ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

死刑廃止コミュの神的暴力

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
大澤真幸(おおさわ・まさち)京都大学大学院教授は、昨年、中日新聞、北海道新聞などで哲学者ヴァルター・ベンヤミンの論考「暴力批判論」の中で展開されている「神的暴力」というタームを死刑制度と結びつけ、示唆にとんだ論考を行なっています。とても有益な論考ではないかと思われましたので、トピックを作らせていただきました。


以下は中日新聞(2008/2/28・29)に掲載された

『「神的暴力」とは何か(上)  死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い』
『「神的暴力」とは何か(下) 「分かち合い行為」に暴力抑止の原型を見る』

を簡単にまとめたものです。



ヴァルター・ベンヤミンの論考「暴力批判論」(1921年)に、神話的暴力/神的暴力という有名な区別がある。

神話的暴力は、警察が行使する暴力や刑罰のこと、さらに革命や有事のような例外状態において、新たに法を設定する暴力のことを指している。

それに対して法を否定する暴力とされるのが神的暴力である。

「暴力」という言葉遣いにはネガティブな響きがあるが、ベンヤミンは、恣意的であったり専制的であったりする法や国家権力から人を解放する力のことを、ここでは暴力と呼んでいる。

では、それは具体的には何を指すのか?

国家権力による殺人、つまり死刑は一見、法の中に規定されているので、法を維持するための暴力に思えるが、1人の人間をこの世界から完全に抹消してしまう行為は、法秩序のバランスの回復ということを超えている。
むしろそれは、常軌を逸した犯罪者を抹殺することで、国家が、自らにとって法や正義とは何かをあらためて表明する場であるだろう。

日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。

井上達夫は、

「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)

で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。

井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。
この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰か(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。

森達也が著した

『死刑』(朝日出版社)

は、死刑にさまざまな形でかかわっている人たち(弁護士、元死刑囚、教誨師、犯罪被害者等)にインタビューしながら、死刑存置/廃止を考えた記録である。

森は廃止に賛成という結論に至るが、重要なのは、彼がこの結論を最終的に選択する瞬間である。
彼は、拘置所まで、光市母子殺人事件の犯人に面会に行く。
犯人である少年と対したとき、森は、突如として強い思いに襲われる。
彼を死なせたくない、彼を救いたい、と。
 
殺人(の禁止)規定と孤独に闘うとは、まさにこういう場面を言う。
法律で決まっているからとか、命令だから、という理由で人を殺すとき、人は、それが正しいことかどうかを考えない。
超越的な他者(法や制度や命令者)が、何が正しいかを教えてくれるからである。
責任はその他者に転嫁される。
だが、そのような超越的な他者がどこにもいないとしたら、つまりあなたは孤独なのだとして、あなたはどうすべきか?そういう孤独の中の煩悶を通じて、あなたが自ら選び、そして行使されたりあるいはあえて回避されたりする暴力、それこそ神的暴力である。

それにしても、殺人や戦争といった人間の暴力の究極の原因はどこにあるのだろうか? 

ゴリラの研究で著名な山極寿一は、霊長類学の最新の成果を携えて、この問題に挑戦している。

『暴力はどこからきたか』NHKブックス

山極の考察で興味深いのは、暴力の対極にある行為として、贈与、つまり「分かち合う行為」を見ている点である。
狩猟採集民は、分かち合うことを非常に好む。
狩猟を生業とする者たちは獰猛な民族ではないかと思いたくなるが、実際には、彼等の間に戦争はない。

暴力を抑止する贈与こそは、「神話的暴力」を克服する「神的暴力」の原型ではないだろうか。


コメント(26)

拷問しようとか、死ぬより辛い目にあわせようとか、正義感ーとか、死刑を望む被害者はエゴイストだとか、そんな話ばかりして賑わってるようだけど、みんなこうしたトピには関心ないんだね。


> 山極の考察で興味深いのは、暴力の対極にある行為として、贈与、つまり
>「分かち合う行為」を見ている点である。
>狩猟採集民は、分かち合うことを非常に好む。
>狩猟を生業とする者たちは獰猛な民族ではないかと思いたくなるが、実際に
>は、彼等の間に戦争はない。

 佐原真という考古学者が言ってました。日本で武器が発達したのは弥生時代になってからだそうです。縄文までの採集狩猟生活ではみんな平等で助け合っていた。農耕社会になって農作物を貯蔵するようになって貧富の差が表れ戦争も始まったと、それが死刑の問題まで関連していくのかと思いました。
う〜ん。
少し反論されても仕方がないような部分があるように思いますね。
正直、少し弱いように感じます。
以下反論を。但し、個々の事象の評価については、私見でありますので、絶対というわけではございません。反論、ご教示等頂ければ有難いです。

