港町・横浜といえば、誰もがこのみなとみらいの風景を思い浮かべるであろう。
実は、この街の歴史はまだ浅い。
元々この地区、JR根岸線桜木町駅の海側は、広大な貨物操車場が広がっていた。海運と陸運を結ぶ貨物線である高島線の一大ターミナルとして、東横浜駅と名乗っていた。
1987年に高島線の東横浜-山下埠頭間(横浜臨港線)が廃止されたのを機に、再開発が始まった。1989年に横浜博覧会が開催され、その翌年から現在我々が知るみなとみらいがつくられたのだ。
現在でも廃止された横浜臨港線の一部が汽車道として、遊歩道となって残っている。廃線歩きなら、バニーを連れて行かねばなるまい。
思い出がフラッシュバックする。
中学高校と電車通学だった私は、毎日のように臨港線の光景を眺めていた。非電化で、DD13が長大編成の貨車を引っ張っていた。
そんななか、一度だけ本物の汽車が走ったのを見た。正確に言うと、乗り、撮った。
1980年6月、横浜開港120周年を記念して、東横浜-山下埠頭を1日3往復のSL列車が走った。使用するSLは、山口線からC581が呼び寄せられた。
これが現在の桜木町の高架下。動く歩道の手前のあたりだ。
![フォト](https://photoservice-imagecluster.img.mixi.jp/v/b2b204ea0970aac2549299ded9aaff9c35cc6ca703/667117d4/photo/picture/20129719_50685278_1small.jpg)
ココからSLは汽車道を走った。
私は幸運にも1号車に乗ることができた。
出発したSL列車は運河を渡って赤レンガ倉庫へ向かう。
乗車した後、マイミクのひげみぞさんが場所を取ってくれた万国橋から運河を渡る列車を撮った。
当時はバックにはドックがひしめいていた。現在はこうだ。
そして列車は倉庫の陰に消えていく
このコンクリート橋と右手の石積みの護岸は今でもそのままだ。
後方の小さいトラス橋は後年ココに移設展示されたものだ。
30年の月日を経て、今バニーとこの道を歩く。
この大きなトラス橋は1907年アメリカ製だった。
万国橋のポイントからは、列車が倉庫街を抜けて新港橋↓
を渡り、高架に差し掛かるところを後追いできた。
現在は、こう。
ニューグランドの新館ができて、マリンタワーは隠れてしまった。
この高架部分も遊歩道として残されている。
その後大桟橋から山下公園前を高架が続いていたが、現在公園前は取り壊されてしまっている。
公園を過ぎ、左折したところが終点の山下埠頭であった。
機関車はここで付け替えを行い、折り返した。
30年の月日はとても長い。街も変わったしボクも変わった。
でも、ホントは今日見たものだって明日には思い出になってしまう。
だからどうしても11歳のバニーと、今一緒にここに来たかった。
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