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セルフラーニングコミュのフレネ教育を語り合う

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 「フレネ教育」について、語り合いましょう。

 この「セルフラーニング」のコミュに、「フレネ教育」という用語が何度か出てきました。
 ぼくの知らない用語でした。

 少しだけ勉強してみました。
 岩狭蔵之助著「子どもをのばす自由教室―新しい教育をめざして (講談社現代新書)」を読んだのです。
<a href="
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061456814?ie=UTF8&tag=selfyoji-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4061456814

 でも、まだまだよく分かりません。奥が深いです。それでも、ここで語り合えば分かってくるかもしれないと思い、始めることにしました。走りながら考えようというものです。

 よく知っている方もいらっしゃるようですから、いろいろ教えていただきたいです。

 さて、切り口として、最近のぼくの経験を書きます。

 ぼくの飲み友Yさんの息子Mくん。もう3人の父親です。30歳前でしょうか。Yさんは、居酒屋をしています。
 Mくんは、小学生のときに、セルフ塾にいました。とてもいい子ではあるのですが、勉強はまったくだめでした。漢字の覚えも悪く、算数もできませんでした。1年ほどでやめました。高校は中退したと聞いています。

 Yさんのやっている居酒屋で、これまでもよくあい、簡単なあいさつはしていました。Yさんから、Mくんがオートバイに夢中で、分解したり、組み立てたり、そして、レースに出場したりしているという話は聞いていました。

 先日、彼とゆっくり話す機会がありました。
 「オートバイのレースはまだやっているの?」と水を向けると、目を輝かせて話し始めました。

 オートバイは大好きで、オートバイについてなら何でも知っているという感じです。そして分からないことがあってもオートバイのことなら、勉強もしたようです。エンジンが動く原理なども、よく分かっているとのこと。物理の勉強もしたことになりますね。

 いまは、自分でレースに出ることはせずに子どもにさせているとのこと。子どもレースというのもあるようです。
 子どももオートバイが大好きで、それについてはよく勉強もするようです。オートバイを通して、子どもの教育をしているそうです。

 オートバイとどういう関係にあるのかは分からないのですが、
「Yojiさん、円周率というのは、どうやって求めるの?」という質問が出ました。
「円周率を求める式はないと思うよ。」と言って、内接、外接多角形を利用して求める話をすると、目を輝かせて聞いていました。

 オートバイに関連することなら、何でも知ろうという姿勢を感じました。

 さて、フレネ教育に戻ります。
 フレネ教育は、子どもの関心、興味から出発する、というもののようです。子ども中心です。

 Mくんのように、関心のあることなら学ぶ意欲はとても起こります。それを中心に学習するという教育です。

 「サドベリー・バレー校について語りましょう 」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=37442382&comm_id=1037793
 というトピックで、以前、意見交換をしました。

 子ども中心ということでは、フレネとサドベリーは同じです。

 ただ、サドベリーは、自由放任な感じを受けました。それに対して、フレネは教師がもっと教育に入っています。それについては後で本からの引用を交えて書きます。きょうのところはここまでで、何かご意見があったら、書き込んでください。

コメント(76)

少し整理の必要を感じています。

フレネ教育という時、

1 バンスの実際にフレネが始めた私立の学校
2 その後、その学校の危機に際し、国立の小学校になった

日本でフレネ教育というと、ほとんどこの流れだと思います。

3 そして、日本ではほとんど紹介されることがなかった、
フランスとかベルギーで、フレネの教育に共感し、
フレネの教育を研究して自分達もそのような教育をして
きた学校がいくつかある。それらの学校は学校間交流で
1990年当時はファックスでの交流網があって、私も
日本から参加していた。私が初めてファックスを送った
フランスの学校がエゼネーという田舎の学校でした。
その仲間の先生達が協同組合を作っていて、色々と研究
を共有していて、私にも時々の資料を送ってくれていた。

だから、
>「フレネ教育って,こんなものだよ」というのを示して欲しいです。
というのが、非常に難しくなってしまうのです。

1998年には自由の森でこんなのもあったし、
http://www.asahi-net.or.jp/~PV8M-SMZ/archieve/frene_report.htm
その自由の森学園を追われた、今のジャパンフレネの木幡さん、
http://www.jfreinet.com/

そして、
http://www.amazon.co.jp/授業からの解放?フレネ教育運動の試み-村田-栄一/dp/4876720304/ref=sr_1_9?ie=UTF8&s=books&qid=1256619654&sr=8-9

あと、誠実に紹介しようとしてくれた神戸の宮ヶ谷徳三さん、
フレネ教育に関してはいっぱいあった資料もほとんど捨てて
しまったので、心に残っているだけしか紹介できません。
別の言い方をすると、
「フレネ教育」という教育が提案されたのではなく、
後世、人々がフレネのやったことから「フレネ教育」
として研究し、自分達にできることで実践を続けて
きたということでしょうか。

フランスでは、未だに、「新教育」という言葉で
取り組んでいるのに驚いたのも2007年の事でした。
岩狭蔵之助著「子どもをのばす自由教室?新しい教育をめざして (講談社現代新書)」
は、1983年の2月発行みたいです。
私が仕事を始めたのが1978年ですから、
発行されてすぐの頃に、買って読んだのだと思います。