=quote=
井上達夫は、 (中略)死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。
=unquote=

 現在の刑法の歴史を辿ると、ボアソナードの案を元に元老院で審議を行うという過程を経ているわけです。ということは、若干の慣習法(親族相盗例など)はあるものの、ほとんどが官製といってもいいほどのもので、刑法典論争などがあるものの、帝国議会はその追認をしただけようなものであると思います。そういう意味において、現行刑法の基礎部分は、民主的手続きを経て作られたものであるとはいい難いような気もします。
 ということは、「主権者たる国民にこそある」という部分においては当てはまらないと考えられるのです。

次の文章ですが、正直申し上げて理解できません。

=quote=
殺人(の禁止)規定と孤独に闘うとは、まさにこういう場面を言う。
法律で決まっているからとか、命令だから、という理由で人を殺すとき、人は、それが正しいことかどうかを考えない。
超越的な他者(法や制度や命令者)が、何が正しいかを教えてくれるからである。
責任はその他者に転嫁される。
だが、そのような超越的な他者がどこにもいないとしたら、つまりあなたは孤独なのだとして、あなたはどうすべきか?そういう孤独の中の煩悶を通じて、あなたが自ら選び、そして行使されたりあるいはあえて回避されたりする暴力、それこそ神的暴力である。
=unquote=

「だが、そのような超越的な他者がどこにもいないとしたら、」という意味不明の文がありますが、なぜこのような架空の前提をもとに現実の死刑の話をするのかその必要性そのものに疑問があります。
 私にとっては支離滅裂にしか映らないのですが、どういうことなのでしょうか?
>Alfonso Wolfgungsさん

はじめまして

刑法が民主的に成立していなくとも

その法を現時点で受け入れている責任が主権者にはある。

ということではないでしょうか。


新聞にこういった記事が出て、

「死刑を自分が執行するとしたら?」

と想像力を働かせてくれることを期待するという意味で

私はこういう記事は論が弱いと感じられたとしても

歓迎します。


あら、コメント入れたら効果があった・・・


あっちゃんさん

狩猟採集時代には、社会は必要なかったわけですね。基本的に自給自足ですから、個が立っていたのですね。

それが農業が始まると人は否応なく土地に縛られる。貯蔵が始まれば貧富も生ずる。つまり社会が誕生するのですね。社会があるかぎり人間は死刑の問題からおそらく逃れられないんだろうと思います。


Alfonso Wolfgungsさん

これは大澤真幸の考えなので、私が答えるのもおかしいですが、思うところを書きますね。

>ということは、「主権者たる国民にこそある」という部分においては当てはまらないと考えられるのです

これはそこまで遡った考えではなく、単に、民主主義の原則を述べているだけだと思います。死刑を続けるも廃止するも国民に選ばれた議会で決定されるということじゃないでしょうか。もひさんの仰ってることもそういうことですよね。

>なぜこのような架空の前提をもとに現実の死刑の話をするのかその必要性そのものに疑問があります

わたしは疑問に感じませんでした。何を考える上においても必要な態度だと思うんですけどね。体制、常識、因襲に捕われずに自分自身で孤独に考えよという態度です。
しかし、超越的な他者がいないものとしてと言っていますが、おそらく神以外のという前置詞がつくのだと思います。だからこそ、神的暴力なんでしようね。

もひさん

ありがとうございます。

孤独に考え抜くということは日本人には特に苦手なことですよね。

でも、死刑の問題に限らず考えというものはすべからくそうでなければ価値がありませんね。

>とーしさん

死刑廃止の立場をとるようになったのは信仰によるものですが

ただ誰かが言ってるから死刑廃止

と言う風には受け入れられません。



死刑廃止を望む人たちのコミュニティーなのですから

細かな違いはあれ、それに向かって進んでいく前向きな議論であってほしいですね。
もひさん

影響を受けるのはいいんですけどね。

>前向きな議論であってほしいですね

正直言うと、私は議論というものを信じてません。
人間が狩猟をして生きていたときに議論というものはなかったことでしょうねぇ。それこそ、皆が孤独に立っていたでしょう。

議論は社会の何かを決めるために必要でしょうが、それは正しいことが何であるかということと関係ないことだと思うんですよ。議論は方便。違いますか?



