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2015年12月10日21:31

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最近、考えたこと。Part0013

 さてと、話を元に戻して続けますか。前回、「欠史八代」の直前まで行った。なぜ、八代の歴史が封印されたのかもすでに説明した。今日は日本語と「文字」の問題について語ろう。日本において、文語つまり書き言葉が完成したのは今から1100年前の話で、それまでは父祖たちは悪戦苦闘の連続だった。最初の文字は漢字だった。最初は目録や名簿を当て字で書いていたのだろう。アルファベットでとりあえずメモった見たいな感じか。だがそれではどのメモがどのメモなのかすぐ判らなくなってしまう。コンピューターでも良くある事だ。だから、分類のためのタイトルを付けなければならない。そのタイトルを目録にすれば、結局、文章を書くしかないのだ。このタイトルはチャイナ語でしか書きようがなかった。弥生時代の「最初の知識人」たちは言語は日本語、文語はチャイナ語という「変則バイリンガル」だったんだって事。これはけっこう、キツイと思う。現代でも日本人が英語をはじめとする外国語で論文等を発表することはあるが、まず、日本語で書いて英語に翻訳する。それができないのだ。けっきょく、チャイニーズの「知識人」を雇って日本語を教え込んだ上で使うしかなかっただろう。日本最初の「お雇い外人」ってわけだ(笑)。そう考えると1300年前に書かれた日本最初の国定歴史書「日本書紀」が何故日本語ではなくチャイナ語で書かれていたのかが良くわかる。

 ついで、書籍つまり文化の輸入が始まった。最初に輸入されるのはいつの時代も技術書だ。今のエンジニアが英語の専門書かって来るみたいなもんだな。当然、書いてあるのは漢字でチャイナ語。日本語は建国の時点ですでに1万年の歴史を持っている言語。チャイナ語なんぞに変更できるわけない。そこで考え出されたのが「訓読法」だ。平たく言うと「漢文の語順を意味を損なわずに日本語の語順に変換する方法」だ。レ点とか一二点とか、高校の古文で漢文をやったとき習ったあれだ。あれ実はかな文字より古い「日本最初の文化伝達法」だったわけだ。吃驚的事実!ちなみに「訓読法」は英語でもドイツ語でもアラビア語でも使用可能だか、これらの言語はかな文字発生後に導入されたので誰も使用しなかった(笑)。

 これで、一応チャイナ語の本を日本語で読む方法が見つかった。だが、書くのはやっぱりチャイナ語。日本語のROM(リードオンメモリー)時代だな(笑)。ROMってばかりじゃ不満なやつはいつの時代もいるもんだ。当然、弥生時代にもいた(笑)。そして、また当て字に帰った。ただ、その数をすこしづつ限定していった。当て字に使う漢字と使わない漢字とに分けた。そうして出来たのが「万葉仮名」だ。建国から200年、今から1600年前から使われだしたらしい。だた、これには大きな欠陥があった。いまでもある事だが「きしゃのきしゃがきしゃできしゃしてきしゃした」みたいな文章の意味がわからなくなってしまうのだ。日本語は基本的に縄文時代に発生した「家族語」だから同音異義語が異様に多い。ワープロ使うだけで判るでしょ。ちなみに正解は「貴社の記者が汽車で帰社して喜捨した」だ。

 七転八倒、のた打ち回ったご先祖様が編み出した方法が奇想天外!「歌う」ことだった!言語学的には「音韻法」という。いまでも「710(ナットー)食って平城京」「794(ナクヨ)ウグイス平安京」とかやるでしょ。あれだあれ。音韻つまり「節」を付けると言葉は覚えやすくなるのだ。代表的な用法を代表的な歌に託して単語の語法(用法)を限定していったわけだ。同時にこれは古い日本の文化や古語を保存する、アンチ舶来文化の運動でもあっただろう。「日本人は日本人だ!」って(笑)。そうして生まれたのが国民歌集「万葉集」だ。上は天皇から下は「読み人知らず」と言われた庶民まで、神々への祈り(祝詞)へと仮託して、自らの思いを歌い上げていった。完成したのは今から1300年前、全4500首、素だと原稿用紙で350枚ぐらいだけど仔細な解説が入り今では4巻組み文庫本にまとめられている。この試みは以後、勅撰和歌集の編纂をへて宮中行事(宮中歌会始)として今現在まで延々と続いている。ってことで今日はここまで。とほほ。


おまけにみくしー検索かけてみました。

「万葉集」

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