その前に、斎藤喜博さんの教授学研究の5巻あたりで波多野完治さんが
日本に初めて紹介してくれたと思います。しかし、斎藤喜博さん関係は
すべて若い人に託してあげてしまって、今は家にない。
 フレネ教育について,ぼくは1冊の本を読んだだけですが,ぼく以上に知らない人のために

 フレネ教育のフレネとは,フランスの教育者セレスティン・フレネのことです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%8D

 さて,フレネ教育では,「生活」ととても重視しているようです。
「子どもをのばす自由教室」から引用します。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※ 

彼らの興味や関心、それを表現しようとする心の動きは、一人ひとり微妙に違っているのに、それらがとるに足りないことのように思われるのは、そこから学習を出発させるのではなく、生活とはかけ離れた教科書の課題から、学習を出発させようとするからである。ベルの合図と同時に、あふれる子どもの活力は、教室の入り口でシャットアウトされ、その時から教師の説明と、子どもの反復練習が、くり返ミれるのである。

私たちは学校が連結すべき子どもの生活とは何か、子どもの生活を、どのようにして教室にもちこみ、教育活動に結びつけていくかを、明らかにする必要がある。問題をわかりやすくするために、生活と教育を結びつけることを、指向した実践を調べてみよう。

子どもや地域の人びとの生活や労働、遊び、詩や創作、自然や社会を調べた報告などである。

私たちは、教科という聖域の前では、心ならずも生活と教育を、分離してしまうのである。

フレネは戦前戦後を通じ、一貫して生活と教育を結びつけることを追求し、そのための多くの技術を開発してきた。

彼はやる気を失くした子どもたちのために、午後の時間を使って、散歩教室をはじめた。村の小川や野原を歩いたり、畑や職人たちの仕事場を見てまわった。そのとき子どもたちは、好奇心と活力にあふれ、教師と親しげに語り合った。彼らは教室に戻ると、散歩から持ち帰った収穫物を見せあったり、見てきたことを話し合った。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※ 

 以下は,ぼくの解釈です。

 ここに書かれている「生活」とは,「体験」のようにぼくは思います。実際に,見て,聞いて,触って,嗅いで,味わって,という五感を使った実体験でしょうか。

 文字からだと死んだ知識になる,それを実際に体験する中から学んでいく,ということでしょうか。

 百聞は一見にしかず,でしょうね。実際に体験したことは,生き生きとした知識になります。それをフレネでは重視しているのだろうと,思います。

 散歩をすると,花や草を見つけます。その名前を覚える。そして,めしべとおしべを確認する。めしべって何だろう,おしべって何のためにあるのだろう,調べてみよう,ということになるかもしれません。

 料理をする。分量を量ります。体積の勉強になります。材料を買うときには,算数の勉強にもなります。

 そういう体験をすることを生活して,それを教育と結びつけていく。それを重視したのだろうとぼくは思いました。
すくなくともほんとのフレネ教育を知りたいなら、
ここで問題にしている本ではなく、神戸の宮ヶ谷徳三さん
の明治図書からでていた本の方が丁寧で親切だと私は思い
ます。でも、たぶんもう絶版だろうな。
え、宮ヶ谷徳三さん 、2005年に亡くなっていた。
私が感銘を受けたのは、この2冊だったかな。

フレネ『手仕事を学校へ』(黎明書房、1980)
フレネ『仕事の教育』(訳著、明治図書、1986)

残念ながら、今はもう手元にはないので詳しい紹介ができない。
フレネ『手仕事を学校へ』
副題に
人民の学校のために

というのがありました。
> Yojiさん
Wikipediaのその記事は、フレネをろくに知らない人がよく調べずに書いたものと思われます。
彼の名は「セレスタン・フレネ」です。inを英語風にインと読むのなら、ショパンだってショピンです。
ま、ドイツ語でも、アメリカ帰りの人だとフロイトのことをフロイドといったりしますけど。

私からは、同じ若狭氏の著者で
『子どもと学級』(東京大学出版会)
『フレネ教育 子どものしごと』(青木書店)
をお薦めします。どちらも様子がよく描かれていますし、後者の序章はとても示唆的です。
Yojiさん、
>犬を知らない人に,ねことの比較で説明するといいですね。
>「ねこよりもたいていは大きいね。小さなのもいるけど。ねこは木に登るけど,犬は>登ることはできないんだよ。」のように。

しかし、ここで、犬を知らないと同時に猫も知らない人に
猫で犬を説く道理はどこになるのでしょうか?

