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Meditation 『 瞑想 』コミュの 『 自灯明 』

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『 自灯明 』とは、お釈迦様が 入滅 ( 死亡 ) される直前の説法において
 出てくる言葉で、パーリ長部経典 「 大般涅槃経 」 の中に説かれています。

「 自らを 灯火 ( ともしび ) とし、
  自らを 拠り所 ( よりどころ ) とせよ 」
 
暗闇の中で 一本のロウソクの灯りを 拠り所とするように
迷いと 苦しみに満ちたこの世界を
自分自身を拠り所として 歩いて行きなさい

 ・・・と説かれたのでした。


 自らを 灯火とし、自らを拠り所とせよ

 自己の拠り所は 自己のみである

 他に いかなる拠り所もない

 自らの心を 正しく調えたとき

 本当の拠り所を 手に入れることができる


 これが、お釈迦様の教えの根本なのだと思います。


私たちが、求め、探しているものは、
 心の外に向かって求めても 見つかることはありません。

なぜなら 自分の心が
 自分の心を求めているのであり・・・

究極の拠り所は、何処かのかなたではなく
 自らの心の中に 求めなければならないのです。


お釈迦様は、ブッダガヤの菩提樹の下で、
 暁の明星をご覧になったとき 悟りを開いたといわれています。

悟りとは 「 真実の自己 」 に目覚めることであり、
 真実の自己に 目覚めた人のことを ” 覚者 ” と呼ぶのです。


この 真実の自己こそが、
 始めなきの過去よりすべての人が探し求めてきたものであり、

真実の自己に 目覚めることによって、はじめて 私たちは、
 家に帰り着いたような 安らぎを得ることができるのかもしれません。


コメント(14)


 一休さんの歌に、こんなものがあります。

「 我のみか 釈迦も 達磨も 阿羅漢(あらかん)も、此の君ゆえに 身をやつしけり 」

 「 此の君 」 とは、” 真実の自己 ” のことです。

 此の君に お目にかかり、

 此の君を 自分のものとし、

 此の君を伝えていくために、

釈迦も 達磨も 阿羅漢も、ご苦労されたのだ。

 ・・・という意味です・・・

いつも沢山の大切なお話を頂き、ありがとうございます!

相変わらず瞑想をゆっくり出来るような状況が作れない生活をしています涙

 このごろ少し仕事に余裕ができ、否定的な思いが沸いたと気づいたらすぐに

分析するように努力していますあせあせ(飛び散る汗)それが自分のどんな思いを反映しているのか

理解しすべてをヨシヨシとして感謝する。練習の成果で短時間でできるようになったのです。

そうしたら、意外と頼れる自分を発見し仲良しになってきたような気がしていまするんるん

多分周囲から見れば、口数がかなり減ってしまって無口になったように見えていると思いますが

本人は気持ちが少し明るくなったような、見える景色が明るくなったような、自分の心が

少し広くなってスッキリしてきたようでとても幸せを感じます目がハート

 まだまだですが、これからも宜しくお願いいたします芽
めいさん!

それは、素晴らしいことですね!ぴかぴか(新しい)

” 余裕を持って 日々生活できている ” ということに気付いていること・・・

それは、物事を 意識的に 客観視できているということなのです。

分析が出来るのも、想いに偏らない冷静な目で
 物事を、観られているからではないでしょうか・・・

それを通して、自分とはなにか? 思考なのか? 感覚なのか? 意識なのか?
 それは、実在なのか? 思い込みなのか? などが 見えてくるようになります。

 心は、うつろいやすく、繊細で 微弱なものです・・・

それを 正確に捉え、それに 惑わされなければ、
 それとは違う なにかが 流れていることに気が付きます。

『 私が 』 という思考・意識・感覚を理解してゆくことで、
『すべて ( 統べて ) 』 というものを知覚することができるのです。

それは、遠い何処かにあるのではなく、
 誰もが 自分の中に 持っているものなのですね〜!

 これからが、楽しみですね!ウインクぴかぴか(新しい)

シンプルであるが故に難しいです

時に修羅な自分に喰われそうになりますが

縁ある方々に助けられ、どうにか歩んでいます


ありがとうございます
うにやんさん!

簡単なことほど、難しいものですね〜冷や汗あせあせ(飛び散る汗)

 『 自灯明 ・ 法灯明 』 というように・・・

” 法をみるものは 我をみる。 我をみるものは 法をみる ”
 ・・・という言葉があります。

自らを 灯火 ( ともしび ) とし、
  自らを 拠り所 ( よりどころ ) とするならば、こんな方法があるよ!

