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鎌倉・南北朝時代に想いを馳せてコミュのご質問はこちらへ♪

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なにせこの鎌倉・南北朝時代は複雑でわかりにくい時代ですあせあせ
そこでexclamation鎌倉・南北朝時代を調べてみたり、この時代を書いた本などを読んで、これってよくわからないなぁ〜?とか色々疑問に思う事もあると思います。

どうぞこちらをお使いくださいるんるん皆さんで、答えを見つけましょう〜(o^∀‘)

あと、その他諸々の質問もこちらへお願いしますわーい(嬉しい顔)

コメント(86)

気になってた家紋の話とか、散策など色々語られていたので、はじめて書き込みします。質問じゃなくて感想ですが(^_^:)
少し話題が戻りますが、鎌倉散策や、都内の神社で見かける三つ鱗と、北条の家紋って何か関係あるのかな?と、思ってずっと謎だったんです。
満福寺ではちょっとした関連記事を見付けました。▲マークはへびを意味して、水辺、弁天を祭る所でよく見られる事と、宗教的な意味の事が書いてありました。
ちなみに、私が気付いた三つ鱗マークは、お寺を除いて、全て弁天ばっかりでした。
知る人ぞ知る、北条家の江ノ島エピソードも、21日間のお参り、良くない政治をしたら7代で滅びる、という数字も神秘的な感じがします。

余談ですが、先日タッキーの義経DVD総集編を見たばかりで、鎌倉方の厳しい態度に悲しくなったのですが、ちょうどこのトピで、大姫の為に舞ってあげた静、助命嘆願の政子の話とか良い話しが見れてよかったです。

鎌倉時代に魅力をかんじるようになったのは、わりと身近な場所でのエピソード、武士道とかの考え方が新鮮?、歴史好き、だからかもしれません
>ルージュさん

鎌倉散策で見かけられる三つ鱗はほぼ間違いなく鎌倉北条氏に因んだものだと思います。
円覚寺や建長寺など、その他鎌倉には寺社がたくさんありますが、その寺を造った人が北条氏であれば、寺紋に三つ鱗を使ったりしています(^∀^)

ただ、関東の各地で見られる三つ鱗は、鎌倉北条氏の三つ鱗でなくて、小田原北条氏に因んだものかもしれません。同じ「北条鱗」紋を使用しましたから。

ところで、三つ鱗の鱗はヘビの鱗を意味していると私も思います。本来ヘビには鱗はないんですが・・・f(^ ^;) ヘビは水の神様の化身でもあって、よく淵や沼などに大蛇の伝説があったりします。
あと、ちょうどこの中世の頃から弁天様=水の神様=ヘビって信仰も生まれたようです。


義経びいきの方には申し訳ないんですが、私は義経に鎌倉方が厳しい態度を取ったのも致し方なかったような気もします。鎌倉の関東の武士たちは、自分たちの政権を頼朝を旗頭にして作ろうとしていたのに、義経はその関東の武士たちの動きに逆行するかのような事もしましたから・・・。義経ももう少し兄・頼朝の置かれている立場、その時代の動きを感じていれば良かったのかもしれません。
ま、源氏はとにかく親兄弟で争う事が多い家です。たとえ頼朝の心情を察したとしても、結局は悲劇が待っていたかもしれませんが・・・。
>タカピロさん
詳しい解説ありがとうございます。鎌倉散策のお寺で見かけたマークは、やはり北条氏に関係したものだったんですね(^^) あと中世の頃から、ヘビ=弁天の考えがあったんですね。

本やビデオで、鎌倉時代の物語をいくつか見始めた所なんですが、政治的な理由から、骨肉の争いが多かったんだな、と感じたりします。
こんにちは、はじめましてわーい(嬉しい顔)


突然ですが、鎌倉時代の中期の方で、「北条氏」の当主、「得宗」と言う方は、どなたに当たるのですかグッド(上向き矢印)
「北条時宗」公なのでしょうかexclamation & question

歴史は、詳しくないので、どなたか教えて下さい宜しくお願い致しますぴかぴか(新しい)
>ほりきたさん

「得宗」は簡単に言えば第二代執権・北条義時から続く北条宗家(本家)の家系の事を言いますわーい(嬉しい顔)

北条時宗公も得宗ですが、時宗公は七代目(もしくは六代目)の得宗です。
歴代得宗はこのようになります。

初代得宗:北条時政(北条義時の父、初代執権)
二代目得宗:北条義時(第2代執権)
三代目得宗:北条泰時(第3代執権)
四代目得宗:北条時氏(北条泰時の長男)
五代目得宗:北条経時(北条時氏の長男、第4代執権)
六代目得宗:北条時頼(北条経時の弟、第5代執権)
七代目得宗:北条時宗(北条時頼の長男、第8代執権)
八代目得宗:北条貞時(北条時宗の長男、第9代執権)
九代目得宗:北条高時(北条貞時の三男、第14代執権)