>とーしさん

狩猟生活に戻ろう

と言う考えもいいのではないかと思います

人口がすでに狩猟生活では成り立たない規模であることや

狩猟生活という飢餓からの恐怖や

そういったものから開放されているのであれば、すごくいいですね。


でも私の周りには幸い議論に足る、対話に足るすばらしい人たちが多いので

社会の中で生きることにします。

分け合うと言う行動は狩猟生活でなくてもできるかもしれませんし。





正しさというのもなかなか難しい話です。

人間以外が正しさを規定しているのあれば

正しさが議論によって変わることはありませんね。

と言ったところから議論するのであれば

メッセージでやりましょう。嫌いではありませんよ〜。



そういうものを踏まえてでも

死刑はなくなったほうが世の中のためだと考えます。

だからこのコミュニティーに参加しています。


こいつは死刑!と叫んでいた人といろいろ議論して

「うーん確かに、そんなに簡単に殺せ殺せと叫べない」

という風に議論が昇華した経験が何度かあります。


もてあそばないのであれば

議論、対話は有用でしょう。あ、有用なのは同意見でしたね。





議論の有用性と正義がどこにあるかは

この際別にしておいてもいいのではないのかと思います。

正しさは人によってかわっていきますから。



>4 もひさん
はじめまして。まずはごあいさつから。

>7 とーしさん

>これはそこまで遡った考えではなく、単に、民主主義の原則を述べているだけだと思います。死刑を続けるも廃止するも国民に選ばれた議会で決定されるということじゃないでしょうか。もひさんの仰ってることもそういうことですよね。

そういうご説明は納得はいくのですが、筆者は「この制度を選んだ立法府に」と言っております。私はそこに引っかかったのです。

少し説明を加えれば、現行刑法の基礎は先般にも申し上げた通り、ボアソナードというフランスの学者に依るところが大きかったわけであります。ということは日本における慣習法をいくらかは混ぜることが出来るわけですが、国民の合意形成の一つというべき判例法は加味されているわけではありません。あるとすれば、フランスの、さらに遡れば、ローマ法からの蓄積をそのまま移しただけであると思うのです。

ですから、「この制度を選んだ立法府に」というところを書いてあるとおりに読んだときにそぐわないと思ったのです。そういう意味において、私はお二人の仰った「民主主義の原則」という意味を読み取ることが出来なかったのです。それを強調するのであれば、もう少し違う言い方はないかいなと思いました。

で、キリトリ…

あと、私は死刑廃止(もしくは停止)ありきという前提で話をしようとはおもっておりません。刑法と刑事訴訟法との法理論における整合性とそれを運用する司法警察員、司法警察職員、検察官などの捜査官憲の意識の改革と国民の合意形成があることを前提として死刑廃止もしくは停止をするのではいいのではないかと思っております。そういう意味では、ここに参加されている方とは違うスタンスであると言えるでしょう。

ただ、欧州のような宗教的精神的バックボーンが日本では普遍的な考えではないということから、欧州で死刑廃止を断行したように、日本で同じことをすれば国民感情として受け入れることはできないのではないかと思います。

そりゃ、死刑がないに越したことはありません。でも、現行刑法その他の法で死刑が規定されていることを無視することは出来ませんし、それらを知らずして、私は声高に死刑廃止を言うことはしたくないのです。

脱線失礼しました。
もひさん

そうですねぇ。議論についてですが、私も議論はずいぶん生徒という立場のときからしましたねぇ。
議論の結果、私の意見が通るということがよくありました。私が全体を説き伏せたということでしょうか。

そのとき私の意見が議論の結論は変えたりしたわけですが、議論相手の考え、思いを変えられたことはおそらく一度としてなかったと思います。

相手がこちらの意見を飲んだのは、相手がこちらを論破できず、こちらが相手を論破したに過ぎなかったんです。つまり向こうは言い負かされた。

議論、ディベートってそもそもそういうことでしょ?強いものが勝つんですよね。何が正しいなんて簡単に決められないことは仕方ないから議論の勝敗で結論を出そう、そうしないと世の中が回らないから、そういうことでしょ?

相手は納得したわけじゃあない。私が個人的に説得できた相手だって、面倒だから話を合わせてくれたんでしょう。

私はそう思うようになったし、なにしろものを考えることは自分自身の問題であり、人は関係ないんですよね。今、借りに相手を説得できたって、今後、相手はまた考えが変わるかもしれないし、それどころか、こちらの考えが変わっちゃうかもしれないですよ。

であれば、死刑が正しいんだから死刑廃止にするのがいいに決まってるだろなんて、人に向ってとてもじゃないが言えませんよ。

私自身が死刑をどう考えるのか、それしかないんです。


みるく性器さん

>死刑廃止の理念そのものを二の次にするかのごとき議論があるとするなら、そういうのは理念もコミュ趣旨も愚弄してるし、よそでやって欲しいと思います

私もそう望みますが、なにしろここもちっちゃいながらも社会なのでお子ちゃまからフェティシストから色んな人間がいて、それを排除することも出来ないんですねぇ。人生の先輩に対する敬意などというものは、人付き合いのいい潤滑油になるとおもうんですけどね、