フレネ教育にも、サドバリーにも無知な者に
フレネ教育をサドベリーを使って説明しよう
というのは、どう考えたって不思議だと思った
までです。
Yojiさん、少し教えてほしいのですが、
「学ばない自由」という視点はどこからでてくるのでしょうか?
少なくとも学習者ではないですよね?
では、教員の側からの視点でしょうか?
しかし、それなら、「学ばせない自由」ということになり、
「学ばない自由」とはならないでしょうね。

すみません、揚げ足を取っているのではなく、
サドバリーを信奉している日本人がそこらを
どう理解しているのか興味があるのです。
Yujiさんがサドバリーについてどれだけ理解
されているか分からないのですが、この事は
正直,聞いてみたい事だったのです。
40 Yojiさん
これも揚げ足をとるのではないのですが、
> そういう体験をすることを生活して,それを教育と結びつけていく。それを重視>したのだろうとぼくは思いました。

それだけなら、何もフレネ教育と言わなくても済むと思うのですが、
如何でしょうか?
フレネのフレネらしい所は具体的にどう取り組んでいったか、
その方法と内容にフレネの独自性があるのだと、私は思って
いますが、、、、。
そう言う意味で若狭さんの本は、フレネ教育の流れからいうと
どんな位置づけになるのでしょうか、興味ある所です。

そのあたり、かじかさんから、何かお聞かせ願えますでしょうか?

そうだ、家のどこかに、以前,放送されたフレネ学校の番組の
ビデオがあったとおもうけれど、それも今となっては、あるの
かないのか不明です。残念!!
大人の話を聴く

 生活と教育を結びつけるひとつの方法だと思いますが,フレネ教育では,大人の話を聴くことをよくやっているようです。

 岩狭蔵之助著「子どもをのばす自由教室―新しい教育をめざして (講談社現代新書)」には,岩狭先生の指導のもと,牛を飼っている人のところに行き,その仕事を観察,そして話を聴き,また,教室にもどって生徒同士で意見交換をし,手紙を書いて,という活動が紹介されています。

 また,岩狭さんが,フランスの学校で見たことが書かれています。
 子どもがみんなの前で飛行機について話をする。質問があり,それにつまると,お父さんが手伝ってくれる。お父さんは飛行機関係の仕事をしているのだそうです。

 仕事をしている大人の人はそれぞれの仕事では専門家です。
 野菜作りの専門家,小売業の専門家,タクシー運転の専門家,・・・。
 それぞれの仕事でいろいろなことが目指されていて,それについては,ほかの仕事をしている人にはまったく知らないこともよく知っているはずです。

 ぼくは,中小零細業者のある会に属しています。そこでは,みな異業者です。居酒屋さん,車の板金屋さん,菊作り農家さん,便利屋さんなど。ぼくのまったく知らないことをよく知っています。もちろんですね。そのような話を伺うのはおもしろいものです。

 それを子どもたちに触れさせようとするのです。お父さんやお母さんに教室に来てもらい,仕事の話をしてもらう。いろいろいい話を聞くことができると思います。いいですね。

 テレビで,農家の方が米作りについて話をする授業を見たことがあります。それがフレネ教育から出てきたのかはぼくは知りません。ただ,フレネ教育ではそれをだいぶ重視してやっているのでしょうね。

 これは生きた教育だと思います。生活と結びついた教育だと思います。
 今度も,岩狭蔵之助著「子どもをのばす自由教室―新しい教育をめざして (講談社現代新書)」から引用します。

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

「ここには教科というものがないのです。歴史とか理科とかは、教授すべき体系をもったものではなく、啓発科と思ってください。ですから順番は、いっこうにかまわないのです。

 ここでは、子どもが自分で研究する力を育てつつ子どもが自分のやり方で問題を解いていくことを、大事にするのです。子どもの問題設定の領域が、限られはしないかといわれますが、大きい子どもたちは、花の市場を調べに行ったり、地域の人に学校に釆て話してもらったり、旅行もあるし、テレビから問題設定をしていくこともあります。社会や自然については、学校間通信や交流旅行を通して、まだ経験したことのない世界に、ひきいれられていくことも多いのです。

 ですから問題が、子どもたちの日常生活に限定されるとは言えないのです。子どもの興味には、非常に深いものがあることを、私たちはつねに意識しています。」

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 きのう,中学1年生のY子さんが理科を習いにやってきました。密度の問題です。
「なぜ,理科でこんな計算やらなければいけないの?」とぼやきながら解いていました。

 子どもたちは,英語,国語,数学(算数),理科,社会というのは,まったく独立したものだと思っています。だから,理科なのか算数なのか分からないような問題に出合って戸惑ってしまっているのです。
  ぼくもそう考えているところがないとはいえません。

 小学生のときまでは,理科といえば,自然を観察するだけだったのかもしれません。しかし,それに計算が入ると,算数,数学のように感じるのでしょうね。

 でも,本来ものごとは教科によって完全に分けられるものではないのです。それを教えやすいように,区別したのは人間なのですね。

 だから,総合的に見る目が失われてします。

 花の市場に出かけていけば,それは社会の勉強にもなるし,理科,算数の勉強にもなる。国語の勉強にもなります。

 学校では,「総合科」というのがあります。ぼくはその内容をマスコミでしか知りません。教科によってできた壁を取り払う学科なのではないかと思っています。フレネ教育の影響があるのかもしれません。
 10年くらい前、うちの校区でも同じようなことが試行されていました。年に一度その道に長けた人を学校に来てもらって講習をしてもらう。

 私もフランス語を教えに行ったことがあるんです。

 子どもたちは好きな教室を選んで行くことができて、地域ぐるみで交流をする。地域ぐるみで子どもを育てる。というのが目的であったように思います。

 ちょっとフレネ教育に関連があるのかな?

