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2016年12月09日07:11

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新解 随喜功徳品第十八−14(P498)

 しかし、それすらもまだ有限なものであり、相対的なものです。なぜならば、その与える功徳は一生で終わってしまうからです。ほんとうに尊い、永遠に生きる布施は、仏の教えを与える「法施」です。これは、その人の一生だけでなく、後世にまでも残る布施ですから、これほどの功徳はないわけです。
 ところがこの人は、天地間のあらゆる生きものにたいしてあらゆる財施を行いつづけたうえに、仏法を説いて阿羅漢果を得させるという「法施」まで与えているのです。それなのに、その功徳すら、五十展転した最後の人が「法華経」の一偈を聞いて「ありがたい」と思ったその功徳とは比べものにならない・・・とあります。ちっと考えると不思議なようですが、そうではありません。これには、つぎのような意味があるのです。
 阿羅漢果を得た・・・すなわちすべての迷いを除きつくしたというのは、小乗の教えの極致でありますが、もしその人が山の中にでも引っこんで、ひとり行い澄ましてしまったのでは、その功徳はそこで止まってしまいます。仏の教えはたいへん尊いものではありますけれども、それを人に説いてその人を向上させ、力と勇気を与え、ひいては世の中全体を引き上げていかなければ、その尊さが十分に発揮できないのです。宗教の専門家が、ただ自分のみ悟ってお寺に引籠っていたり、あるいはお葬(とむら)いの儀式だけを行っていたのでは、仏さまのほんとうのみ心は生かされないからです。
 ところが、「法華経」の教えは、自分だけが救われればそれでいいというのではなく、他を救うという菩薩行が大眼目となっています。ですから「法華経」の一偈でも聞いて「ありがたい」と感激した気持ちは、かならず人を救い、世を救う力となって発展していくのです。


昨日のパーティーは、
結局、どさまわりの演歌歌手と、ストリップのセットだったようです。
10時半からで、10時から店に入っていいということで、10時に入りましたが、
歩いてるところを行きつけのフィリピンさんにみられたようで、
今どこ、まってるメールが来たので、
わたしは、誘ってくれた人には大変申し訳なかったですが、
6000円だけ支払って、始まる前に出てしまいました。
わっはっは
何十年ぶりのストリップも興味はありましたが、
11時までに帰りたいという心が優先でした。
わっはっは
で、そこから、フィリピンの店に行って、
11時に帰りました。
ってな感じの
金曜日です。

今日は夜、支部部長会議、明日は正月用の竹を取りに行きます。
で、夜は宿直です。
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