 ・・・ということなんです・・・

別に、仏教に帰依しなければならない。 ということではありません。

 自分自身の ” 真実の自己 ” に帰依することが、大切なことなんです。

前回のトピックに書かせていただいた 『 十牛図 』 の第二図は、
 自分自身では なかなか見つからない ” 真実の自己 ” を
 探す手がかりとして、 【 法 】 という手段・方法に出会うという場面なんです。

うにやんさんは、助けてくれる縁ある方々が居て、有り難いですね〜!

 その ” 有り難いという 感謝の気持ち ” が、すでに 【 法 】 なのです。


 

中国古代の道家思想の術語に、
 無為 ( むい ) という言葉があります。

処世のうえで ことさらな作為をしないこと、
 自然に あるがままのふるまいでいる。 という意味です。

世事にとらわれ 私欲にひかれて、人間的なこざかしい知恵を巡らすところに、
かえって 人間の不幸が生まれると考え、現象の奥にある根源的な立場に立ち返って、
その絶対的な理法性に 拠り従い、人間的な さかしらを捨てた
自然なあり方に従うことによって、平安が得られるといいます。

「 無為であれば すべてが成し遂げられる 」

「 為政者が 無為であれば 民は自ずからに治まる 」

 ・・・などといわれています・・・

「 無為を為す 」という言葉もあるように・・・

なにもしないことではなく、
 ことさら なしわざの跡を残さないあり方を することなのです。

「 自然 」 「 無知 」 「 無欲 」 などの語と連用され、
 人間を超えた 「 道 」 や 「 天 」 の働きとして、
 無私の公的な性格において 理想化して説かれています。



