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2017年05月07日21:21

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大人のプロレス

プロレスが「スポーツではない」と言われても、言い返さなくなったのはいつからだろうか。

今でも彼らと彼らが表現するもの=プロレスには、僕は高いリスペクトを抱く。
だが、勝ち負けを競い「強いか弱いか」で勝敗が決する「スポーツ」と同列にあるものではない、と気付いた時も、それでもまだ僕は「プロレスラー最強伝説」への幻想は、振り払えなかった。
いや、普段もっと大きく取り沙汰される大相撲ですらそうである。

 大相撲も同じと言えば同じであるが、プロレスは興行である。従って、興行的成功を目指して運営されているのは間違いない事なのであり、誰がマッチメイクして誰が成功を収めるのか、が大きく試合結果を左右する事は言うまでもない。彼らを満たしているのは、チケット販売の売上であり、テレビ局からの放映権収入であることは揺るぎのない事実だが、よりチケットが売れより視聴率が上がる内容に、試合構成までもが傾けられていると知った時に、僕は言い返さなくなったのでは無かっただろうか。

 だが、間違いなく彼らは肉体をぶつけ合い、技を掛け合っている。死と隣り合わせのような危険な技をどういう事か“敢えて”受け合っている。ある選手がかける「四の字固め」は選手がギブアップするほど痛いのだろうか。或いは、ある選手がかける「サソリ固め」は特別の存在なのだろうか。僕がこどもの頃に友達と掛け合ったそれらの技は、確かに痛かったし耐えられない苦痛を伴ったが、いずれも「かけられる方の協力」無しには絶対に決まらなかった。極端な話、「スピニングトーホールド」は絶対にギブアップに値する技ではなかったのである。
 それが「真剣勝負」なのかどうか、という議論については「真剣勝負」には違いなかろう。ただ格闘技と同列の「スポーツ」かどうか、と問われるとそれは違うのではないか。場合によっては勝ち負けすら事前に決められているのではないか、と考えざるを得ないのである。

 言い方を変えると「技の掛けられ合い」がプロレスの本質ではなかろうか。そして、試合を決定づける「フィニッシュ」へのプロセスを如何に上手く組み立てるか、或いは如何にかわしていくか。はたまた時間いっぱい相手を苦しめたのちに予定された決着に持って行くか、の「観客への見せ合い」がプロレスの本質ではないか、と考えるようになる。
そこで重要になってくるのが、「必殺技における説得力」であった。少なくとも僕にとっては、「技の説得力」がプロレスの最重要要素になってくるのである。

「技の説得力」ある時期から、僕はこれに固執してプロレスを見るようになるのである。

続く

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