四代目得宗の北条時氏をカウントするかしないか意見が分かれています。北条時氏は父の北条泰時よりも早く病死してしまったからです。

ただ、「得宗」というのは、この呼び名をはじめ、鎌倉時代の政治の中でどのようなものであったのかなどまだよく分かっていない部分がいっぱいあってよく解明されていないそうです。でも、一般的には北条一族のトップの人間の事を指すとされています^^
タカピロさん

色々、お調べ頂き誠にありがとうございますわーい(嬉しい顔)


ご挨拶遅れましたが、
私の祖は、大和源氏です歴史の表舞台には、ほとんど出て来ません。

今、書き記されている事を少しずつ調べています。
「得宗」とは、その様な意味合いなのですねわーい(嬉しい顔)
北条歴代の方々なのですねわーい(嬉しい顔)


タカピロさん、2〜3質問よろしいですかグッド(上向き矢印)わーい(嬉しい顔)

例えば
○○卿旗之後候「麾下」どれ位の地位なのですかグッド(上向き矢印)

○○卿授諱一字
それなりに、頂けるのでしょうかexclamation & question


また、本に書かれていたのですが、「得宗」の家臣である「御内人」とは、どう言う意味合いなのでしょうかexclamation & question


まだまだ、いっぱい質問したいのですふらふら
お手数お掛け致しますが宜しくお願い致しますぴかぴか(新しい)
ほりきたさん
こんにちは。
タカピロさんへの質問ですが、横から失礼致しますm(_ _)m

えっとまず、少しこちらからもお聞きしたいのですが、
調べていらっしゃる史料の時代はいつ頃でしょう?
「麾下」と言えば・・単純には旗本ですよね?でも、江戸時代と鎌倉時代では違うような気がしますので・・・。

それから「授諱一字」は「偏諱」のことですよね。
目上の人から諱の一字を与えることですが、
これも、どういう状況でどういう関係で与えられたかによって価値も意味合いも違ってくると思います。

できれば、史料の前後をもう少し詳しく教えて頂けると嬉しいですm(_ _)m

私もまったくの素人で、ちっとも詳しくないのですが、
一緒に勉強させて頂きたく失礼しました。
>ほりきたさん

○○卿旗之後候「麾下」ですが、この“麾下”というのはおそらくその○○卿の指揮下、もしくはその○○卿の臣下という意味だと思います^^だから地位という点では○○卿よりも下になりますわーい(嬉しい顔)

「○○卿授諱一字」は、その○○卿の諱一字を○○さんに与えたのですね^^
諱をもらえるのはその主の近臣、直属の家臣とかになります。特に元服したとき烏帽子を初めてつけてくれる烏帽子親というものが武士にはありますが、この烏帽子親は大体主君になります。そしてこの烏帽子親の偏諱を一字与える事も多かったです。例えば鎌倉初期の結城朝光は烏帽子親が頼朝ですが、その際に「朝」の字をもらっています。諱を頂戴することは家臣にとっては名誉な事であって、より忠誠を尽す動機になります。
あと時代が下ると、将軍から偏諱をもらって政治的関係を結ぶ、なんて事もありました。例えば武田信玄は諱を晴信と言いますが、この諱の「晴」の字は第12代足利将軍・足利義晴の「晴」の字です。特に戦国大名は足利将軍から偏諱をもらうのがかなり多かったです。仙台の伊達氏は3代に渡って偏諱をもらっています。伊達稙宗は足利義稙から、次代の伊達晴宗は足利義晴から、次の伊達輝宗は足利義輝からという具合ですわーい(嬉しい顔)

「御内人」は北条得宗家の直属の家臣、得宗家執事です。歴史上著名な御内人は平頼綱、長崎円喜(高綱)、長崎高資です。鎌倉末期になると、北条得宗家の家内の取り仕切りだけでなく、幕政をも取り仕切るようになって発言力が従来の鎌倉御家人と同等、もしくは上回る勢いを持ちました。鎌倉時代後半の「霜月騒動」はこうした御家人と御内人の対立が表立った事件です。結果、御家人代表といえる安達泰盛は敗退。御内人の平頼綱が勝利してますます御内人の権勢は高まりました。(その後、平頼綱は得宗ですら凌ぐ勢いになって、警戒した北条貞時に討伐されます[平禅門の乱])

以上です^^
正直この説明でいいのかわかりませんが、自分が知っている限りの事を書きました。中には「これは違うよ!」って部分があるかもしれません。色々お調べになる事をお勧めします^^特に最初の「麾下」の答は自信がありませんあせあせ
>じゅんこさん

横からどんどん入ってきてくださいわーい(嬉しい顔)
たくさんの人が参加してくれる事で、ほりきたさんのせっかくのご質問も生きてくると思いますのでグッド(上向き矢印)