 私が子どもの頃は、そんなことをしなくても身近にたくさん商売人など働いている大人がいました。今は仕事をしている大人を身近に見ることは少なくなってしまいましたね。

 生きるために教育をしているはずなのになんか進学するためにのみ教育があるような変な感じですね。仕事は大学に入ってから考えるというところでしょうか。

 生活と教育をからめようと一生懸命「総合学習」の授業をしてみてもうまくいっていないようだし、日本は目的意識を形成することが大変難しい国ですね。

 日常生活の中では、目先のことに追われ、普通の人たちの会話に精神論がほとんど出てこない。

 自治会にしてもPTA活動にしても子供会にしても、目的を一致させることがとても難しく、問題が起きると二度とこんなことは嫌!とばかりに活動をつぶしにかかる。

 活動に参加しない自由だけが自由のように思われ、活動に参加する自由があるのに気がつかない。

 そんな人間関係が貧困な状況では議論する楽しさも味わいにくい。

 私はフランスですごく驚いたのは、アパートの管理人さんとそこに住む大学教授が、激論を飛ばしている姿です。何をしているかではなく、社会的地位云々ではなく、みんなが対等に話し合える。すごい国だなあと思いました。

 こんな国だから自由や平等や博愛を旗印に出来るんだと思いました。

 みなさんのお話を聞きながら、フレネ教育というのは考え方で実際その理念でやっている人には様々な方法があるのかなと思いました。

 そしてそれはかなり難しく成功させるための手法やスキルを共有しにくいものなのかなとも思いました。

 教える人材、教育を受ける生徒の性格や生育状況など様々な要素を考えながら実践していかなければ成功は難しそうですね。
 
> クリスさん
一言でいうと、日本にはハレとケという概念がありますけど、見学に行ったりゲストを呼んだりするのがハレでしかないのが既存のカリキュラム、日常の学習の一環としてケの存在になっているのがフレネと考えればいいでしょう。
 クリスさん

>>>アパートの管理人さんとそこに住む大学教授が、激論を飛ばしている姿

 想像して、思わず吹き出してしまいました。いいですね。日本だと大学教授だというだけで、ただただ聞く側に回ってしまいそうです。

>>>人間関係が貧困な状況

 それが基礎なのでしょうね。それがないと難しい。ぼくも人を避ける傾向があるので、・・・。

 日本では、こういう教育は難しいと思います。ぼくの塾でも、まったく逆のことをしているというのが現実です。フレネの塾は経営するのが不可能ではないでしょうか。

 しかし、こういう教育があるんだというのを頭のすみにでもおいておくことは大事だなあと思います。
 かじかさん、
 ハレとケで説明されると分かりやすいですね。

 日本でも、社会見学、職場体験など、ありますが、日常ではないです。農家の方をよんで話を聞くのも。
 それもやるのも悪くはない。そこから得るところも少なくないでしょう。

 でも、受験とは関係ないから、遊びの一環みたいな気分で取り組んでいる。

 それをフレネでは日常としてやっているわけですね。
 >かじかさん

 そういう区分があるのですね。「ハレ」「ケ」これって教育用語なのですか?日本には??? それって私の世界では初耳です。

 どんな時に使う言葉か教えていただけませんか?

 >Yojiさん

 この言葉Yojiさんにとっても常識なんですね。知らない言葉です。

 
 クリスさん

>>>ハレとケ

 知ってはいました。ただ、常識というほどではないです。
 社会学の本を読んだときに、知った言葉です。聞いて理解はできますが、自分で使うほど自分のものにはなっていません。

ハレとケ
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%81%A8%E3%82%B1

結婚式での晴れ着「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。

民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)という。

ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。

 フレネでは、教科間の垣根がないことを書きましたが、その例が載っています。
 フレネ学校で、学校間通信を書いています。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※ 

「今こちらでは桜んぼ、桃、梨、アーモンドの花が咲いています。この間、蝶がとんできました。蝶、あり、りす。夕方には、蛙がないています。四月一日から、学校が小鳥の保護区になりました。鶏小舎では、親鶏がひなをかえしました。教室のふ卵器でもひながかえりました。」

「君、鶏小舎って書いてごらん。」と、突然、先生は、九歳のバヴァンサンを指名した。
”Poulailler"
みんなか拍手したので、ヴァンサンは、にこにこしている。このクラスには九歳の子もいれば、十一歳の子もいる。

「教室にはひよこのなき声が、かん高くひびいています。さっとふ卵器の下に、先生の犬が入りこんで、寝そべっているからでしょう。私たちの学校には、デジロという大きな温室があります。その温室におらんだあやめ(グラユール)を植えます。」

ここまできたとき、その先を、J・クロード先生が引きとって、

「私たちは、おらんだあやめを四〇〇株買いました。それには五〇株で九フランと書いてありましたが、店では一二パーセント値引いてくれました。私たちはいくら支払ったでしょう。」
と、算数の問題を挿入した。