 自らの心を 正しく調えたとき

 本当の拠り所を 手に入れることができる

このことが、
 ” 法をみるものは 我をみる。 我をみるものは 法をみる ” ということです。

法とは、自らの心を正しく調える為にある 手段であり、方法であり、智慧なのです。

普段、” 有為 ” である私達は、瞑想をすることで、
 静寂の中に ” 無為である私 ” と出会います。

とても、純粋で 無垢な 自分自身と出会うのです。

その時、” 有為 ” である自分と向き合ってしまうと、
 戸惑い、困惑し、否定や 拒絶といった 分裂が生じてきます。

ですから、日頃から 純粋になる練習が必要なのです。

 純粋さとは、汚れをじっと見つめ得る力のことなのです。

嘘偽りのないこと、正直であること、分け隔てをしないこと・・・

自分自身の本心が、自然と同じように 無為になれれば、
 そこは 拠り所として、申し分ない処ではないのでしょうか・・・ 



『 真理は、決して心地の良いものではない
 始めのうち、それはきわめて不安なものだ 』

 お釈迦様は、このように説かれたそうです。


「 嘘は 最初は甘く、最後は 苦い
  そして 真理は 最初は苦く、最後は 甘い 」

 真理を見るということは、苦いものですが、
  真理そのものが 苦いのではありません。

しかし、私たちは あまりにも長く嘘の中に生きているために
 真理が訪れたときに 自分の嘘が粉々にくだかれ、それが痛むのです。

 ” ありのまま ” に観る純粋さとは、
  汚れをじっと見つめうる力のことなのです。
 

 真理は 妥協することがない

 真理が 訪れるとき、全ての嘘は 粉々になるのが定めだ

 そのため 最初は混沌となるが

 その混沌の中から 智慧が生まれる

 その混沌から 虚空が生まれる


 無為 ( むい )について、老子は、次のように説いています。


甚だしいこと、強いてなすことは 無為に反す。

世の中で 美しいとされているもの、それは 醜いものへも反転してしまう。

世の中で 善とされているもの、それは 不善へも反転してしまう。

なぜなら、高いものもより 低いものとの 比較に過ぎない。

長いものも より短いものとの関係に過ぎない。

前方と 後方は 互いの判断だ。

難と 易も 互いの基準だ。

また、存在と 非存在は 相互いに現れ、
 和音と 不協和音とも 音楽的響きとなる。


物事は 対立する二つの局面があるが それは転化してしまうものだ。

互いに 相手によって成り立っている。

これが 事象の実体である。

強いてなすことは 片寄ったことで 転換する事象の下では 返って望みと
 反対の結果を招く行為となることから、無理なことはしない無為が主張される。



” 真実の自己 ” を見つけるのであれば、
 善悪・ 白黒・ 陰陽 という主観から離れることです。

悪いものを見て、「 自分は、出来ている 」と感じるのも、
善いものを見て、「 自分は、まだまだだな 」と感じるのも、主観です。

中身が変ったわけではなく、
 同じものから、違うものを見ただけなのです。

主観とは、「 思惟 ( しい ) するもの 」という意味があります。

 ” 虚ろ ” になること・・・空っぽになること・・・

 それが、主観から離れてゆくことになります。

その逆の言葉に、客観というものがあります。

客観こそが 実在であり、
 客観の存在が 主観における普遍妥当性を可能にするといえます。

 善悪・ 白黒・ 陰陽 を分け隔てしないこと・・・

 すべてを認め、 受け止め、 受け入れること・・・

 否定や 拒絶をして、分裂を 起こさないようにすること・・・

「 私は、正しい 」 「 あの人が、間違っている 」・・・

そんな、自分勝手な主観的な考え方では、
 いつまでも、なにも変ることはありません。

自分自身の綺麗なところだけを見つめても、
 汚いところだけを見つめても、きっと、なにも変ることはないでしょう・・・

自分を見つめ、自分にも綺麗なところもあれば、汚いところもあるのだから、
 他の人達も同じように 綺麗なところもあるし、汚いところもあって あたりまえだ。

 それを 理解してゆくことが大切なのです。

分け隔てをしていることに気付き、
 それを理解し、分け隔てを少しずつなくしてゆく・・・

 それが、認める、受け止める、受け入れるという勇気と智慧なのです。

 それこそが、意識的な大変換を起こす智慧なのです。


 ダンマパダの一節に、このようなものがあります。

明らかな知慧の無い人には 精神の安定統一が無い。

精神の安定統一していない人には 明らかな知慧が無い。

精神の安定統一と 明らかな知慧とが
 そなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。

ニルヴァーナとは、炎が消えた状態を表します。

『 私が・ 私は 』 という想い ( 思惟 )が無くなった状態のことです。

それは、一己とではなく、一全体という物事の見方なのです。


 智慧とは なんでしょうか?

智慧とは、宇宙・自然の原秩序を洞察することによって、
 人間の生活を 秩序づける 精神的能力を意味しています。

また、古代ギリシア思想では 智慧とは、
 「 ものを あるがままの相において眺める純粋の知のこと 」とされています。

無上・無比・無等という言葉があるように、
 そこには、上も下もなく、差別や区別もなく、関わりの中に存在するものなのです。

その関わりを知ること・・・
 関わりの中での自分の位置関係を知ること、それが智慧なのです。

その関わりに従事していることを知れば、
 そこには、一己ではなく、一全体である 『 真実の自己 』 が、存在しています。


ひろみちさま

はじめまして。
たくさんの素敵な言葉ありがとうございますぴかぴか(新しい)

自分を見つめて受け止めたいと思います。

客観グッド(上向き矢印)ぴかぴか(新しい)素敵だなと思いましたわーい(嬉しい顔)今の私にピッタリでするんるん

ありがとうございますぴかぴか(新しい)

うめ
うめさん!

 ありがとうございます!わーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)

客観的な目線から、主観的なところを 観察ること・・・

想いのない世界から、想いの世界を 眺めること・・・

無為から、有為を 見つめること・・・


 それが 出来るようになるには、

『 私を 』 中心とした主観的な見方になっていること、

自分自身の想いによって、
 苦悩・葛藤・迷いが生じていること、

無理に、なにかを成そうとしてしまっていること、

 そんなところに、気付かなければなりません。

そんな 騒がしい状態を、荒れた心では見ることが出来ません。

ですから、『止まる ( 心を鎮める ) 』 こと、
 『 観る ( 偏ることなく冷静に観察する ) 』 ことが、大切なんですね!

そこから生まれるものが、『 定 ( 安定した処 ) 』 というわけなんです。

 

” 無為 ” になるということは、
 思考 ・ 意識 ・ 知性から 離れてゆくことです・・・

すると、感覚から 離れてゆくことができます。

「 〜したい 」 「 〜しなければならない 」 「 〜あるべきだ 」

 そんなものから離れてゆくことです・・・

 そうしてしまっていることに気付き、速やかに止めることです。

それには、「 いま此処 」 という実在を 正確に捉える必要があります。

瞑想している時の
 「 いま此処 」 という瞬間には、過去も 未来も ありません。

そこに 生じている不安や 恐怖は、過去であり、未来のものなのです。

瞑想をする前に、その場所を しっかりと把握していなければなりません。


 瞑想とは、実在を、よりハッキリとさせる為にあるのです。

けっして、妄想や 空想であってはならないのです・・・

 実在の中にこそ、「 真実の自己 」 が存在しているのです。

 思考 ・ 意識 ・ 知性 ・ 感覚から 離れたとき・・・

融合・調和の中から 「 真実の自己 」 を見つけることができます。

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