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小説・評論:孤城忍太郎の世界コミュの議論に於ける『絶對』に就いて

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 『絶對』といふ言葉を使つても良い場合は、唯一、

 「人は絶對死ぬ」

 といふ時だけであると思はれる。


 にも拘はらず、議論の時に人の意見を否定する場合、
 
「絶對といふ事は、絶對ない」

 といふ非論理的な事をいふ人があり、而(しか)も、さう述べた本人は、極めて論理的に會話を進めてゐる、と思つてゐる事の方が多いから厄介である。


 では、何故、

 「絶對ない、といふ事は絶對ない」

 といふ陳述が非論理的であるかといふに、その否定の言葉は、

 「そんな事は絶對ない」

 といふ相手の問ひに對して答へられた台詞(せりふ)であつて、

「絶對」

 を否定する爲に「絶對」を使用したのでは、論を證明したとは言へず、その爲には、さうでないといふ事を違ふ言葉で論理的に述べなければ、

 「馬鹿は馬鹿だ」

 といふのと變らないからで、かういふ人物は往々にして、

 「私の經驗からも正しい」

 といふ經驗主義者である事が多い。


 これと似たやうな話を、田中実著『科学のパズル・第一集 光文社』といふ本で讀んだ事がある。それは、

 「私は生まれた時から、どうも皆さんが〈赤〉と呼んでいる色を〈緑〉に感じ、〈緑〉と呼んでいる色を〈赤〉に感じているようなのですが、しかし、私がポストの絵を描く時、私の目にポストは〈緑〉に見えていても、いざクレヨンを手に取るとなると、クレヨンの〈赤〉も〈緑〉に見える筈だから、その〈緑〉に見えるクレヨン、詰りは〈赤〉のクレヨンを取り上げて塗ってしまっているので、結局、赤いポストはいつも赤く塗られているものですから、私が全く正常にしか周囲には見えないのです。果して私は正常なのか異常なのか。それを確かめるにはどうしたらよいのでしょう」

 といふもので、この問題の答へは、

 「確かめようがない」

 といふ事である。但し、その文中には、

 「問題のような人物が他人に干渉しなければ」

 と斷つてあるし、又、このやうに、

 「精神に於ける正常か異常か」

 といふ場合ならば、さうかも知れないが、

 「言葉に於いて正しい認識がなされてゐるか」

 そして、

 「正しい言語を身につける事は出來るか」

 といふ問題ならば、その答へも當然違つて來るやうに思はれるのだが、いづれにしてもこの問題と先の問題とは、その人物が他人に干渉したか、しなかつたかといふ違ひだけで、内容としてはそれ程大きな差はないやうに思はれる。


 これと同じで、

 「理窟ぢやあない」

 といふ言葉も、その發せられた内容が、どれ程理窟に支配されてゐる事かを知らなければならない。
 その證據(しようこ)に、「理窟」とは岩波国語辞典によれば、

 『物事の道筋』

 とあるやうに、どうしてさうではないかを、『道筋』を通して諒解する事が出来たから、さういふ否定の言葉となつたのである。
 從つて、

 「理窟ぢやあない」

 といふ言葉は、正確に言ふならば、

 「君のいふやうな理窟ではなく、かういふ理窟によつてゐるのだ」

 と證明する事である筈なのだが、殘念ながら、さうした人物には他人の理窟を否定は出來ても、自らの理窟を説明する能力には缺(か)けてゐる事の方が多いに過ぎない、と言へるだらう。


 話を本題に戻せば、「絶對」には二種類あつて、

 『相對との比較に於いての「絶對」』

 といふ場合と、

 『相對を認識した上で、迷はなくても良くなつた状態の「絶對」』

 とがある。
 前者の「絶對」は、個人の思ひ込みによるもので、謂(い)はば、

 「擬似絶對」

 と呼んだ方が正確である。
 後者の場合は、それからいふと、

 「純粹絶對」

 と呼ぶ事が出來るだらう。


 この考へは、昔、音響機器(ステレオ)に「四チヤンネル」なるものが流行(はや)つた時期があつて、それには製造會社(メエカア)による各社獨自の方式(システム)があつたのと、日本の住宅事情の爲、終(つひ)に一般には普及される事はなかつたのだが、その中にも「2トラツク」しかないのに、増幅器(アンプ)を利用して「四トラツク」で再生出來るやうにした、

 「擬似四チヤンネル」と、

 完全に「4トラツク」を確保して聽(き)く事の出來る、

 「純粹四チヤンネル(單に「四チヤンネル」と言つてゐたと思ふ)」

 とがあり、それが暗示(ヒント)になつてゐるやうに思はれるが、

 「擬似四チヤンネル」

 の方は、こんにちでは一部の方式を利用して、「サラウンド」として活用されてゐる。


 所で、かうした「絶對」の内の、

 「擬似絶對」

 を導き出すのは、如何なる立場の人でも容易で、單に、

 「絶對だから絶對なのだ」

 と言へば濟み、その證明は必要としないし、寧ろ、證據を見ようとしても、提出不可能であるから見る事は出來ない。
 若しあつたとすれば、それは「絶對」ではなかつた事を曝露する事になつてしまふだらう。


 一方の、

 「純粹絶對」

 は「相對」の世界では何も證明出來ないといふ事――例へば、月と地球に人がゐて、お互ひが近づいてゐたとすると、そのどちらが近づいてゐるかは、月と地球にゐる人には解りやうがない(勿論)近づいてゐるといふ事だけは認識出來る)――といふ事を理解しなければならず、更に、「第三の目」を自己の中に形成しなければ、手にする事が出來ないものである。


 「第三の目」とは、

 「私」を一人稱の世界とし、

 「貴方」を二人稱の世界とするならば、これらの二つで、

 「相對」といふ事が言へ、この中に、

 「彼」といふ三人稱の世界を含めた總てを、個人の中に包括するといふ意味であるから、當然、それ以前に、

 「第一の目(これは自我の目覺めで大抵の人が持つてゐる)」

 や、

 「第二の目(他人を思ひ遣る氣持から發生する)」

 を手に入れてゐなければ成立し得ないものである。


 これを孤城忍太郎流にいふと、

 ― 二重人格者は可哀さうである。
  私などは少なくとも百人以上の人格を兼備へてゐるから……。
   「(異端者に非ざる異端者)より」

 といふ事になるのだが、では、

 「第三の目」

 を手に入れるにはどうすれば善(い)いのかといふと、示唆(ヒント)としては、

 「囘歸」

 を理解しなければならないといふ事で、その爲にはヘルマン・ヘツセがロマン・ロウランに捧げた、

 『シツダルタ』

 といふ小説を讀むのが近道だらう。
 これは文庫本でも出版されてゐるから、簡単に手にする事が出來る。


 さうして、

 「第三の目」

 を手に入れる事が出來たら、もう用はないと言つて、以前の、

 「第一の目・第二の目」

 を輕視する事が「絶對」にあつてはならない。
 總てを包括して、自身の中に持つてゐなければならないのである。

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