普通は子どもたちが、何日もかかって問題を作り、こうした問題はつねに通信文に加えられるものだが、今日は、先生が作った。フレネは、これを生きた数学とよんでいる。
 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※ 

 まさに垣根のない授業だと思います。
 きゅうにスペルの問題になったり、算数の問題になったり。
 社会においては、教科の垣根はないのですから、すべて総合的に思考できるようにならなければいけないのですね。
 それを学校にいるときから行うのがフレネ教育なのでしょう。

 このような授業を行っていると、
「なぜ、算数を勉強しなければいけないの?」という質問は出てこないと思われます。
 Yojiさん、ありがとうございました。

 「ハレ・ケ」がどういう意味かが大体わかりました。≪生徒には大体ではだめだよ≫とよく言いますが、大体にしかわかりませんでした。これからはとりあえず大体でも「よし」と受けとろうと思いました。(笑)

 フレネの学校風景は、某国立大学の付属中学の入試問題によく似ています。

 確かに生活の中で学習するということは、効果が高いでしょうね。

 数日前に記憶に残す覚え方というテレビの番組があったのですが、イメージをしっかり持って覚えると忘れないという内容でした。

 子どもの場合体験を伴いながら学習するなんてイメージの数倍効果がありそうですね。

 このような手法で教える技術がしっかりしていると教育効果はとても高いでしょう。

 プログラム化されたものでなく自然体の中で機転に富んだ先生が自由に展開して行けたら毎日楽しいでしょうね。

 でも小人数のクラスでの展開しか無理かな…。
> クリスさん
おっしゃる通りで、フレネ氏の夫人は「クラスが25人を超えると、教育でなくて工場だ」といっています。
フレネでは、教師がクラス全員に向かって話すことはあまりありませんが、一人ひとりの子どもにはよく話しかけます。こんなキメ細かいことは、人数が多いと無理でしょうね。
最近、人数を減らしただけで少人数と喜んでしる人が多いですが、そういう人って方法までは深く考えないのでしょうね。
(あーあ、やっぱり高校社会科から社会学分野が消えた弊害が出たよ。
以前は倫理・社会という科目があったけど、内容が「現代社会」に移ったため倫社は単なる倫理になった。ところが、まもなく共通一次から現代社会が外されたため、進学校を中心に、名目だけ現代社会を開設して実際は地理だの何だのをやるようになった。
社会科って地理と歴史と政治経済と少しの倫理学と社会情勢とで出来ているのか?)
 60のかじかさんのコメントは,何かの間違いでしょうね。

 岩狭蔵之助著「子どもをのばす自由教室―新しい教育をめざして (講談社現代新書)」にも1クラスの人数が多くては教育できないというようなことが書いてあったように思います。

 さて,フレネ教育では,印刷機がとても大きな意味を持つようです。観察してきたことを文にして,印刷するようなものでしょうか。何をどうやるのか,その基準はぼくはまだ理解できません。

 それから,既存の教科書ではなく,子どもたち自身でテキストを作るようなこともありますが,どのようなものになっているのか,よく分かりません。

 学校間の交信もよくやっているようです。

 何かを書くということはとても勉強になります。ぼくは,このコミュでいろいろ書いて,そしてみなさんのコメントを拝読し,そしてそれについて考えてみるということで,とても勉強になります。

 フレネでもそのようなことを目指しているのでしょうか。
> Yojiさん
前コメントは、ハレとケについてのもので、トピ違いではありません。ただ、本筋とは関係ないのでカッコ書きにしました。

以前挙げた『フレネ教育 子どものしごと』には実例も載ってます。ぜひどうぞ。
 フレネ教育における「自由」について,「子どもをのばす自由教室」のp127〜p131にかけて,あちこち抜粋します。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 私は彼がこの学校に、どんな期待を寄せて、子どもを学ばせているのか聞いてみた。
 彼は「息子をここで学ばせてもらえなかったら、こんなふうに人の前で、話せるようにならなかったでしょう。ここでは子どもたちが自由で、先生の教育が子どもを開花させてくれるのです。それに学校の自然環境もいいし。」という。

  そばできいていたカルメン先生が、つけ加えた。「自由なだけではないのです。フレネ学校は、子どもを野放しにするという人がいますが、子どもの教育活動が組織化されていて、規律があるから、一人ひとりが自分を開花させることができるのです。」と。

(中略)

 「フレネ学校ではやることなすこと、すべて子どもの興味あることばかりです。子どもが好きなことばかりやる学校です。」
もう五十の坂をとっくに過ぎたマダム・スュネは、そういいながら、ほこりだらけの子ども のザックを取り出してきた。

(中略)

 そこにスュネさんが入ってきた。彼はいきなり、「やあ、セレスタン・フレネは賢い人だった。やさしい暖かい人でしたよ。」という。私ははじめ、大げさにものをいう人だと思ったが、きいていて、それがもっとも当を得た表現だということがわかってきた。

