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2016年04月20日03:02

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精華町界隈巡り5 安楽寺 / 武内神社

 3月27日日曜日は、親友の摂津職(セッツシキ)氏と共に、京都府立大学精華キャンパスを訪れた後、谷峠を越えて精華町中心部方面へ戻り、浄土宗宝国山安楽寺を訪れました。
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 安楽寺は城南西国三十三所観音霊場第20番札所で、千手観世音菩薩像が観音堂に安置されています。本尊は阿弥陀如来坐像〔精華町指定文化財〕です。
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 続いて南方の北稲八間(キタイナヤヅマ)エリアにある武内神社 〔村社〕に向かいました。
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 祭神の武内宿禰(タケノウチノスクネ;A.D.84〜367)は、『日本書紀』等に拠れば、人皇第8代孝元天皇の曾孫で、第12代景行天皇の下で棟梁之臣(トウリョウノオミ)を、第13代成務天皇から第16代仁徳天皇の下で大臣(オオオミ)を務め、283歳まで生きたとされている人物で、葛城(カツラギ)氏・平群(ヘグリ)氏・蘇我氏・紀氏・巨勢(コセ)氏等、大和朝廷で大臣を務めた氏族の共通の先祖とされています。
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 記紀では理想的な忠臣として描かれているため、明治時代から昭和初期にかけて日本銀行券の肖像に頻繁に用いられました。
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 社伝によると、人皇第44代元正天皇の御代に稲蜂間光延連(イナハチマノミツノブノムラジ)がこの地を治めており、光延は養老2(718)年に尊崇する男山八幡宮の様式に習って武内宿禰を祭ったのが当社の起源だとされています。
 その後、文保元(1317)年に男山八幡宮より親神の八幡大神も勧請(カンジョウ)されました。室町時代には北稲八間荘の鎮守となり、嘉吉元(1441)年に著された『興福寺官務牒疏』(コウフクジカンムチョウソ)にも名が見えます。
 なお、神社の西側にある城山は、守護代古市澄胤(フルイチチョウイン)に対して徹底抗戦を継続していた山城国一揆衆が明応3(1494)年に玉砕した稲屋妻城の跡地に比定されています。
 当社は、江戸時代には北稲八間村の鎮守として信仰を集め、壮麗な四脚楼門もありましたが、明治28(1895)年に倒壊してしまいました。
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 拝殿です。土間になっている馬道上(中央の通路部分)だけを切妻屋根に切り上げた珍しい割拝殿構造になっています。
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 本殿〔京都府指定登録文化財〕です。
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 寛文4(1664)年の再建ですが、文保2(1318)年に建立された初代本殿の鎌倉風の古式を留めた様式になっており、鎌倉様の木鼻や桃山様の蟇股が設けられています。
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 切妻照屋根平入り単層一間社流造で、桁行一間・梁行一間。。建物の正面に向拝が付いています。平成2(1990)年に檜皮葺屋根の葺替、平成16(2004)年に本殿建物の彩色保存修理が実施され、本殿壁画も修復されて、外壁画や脇障子などに寛文5(1665)年に描かれた当時の絵が復元されました。
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 当社は文保2年の本殿建立以来の21枚の時系列的な棟札〔京都府指定登録文化財〕がほぼ完全に保存されており、神社建物の経緯のみならず北稲八間における村落の変遷が良く判る貴重な史料になっています。嘉永7(1854)年の黒船来航に際する異国調伏の祈禱札も1点あります。また、神社の森一帯は京都府決定文化財環境保全地区となっています。
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 当社の紹介動画です。

 境内では黄梅(オウバイ;Jasminum nudiflorum)が咲き乱れていました。
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 シソ目モクセイ科の植物で、バラ目バラ科の梅とは分類系統が異なります。
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 続いて南方の真言宗智山派和光山観音寺に赴きました。延宝4(1676)年の創建で、当時はやや北方の現北稲集会所の場所にありましたが、明治4(1871)年に廃仏毀釈で廃寺となった岡本寺の故地である現在地に移りました。従って、仏像等は両寺のものが混在しています。
 本尊十一面観音立像〔精華町指定文化財〕は10世紀末の作で、厨子の内側に墨書があるほか、台座敷茄子にも墨書銘があります。
 岡本寺本尊だったのは12世紀作の菩薩形立像です。
 江戸時代には、観音寺が南山城三十三所観音霊場の第13番札所、岡本寺が第14番札所でしたが、現在は観音寺が岡本寺の名跡で第19番札所になっています。
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 このあたりで、お昼になって来たので、食事処を探しながらJR祝園(ホウソノ)・近鉄新祝園駅方面へ向かいました。
 精華町役場です。
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 精華町章です。昭和46(1971)年に制定され、「せ」の字を図案化したものです。
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 精華町では「京町セイカ」を広報キャラクターとしています。
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 祝園駅近くには野見宿禰(ノミノスクネ)塚があります。古来、ここは野見宿禰の墓と伝えられ、円墳、若しくは前方後円墳の後円部のみが残った墳丘長約100m・高さ約12mの古墳だと伝えられて来ました。
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 野見宿禰は、『日本書紀』等に拠れば出雲国造(イゾモクニノミヤツコ)の子で、人皇第11代垂仁天皇〔位;29B.C.〜A.D.70〕に召し出されて相撲チャンピオンとなり、埴輪(ハニワ)の制度を始めて土師臣(ハジノオミ)の祖となったとされる人物です。精華町に隣接する木津川市に土師氏の居留地だと伝えられる吐師(ハゼ)と言う地名があるので、野見宿禰の墓の伝承が生じたものと推定されています。
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 江戸時代には四宮神社が建てられていましたが、明治9(1876)年に近くの稲植(イナウエ)神社に移されました。そして、大正時代に京都の織物商三宅安兵衛(1842〜1920)の遺訓で息子の三宅清治郎(1872〜1940)が「傳野見宿禰塚」の石碑を建てました。三宅清治郎は京都府南部地方の史跡に大量の父の遺志碑を建てた事で知られる人物です。
 ところが、昭和61(1986)年に精華町教育委員会が実施した試掘調査によると、古墳の埋葬施設や葺石・埴輪等の外表施設、若しくはそれと関連する遺構は全く検出されず、頂上部のほぼ中央で室町時代の土坑一基を検出した他、土師器・瓦器等が出土したのみでした。また、工学的な現地調査の結果、この丸山は単なる自然丘であって、古墳では無い事が明らかになってしまったのでした…。
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《続く》

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