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2016年05月30日01:03

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瀬戸内海に出る

昨日は、学生時代に中国に行ったと書いた。
だが、その両方が往復を船で行ったり
期間を決めずだらだらとした自由旅行だったので
正確な記録は全く残っていない。

当時使っていたパスポートすら、廃棄して手元にないし
写真も大半は家内に捨てられたりして残っていないのである。
困ったものだ。

それでも、僕の脳内には
べっとりとタールのようにこびり付いた
鮮烈で重たい記憶が残っている。
何より不安に満ちて最初の船旅を一人で行ったのは
今から考えると暴挙そのものである。

大学時代に住んでいた寮から
兵庫県にある実家に移動して一泊
それから、今ではすっかり疎遠になった幼馴染が
わざわざ見送りしてくれるからということで
二人で神戸の船着場に移動した。
正午12時の出航だったのは覚えている。

大学の寮で仲良くなった麻雀仲間から一通のエアメールが届いたのは
夏休みに入って何週間も経過していない頃だった。
近いうちに海外に自由旅行に出たいとは思っていたので
とりあえずパスポートだけは作ろう、と
一緒に作った友人が、一人でさっさと中国に旅立っていったのである。

「スリにあって、手元にお金が数万円しかない。
帰国用の船代か飛行機代を持って西安の勝利飯店に
迎えに来て欲しい。そこでならしばらく滞在できそうだ」

そう書いてあったのである。

2泊3日の洋上の旅で
神戸から天津へ!

そう書けば響きは良いが
実際のところは何が何だか分からないままの珍道中になるのである。
大学生という時間と暇が売るほどある身分で
お金だけが無いからこそ体験できた貴重な時間だった。

フェリーは「燕京号」という2万トンくらいの客船だった。
出航ギリギリのタイミングで乗船すると
背後には別れを惜しんで泣いている中国人の一団がいた。
漫画みたいな光景が繰り広げられていたのである。
その横に、幼馴染(男、183センチのやせ型)が
何だか長年連れ添った世話女房のような雰囲気で
佇んでいて、あちらも不安そうにこちらを見つめて手を振っていた。

後で聞いたのだが、幼馴染は
「ひょっとしたら、これが今生の別れになるのかも」
と思って心の中では泣いていたそうだ(笑)

「燕京号」はリニューアル記念だかなんかで
2泊3日で12000円と破格の値段で乗れたのだ。
帰りに乗った「新鑑真号」が25000円とほぼ倍だったことを考えると
とてもリーズナブルだった。
当時住んでいた寮の1ヶ月の家賃がちょうど12000円だったから
一ヶ月の生活費を諸々込みで70000円以内に抑えようと考えていた僕としては
この燕京号の存在は大変有難かったのである。

船は出航すると、たちまち船内がざわざわし始めた。
結構なことだ。
だが、僕が乗っていた2等船室は一人2畳に満たないマットの上に
カバンと枕と毛布を置いてそこに転がるしかなく
椅子はないので壁にもたれて背もたれにするしかない。

関門海峡を潜るのが夜の12時予定だ、
晩御飯は5時から8時だ、
テレビは日本にいる間だけ、NHKとNHK−BSだ、など
どうでも良いことだけが
たどたどしい日本語でアナウンスされる中で
「下船までにビザを取得していない人に、ビザを発給します」
と物のついでに言うような感じで
とても大事な事を放送したのを
僕は聞き逃さなかった。

そもそも中国領事館に行っておけば
数日かかるかも知れないが
2000円そこいらで取得できたはずのビザを
船で取らざるを得なくなったのは
慌てて渡航することになったからである。
乗船予約すら、電話で行って
乗船当日に窓口で券を購入したのであるから
そもそも中国と中国文化と中国人の性分を信用していない僕にとっては
実に不安である。ああ、不安であった。

こういう時、誰とも群れられないというか
自然には仲良くなれないのが
僕のシャイなところでもあり、警戒心の強いところでもあったが
たまたま船室に残って外に出ない人と
目が合って会話をすることになった。

仮にその人の名前を「染谷さん」と呼ぶ事にしよう。
染谷さんは船に乗り慣れた風で
不安を隠しきれない僕の表情を見抜いていた。
「初めて旅行されるんですね?」
「そちらは初めてではないですね?」
僕がそう切り返すと、二人でワハハと声を出して笑ったのが最初であった。

夜も更けたので
続きはまた明日にしよう。
25年前の記憶にしては、まだ鮮明なのだ。
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