 彼は、フレネの教育の中で大切なことは、子どもが自由に、自分の考えを表現できるようにすることだという。子どもたちが自分の好きな勉強にとりくんで、自分で表現するようにしむける、そのために、フレネは、教室に印刷器を置いていた。さらに、フレネは子どもたち一人ひとりがもっている、よい面をすべてひき出すために、子どもたちに庭師とか、電気技師とか、昆虫採集家などの免許状を与えていたという。ほかの学校では評価の対象にもならないことを、フレネは人間にとって大切なものとして重視した。おそらくこのこともあってであろう。学校にはよく専門家を呼んできた。フレネには教育を学校の中だけでするとか、教師だけでするという考えはなかったというのである。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 「自由」を与える,「自由」を重視する,しかし,それは「放任」ではないですよ,ということです。

 それはよく分かります。ぼくも「自由」はいいが「放任」はいけないと思います。

 「自由」と「放任」はまったくちがうものでしょうが,その境界はとてもあいまいです。それをどこで分けるか,が問題。

 ぼくの読んだ本では,そこのところがよく理解できませんでした。
 これまでフレネ教育について書いてきました。すばらしい教育だと思います。ただ、ぼくはそれをそのまま行っていいのだろうかと疑問に思います。

 「子どもをのばす自由教室」の著者若狭蔵之助さんも、次のように書いているところがあります。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※ 
 しかし、この教材群をみたからといって、私の疑問がすべて解明されたわけではない。というのは子どもが、その日常的な生活過程での諸問題や興味・関心を中心にしていたのでは、どのように教材群が整備されていようとも、同じような勉強をくり返すだけで、学習領域のひろがりが、のぞめないのではないか。その領域を、教師が指導して、拡げてやる必要があるのではないか、という問題である。

それだけではない。学習の課題を、子どもの日常生活から出発させようとすれば、たとえば失業の問題を資本主義社会のしくみの学習より前に、とりあげなければならないということも、おこりうるであろう。学習の積みあげがないために、学習すべき内容が、わかりにくいという問題は、おこらないであろうか。
 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※ 

 ここにもあるように、ひとつは興味、関心だけでは視野が狭まるのではないか、ということです。

 ぼくは、中学、高校のころ、数学と理科一分野以外は大嫌いでした。英語も社会も国語も。だから、興味、関心だけでよいのであれば、数学、物理、化学しか勉強しなかったのではないかと思います。今思えば、そうしていたら、とても視野の狭い人間になっていたでしょうね。
 いやでもさせられていたということに今は感謝しています。だから、生徒が嫌いだという科目も強制的にでもさせています。

 二番目の問題は、教育は積み上げが大切ではないか、ということです。
 特に小学生の算数は積み重ねが大切です。足し算ができ、引き算に進み、かけ算、わり算と進みます。
 興味、関心だけで学習を進めてきた子が、わり算が必要となった。そこでわり算を学ぶとします。たぶん、足し算、引き算、かけ算は駆け足で学ぶことになるでしょうね。意味も分からずただただ計算ができればいいということになりかねません。

 スポーツでは、試合をするのが楽しいです。だからといって試合だけをしていていいかです。野球をする人は、ランニングなど基礎トレーニングを重視します。基礎がきちんとできていないと、その上に建物はしっかりできません。試合だけをしていたのではいつまでも遊びでしかありません。

 基礎トレーニングはおもしろくないものです。たいていは。でも、それをしなければしっかりした技術も身に付かないものです。

 子どもの興味、関心は大切だと思います。それについてこのように立派な教育をしているということで、フレネ教育にふれることができたのはよかったと思っています。それはサドベリーについても同じです。

 ただ、それをそのまま取り入れていいのかという気持ちが強いのですね。年をとって保守的になっているのかも。
> Yojiさん
子どもどうしの関係に委ねること、教師の環境整備によるところも大きいことから、子ども自身が「場合によっては興味関心を持つかもしれない」と思ってくれると思います。
あと、学習計画は立てるわけですしね。
 かじかさん

 学習計画というのは,若狭氏の本にも出てきました。かなり重視ししてるようです。

 だから,まったく子どもの関心,興味に任せての放任ではないということです。その兼ね合いがよくつかめません。
 きのうのNHKクローズアップ現代で「理科離れする教師たち」をしていました。

NHKクローズアップ現代
http://www.nhk.or.jp/gendai/

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

11月12日(木)放送
実験が苦手
〜理科離れする教師たち〜

子どもの“理科離れ”を克服すべく、今年度から前倒しでスタートした理科の新学習指導要領。授業時間を大幅に増やし、実験も積極的に取り入れられた。しかし今、教師自身の“理科離れ”が深刻で学習内容の強化に対応できるかという不安の声が上がっている。去年実施された調査によれば、小学校教師で勤続10年以下の若手の8割が「観察・実験についての知識・技能が低い」と回答。「塩酸が怖い」「子供に質問されるとオドオドしてしまう」など基本的な知識さえ乏しい実態が明らかになった。その背景には、若手教師が子ども時代に受けた「ゆとり教育」で科学に対する興味を失ってしまったことや、理科を学ばなくても教師になれる仕組みがある。どうすれば教師の“理科離れ”を防げるのか、ヒントを探る。
(NO.2816)
スタジオゲスト : 平林 浩さん (元和光小学校教諭・科学教室講師)
※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 ゆとり教育で,理科の授業が大幅に減らされた時代の人たちが教師になる時代なのです。理科の授業が少ないために,理科を知らない,ということでしょう。

