オケの方はらしくないアンサンブルの綻びを見せ、音像もいまひとつエッジが立たない、という具合。二楽章からよく鳴ってきて、三楽章はそれなりの盛り上がりだったけど、このソリスト、ジョージア出身ということだけで、今回の定期(カンチェリがジョージア出身)に呼ばれたんじゃないか、とまで思わされる出来。

今日の濃厚に熟した演奏を聴くと、昨日はコンディション万全ではなかった、練習も足りてなかった、要するにこなれていなかったのね、と思いましたね。昨日は危なかった1楽章も、きちんと音楽が「立ち上がり」、「内的な緊張」を見せる。絶品は、三楽章のクライマックスの大見得。オケとピアノが絡み合いつつ、とろけるような旋律を嫋嫋と歌い上げるさまは、匂うがごとくの色気を湛えた絶頂の音楽。これぞラフマニノフ、という愉悦。これに身をゆだねるのは、まさに快楽、ですな。

前半が「肉体的」「官能的」な時間であったなら、後半は「精神的」「霊的」な時間。

カンチェリのこの曲。やはり、一種の「ミサ」。奇しくも、今年は、広上さんと、井上さんと、飯森さんが執り行う、まったく趣の異なる三つの「ミサ」に参加したことになる(飯森さんがプレトークで言っておられたが、この曲を日本初演したのは広上さんだとか)。大阪初演、日本で三回目という記念碑的演奏会に、こうやって立ち会えたことを素直に喜びたい。

この曲について、ここで書こうとすると、その行為があまりにも馬鹿げたことに思えてしまう。つまりは、その演奏の場でなければ感じられないものを内包した曲なんですよ。「音楽」も「言葉」も「超えた」ものがそこに現れて、聴いているものがそれを感じる、という意味では、やはりそれは「宗教的体験」と言っていい。

最初から最後まで、ヴィオラが狂言回しのような役割を担い、それに纏わりつくように、オーケストラと合唱が「白日夢」のようなイメージをモザイクのように喚起していく(故郷の風景や、親しい人の名が羅列されるこの部分は、ジョージア語)。最後は、エレキベースと、ドラムセットのように扱われる打楽器群によって、ロックのようなダンスミュージックへと変貌を遂げ(ここは突然英語に言葉が変わる)、このままクライマックスでラスト突入かと思われた瞬間、突然ビオラの単音とベースの特殊奏法(弓で駒の側面を擦る)の呼応で音楽が断たれ、どうなるのかと思っていたら「Joy!」のシャウトで曲が締まる。

飯森さんの解説やパンフレットの作品紹介は、この曲を死後の世界を書いたもの、としているけれど、それはそれとして、ぐすたふくんは、この一連の音楽の進みは「人」の「臨死体験」として感じました。瀕死の人間の脳裏に去来するといわれる、生まれてからこれまでの人生の走馬灯。そして、最後に訪れる脳内麻薬による多幸感(それはドラッグとロックに似るでしょう)、それに続いて、脈が遅くなり、呼吸が浅くなり、そして、末期の息を引き取る、という一連の流れ。それを音楽にしたように感じました。

ただ、そこに喚起されるイメージは圧倒的であり、感動的であり・・・・願わくば、自分もこのように最後には救われたいものだ、と思わせるに十分な内容であって・・・・僕はただただ、この「ミサ」の前に跪き、深く頭を垂れるばかりなのでありました。

司祭飯森と、使徒丸山に、拍手と賛美を。



5 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年09月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930