Alfonso Wolfgungsさん

>そういう意味では、ここに参加されている方とは違うスタンスであると言えるでしょう。

はいはい。みな違うスタンスであることが、私などいいなと思うんですがねぇ。

>そりゃ、死刑がないに越したことはありません。でも、現行刑法その他の法で死刑が規定されていることを無視することは出来ませんし、それらを知らずして、私は声高に死刑廃止を言うことはしたくないのです

私のことを言えば、つい最近まで何が何でも死刑はよくないことなんだからまず廃止せよ。被害者感情なんて情緒的で個々に異なるものを論拠に死刑を必要とするロマンティシズムなど糞食らえ(きたなくてすいません)と思っていました。

このコミュに管理人さんから誘われて、より死刑について考えるようになり、そして信頼できる人の感情的ではあるけれど必要があるからこそ死刑は存在しているという話を聞いたりするうちに、次第に私は死刑をいいものだとは思わないが人にそれを呼びかけるようなことはすまいと心に決めたんです。

そうした意味で、このトピであげた、孤独に戦い、考え抜くというテーゼに共鳴したました。安っぽい連帯など糞食らえです(あっ、また・・・)。。

鷲尾@次は無政府でさん

私が作ったトピは私の勝手、乱暴な要約ですので、もともとの内容を紹介いただきありがとうございます。

私もアチコチで目にしていますが、大澤真幸氏は当時、いろいろな場所で神的暴力に基づいたさまざまな話を書かれていました。

> とーし さん (15)

議論とディベートは違いますよ。 全く性質の違う物です。
ディベートはある種の競技で、「議論する力」を競うものです。 議論では、その内容や結果が重要視されますが、ディベートは議論のプロセスそのものが重要であり、内容と結果に(勝敗を除いて)意味はありません。

とーしさんの仰っているのは「議論」で、ディベートではありません。 誤解のないように。
>とーしさん

糞喰らえはだめです!
せめて「ンコ召し上がれ」でお願いします。

私もどこかで書きましたが、連帯ってのはどうも違うと思ってます。

廃止を願う人でもその思い入れの濃淡はあるわけで、狂信的に死刑廃止と言う人もいれば、何らかのきっかけで賛成に回る可能性のある人もいるわけです。

「死刑廃止」という日本に法として現存し、執行され、それなりに国民の支持もある。そういうことがあるということを認めずに、連帯なんて出来るはずがない。最終的には、狂信的廃止論者がそのコミュニティ内で相手に考えを押し付ける方便に連帯という言葉を使われ、はじめに連帯と言った人の思惑はどこかに飛んでしまうのではと危惧するのです。
>とーしさん

いろいろ書こうとしましたが

まあいいやってなりますよね

議論や話し合いやら連帯やらを否定したスタンスだと公言されると。


孤独に考えるのも話し合うのも重要だと思うんですが

まあいいや
けんさん

>議論とディベートは違いますよ。 全く性質の違う物です

そうですか。じゃ、話し合いという言い方にしておきます。

Alfonso Wolfgungsさん

イエスだって釈迦だって単独者ですものね。人間がつるんで碌なことをしたためしがありましぇん。徒党なんてンコ召し上がれ!!です 。 。 。これでよろしいでしょうか。

もひさん

初めにもひさんが私に話しかけていないのに、お返事したことが間違いだったかもしれません。 折角コメントを入れてくれたんでお愛想しようとしてしまって、その後、なんか話が行き違っている感じがしますが、これこそ山本夏彦が言う「話し合いなんてできない相談だ」の実例かもしれません。

>とーしさん

いえいえ

何事も望む人と望まない人がいると言うことです。

行き違っていないと思いますよ。

私は話し合いと連帯が大好きなだけでしょう。

お返事してくれてありがとうございます。
刑法は基本的に法的責任として意思能力を前提にしますが、だから事故で人を死なせてしまっても殺人にはなりません。問題は人を殺そうとする意志です。それは道徳的にも許されないことです。そうすると死刑囚も人である以上は、刑を執行する前の死刑囚を殺せと言うのは明らかな殺意があります。なぜ、道徳的に問題にならないのでしょうね。人間という問題は国家という枠組みを超えていると思ったのです。この神的というトピックに少しずれますが書かせて頂きました。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&id=3316811

ログインすると、残り2件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

死刑廃止 更新情報

死刑廃止のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。