 ゆとり教育そのものを,ぼくはいいことだと思います。ただ,それが学力低下になってしまっては大変です。そこは考えなければいけない。

 フレネ教育についても,そのあたりを懸念しています。興味,関心に基づいた教育というのを,ぼくは望ましく思っています。ただ,それによって学力が低下しないか,ということです。

 ゆとり教育も,学力が低下してもいいから,ということで始めたわけではないと思います。ただ,実際に学力は低下しています。そうぼくは実感しています。

 理科の授業時間が少なくなった。それは子どもにとっていいと思ったからでしょうね。でも,授業で教えなくなると子どもたちは学ぼうとしません。ぼくが高校生のころは,だれでも物理,化学,生物,地学を学びました。ぼくはまじめな生徒ではなかったのですが,それでもある程度は頭に残っています。

 それをいまは選択するのですね。よく知らないのですが,高校で物理を学ばない学生がいるそうです。そして,そのまま理科系の大学に進む。
 または,物理を高校のときに学ばなかった人が教師になり,理科を教える。できるはずがないですね。

 興味,関心はとても大切だと思います。それを頭におきつつも,強制的にでも学ぶべきことは学ばせるというのがいいかな,と思っています。
> Yojiさん
フレネは子どもからの発信と子どもによる自治をとても大切にしており、子どもどうし目線での他の子どもから啓発されるところが大です。

従来の教育の教師主導というイメージから脱却しないかぎり、この点は何百の説明を聞いてもなかなか信じ難いでしょうね。
 かじかさん,

 結局は,実践であり,結果でしょうね。

 短期の結果を追い求めるべきではないでしょう。子どもたちが大きくなってから,その子たちがどのような大人になっているのか。

 今回の日本の「ゆとり教育」は,短すぎました。ただ,この短い間にいろいろな結果が出てきたので,これではいけないのではないか,と多くの人が思ったのでしょうね。ぼくも子どもたちの学力の低下を感じているので,このままではいけないと思っていました。

 フランスでもフレネ教育を支持しないお母さん方が多いようですね。それで広がらないのでしょう。

 理念は立派でも,結局は結果が出せないとダメです。

 フレネ教育で,実際に学力の高い子ができるのか?

 学力が問題ではないかもしれません。たとえば,ある分野に秀でた人を作り出すことでもいいです。

 フレネ教育によって,創造性のある人が多く生まれたというなら,それはそれで支持されると思います。

 フレネ教育出身者は,人生を楽しんでいる,ということでもいいかもしれません。

 そのあたりが見えてこなければ,理念がいくら立派でも,それをそのまま受け入れることはできません。

 「子どもの目線」というのは,とても大切です。ぼくはできるだけそうありたいと思っています。ただ,それだけではないです。いったんは子ども目線で見ますが,それを参考にして,大人の目線から教育をするという感じですね。
 フレネ教育が提唱されたころと今では社会的状況が随分異なっているでしょう。社会に必要とされる人材の養成が学校教育の目的でしょうから今の時代にはあまりそぐわないかもしれませんね。

 でも日本のように塾が盛んなお国柄では、塾でフレネ教育をするのは可能だと思います。以前にも同じことをコメントしましたが、不登校の学校にはなじめない何らかの理由を持っている子どもたちにとっては、自信を回復できる、自分を主張できるフレネのような環境は子どもたちの心をもちなおしてくれるような気がします。

 とても人権感覚に富んだ教育だと思います。ある意味とても贅沢な教育だと思います。学校へ行きながらその傍らの塾というスタンスで…かじかさんの塾はそんな塾なのですかね。
 不登校の生徒には,いいでしょうね。

 個を大切にするということで,不登校の生徒も学習を進めることができるのではないかと思います。

 贅沢な教育ということに関しても同感です。
> クリスさん
私は、社会に必要とされるための教育というのは、ある意味おかしいと思います。
むろん、多くの人に働いてもらうのが理想なのはいうまでもありません。しかし日本では伝統的に、「既存のシステムにいかに迎合できるか」が生きるテーマになってしまっており、「社会に必要とされる」もその意味あいで使われている気がしてなりません。
そうではなく、労働においても生活においても、いろいろな立場のいろいろな考えを踏まえながら、新しく提言することもできないと、ただ従うだけの存在になりかねません。

それから…
学習塾は一般に、成績を上げるための存在です。となると、学習指導要領に沿って授業をしている学校に基本的には合わせないと、どうしようもない面が大です。
部分的にフレネ的な技法を取り入れたり、説明しすぎない待ち状態を多用したりといったことはできますが、フランチャイズだとそれも限りがあります。
 >かじかさん

 純然たるフレネ教育をするためには個人塾でないと無理だと思います。でも今の世の中、様々な価値観が認められる時代になったと思います。本当に純粋に何が大切かということを考えられる人が多くいます。

 そのような中にはフレネに関心を示す方もたくさんいるでしょう。フレネで成功した事例が出てくるとこれもまた社会の中で受け入れられるでしょう。そのためには具体的なノウハウや、経験が必要です。もう少し時間がかかるかもしれませんね。

 セフラーニングに少し前にお知らせを出しておられた教育大学の学生さんたちの活動を拝見してそんなことを思いました。【ネット上で見ただけですが】

 「既存のシステム」というのは大きく変わりつつあるように思います。教育に関してはついに日本も動き出したと感じるのは、息子が通っている大学の授業形式や、入社試験、また新入社員研修を見ていても新しい感覚が導入されているように思います。

 学習したことがそのまま社会で通用する。というより大学が社会に合わそうと努力している? というよりお互いにコラボしている。…という感じかな。

 こういうあり方がいいと思えるような状況に移りつつあるように思えます。

 塾に対する期待値も単なる学力だけではなく、生徒の人間性の育成自体が問われる時代になりつつあるのではないでしょうか。しっかり地に足がついた生き方、生きる力に満ちたたくましい学力。目先の点数にのみ右往左往する時代は終わりを告げようとしているように思えます。

 またそれを保護者の方に伝えていくのも塾の仕事かなとも思います。
> クリスさん
私はあんまりそう思わないんです。いまは必要性がいわれる事柄ほど、現実には逆の皮相的な方向に向いてばかりの気がするんです。
典型例を挙げれば、子育ては社会でやるべきだという声が強くなっていく一方で、世の母親たちは子育てにおいて、ますます内輪的になっていく感じなんです。以前は子どもに手をふろうものなら、母親も積極的に関わっていたのが、今は顔をしかめてそそくさと逃げる感じなんですよね。
カンケーないものはカンケーないんだ、に代表されるものすごく単純な見方が巾をきかせてる感じがするのです。
 クリスさん,

 ぼくもかじかさんの意見に近いですね。

 そして,ぼくは小選挙区制を思い出しました。

 確かにクリスさんの書かれているように,
>>様々な価値観が認められる時代になった

 かもしれません。そして,フレネ教育を求める人も全国にはいるでしょう。しかし,少数政党のようなものです。全国的には10議席や20議席をとる力はある。しかし,小選挙区の場合には,一議席もとれません。

 フレネ教育が日本全国に例えば一〇〇〇人いるとします。しかし,それは全国に散らばっていますね。

 ぼくらのような個人塾は,小選挙区で闘っているようなものです。集まる地域はせまいです。全国には一〇〇〇人いても沖縄には一人しかいないかもしれません。それでは,塾は成り立たないですね。

 かじかさんのコメントに,「既存のシステムにいかに迎合できるか」についての批判的な意見がありました。
 ぼくは,かじかさんの真意は分かっているつもりです。

 ぼくは生徒に,「自分の好きなことは何かをさがして,それを追い求めるようにしなさい」と言っています。また,自分でもそれを実行しているつもりです。

 しかし,だからといって自分の好きなことをすればいいというものではないです。

 塾の保護者の願いは,目の前の成績を上げることです。理想的なことを言うと,そうですね,と同意はしてくれます。しかし,やはり,目の前のテストの点数が悪ければよそに移っていってしまいます。

 それをまったく無視しては塾の経営はやっていけません。自分で学ぶ力,本当の学力をつける,といってもやはりテストの点数も無視できないのです。

 ありがたいことに,ぼく自身,点数も大切だと思っているので,矛盾なくやっていけています。

 ここで言いたいのは,社会(保護者のニード)との妥協はある程度必要なのではないか,ということです。

 『迎合』と『妥協』をどこで線を引くかは微妙ですが,「妥協」は必要ということです。
 かじかさん、Yojiさん

 そうですか。私が見ている生徒さんは近隣の方或いは同僚からの紹介の人が多く、卒業まで辞める人がほとんどいないような状況で運営をしているので、私の感覚は「井の中の蛙、大海を知らず」的な部分があるのでしょうね。

 知り合いという背景と信頼感があるから、かなり率直な意見をいってもみなさん耐えて下さっているのかもしれません。今まで生徒をたたいことはありませんが、言動ではかなりきついことをいっています。

 また私がそう思うのは、学校の評価が変わってきたというのも要因の一つです。点数主義ではないということです。わたしも定期テスト後の点数は気になりますが、かなり悪くても通知表の評価がいいのに驚きます。

 態度の育成が高評価に大きく影響すると見ています。人と接する時に自然と表れてくる落ち着き【生き方に嘘がないということ】と相手を尊重する態度を身につけて欲しいとよく思います。よく誠実に物事に対処することの大切さを子どもたちに言います。

 結果は後からついてくるもの結果を目標にするのではなく、誠実に丁寧に理解していくことが大切だということを指導の主な内容にしています。

 実際「5」の域に達するためにはまず基本的な生き方が大切です。この線を崩さない為に、いろいろな方法を考えています。

 私にとっての塾とは、個人的に深いつき合いの中で進めていける学習の場です。学校では得られない深い干渉があることが大切です。

 理想を現実にするためには時間が必要です。継続してくれることでしか証明できません。

 反対にいえばそういうことを理解してくれる人しか来ようと思わないようなところなのかもしれません。

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