そうですね〜、確かにじゅんこさんのおっしゃるように時代によって偏諱の意味合いが変わってきますね。先ほどのほりきたさんへの答えで戦国時代の事も少し触れましたが、鎌倉時代と戦国時代の偏諱は意味合いが変わってきていましたね。
タカピロさん
じゅんこさん
色々お調べ頂き誠にありがとうございますわーい(嬉しい顔)


「麾下」とは鎌倉時代の事です。私の想像では、○○卿の参謀〜位の家臣かな〜って思ってましたわーい(嬉しい顔)


「御内人」とは、その様なりっぱな地位なんですね
ビックリしてますげっそり
「御内人」の中に我が名字が書かれていないのが、ガッカリしましたがく〜(落胆した顔)
ヤッパリ、大和源氏かなぁわーい(嬉しい顔)


話しは、変わります、伊達家の事が書かれて折りますが「伊達家」の事ついて質問します?
3年程前から縁が有り結構、伊達さんと飲んだりしまするんるん
伊達さんが言うには、政宗の祖父さんの「伊達晴宗」公で大森城主実元・成実父子が子孫との事ですわーい(嬉しい顔)
「晴宗」公は、大森城主で、実元・成実父子は子孫なのでしょうかexclamation & question
上手く説明出来ませが、宜しくお願いしまするんるん
日曜日に会いますので、詳しく聞いて又、質問致しますぴかぴか(新しい)


結城氏の事が書かれ折りますので、また、日を改めてご質問致しますぴかぴか(新しい)
>ほりきたさん

伊達晴宗、伊達実元、成実父子の子孫ですか〜。それは大いにありうる事だと思いますわーい(嬉しい顔)

一応簡単な晴宗公の頃の伊達家の系図です^^

稙宗 ----- 晴宗 ----- 輝宗 ----- 政宗
     |
      -- 実元 ----- 成実

つまり晴宗と実元は兄弟、政宗から成実は大叔父の子という事になります。ただ政宗と成実は歳が近かったので兄弟のように親しかったようです^^

一方結城氏は結城朝光の直系統(下総結城氏)はすでに江戸時代の最初に断絶しています。他に傍系として白河結城氏、常陸結城氏がいました。多分お知り合いの方はそちらの結城さんのご子孫ではないかな?と思います。
>ほりきたさん

追記です^^ 大森城主は伊達実元でした。なのでお知り合いの方はきっとこの実元、成実父子の子孫という事をおっしゃっているのでしょう。
ありがとうございますわーい(嬉しい顔)

伊達さん、大変喜ぶと思いまするんるん
家系図や色々大切な物は、火事かなんかで消失した様ですねがく〜(落胆した顔)
今有れば、お宝物ですよねわーい(嬉しい顔)
日曜日に、会いますので、また、詳しい事聞いて、又、ご質問致しますぴかぴか(新しい)



話しは、「結城氏」ですが、「結城氏朝」公の事が少々、触れて有りますグッド(上向き矢印)また、「結城○○○○藤原時房」公は、氏朝公のご先祖の方なのでしょうかexclamation & question



「位」の話しなのですが、上野介・上総介・常陸介など、どの様な地位なのですかexclamation & question


宜しくお願い致しますわーい(嬉しい顔)
「介」は国司の職ですが、
上から守・介・掾・目などあり、
「介」は位ということでは、正六位か従六位にあたるようです。
ただ、治める国によって違うこともあるようですので、
その辺りは詳しい方に譲りたいと思います。

ほりきたさん、
言葉や官位についての疑問は、
史料を調べる上でこれからも色々出てくると思います。
じっくりと取り組みたいのであれば、
日本史用語辞典や古語辞典を手元に置いておくことをお薦めします。
国語辞典に出ている歴史用語もけっこうありますよ。
じゅんこさん、
色々お調べ頂きありがとうございますわーい(嬉しい顔)


単純に、考えて、間違ったならすみませんふらふら

「伊賀守」→從五位
「上野介」→從六位って、感じですかねグッド(上向き矢印)わーい(嬉しい顔)


それと、例えば、河内州の中の小さな領主が、周防守を兼任し、その周防に出向く事も有ったのでしょうかexclamation & question
本人は、河内居て、家臣に出向かせ、指示をしていただけなのでしょうかexclamation & questionわーい(嬉しい顔)

本当に、素人質問ですねわーい(嬉しい顔)
宜しくお願い致しますわーい(嬉しい顔)

結城氏の事も〜グッド(上向き矢印)雪
>ほりきたさん

結城氏朝は歴史上二人いるようです。どちらも室町中期の武将なんですが、一方は下総結城氏の10代当主。もう一方は白河結城氏の6代当主だそうです。正直、室町中期は私自身よく知りませんあせあせごめんなさい。

ただ、結城氏はもともと結城朝光から始まる氏族。そしてその結城朝光は小山氏の出身(下野国の有力豪族であった小山政光の子)です。さらに小山氏は藤原秀郷を祖としている氏族です。。。その辺から藤原という姓が出てきているのではないでしょうか??
でも藤原時房は鎌倉時代最初の「承久」の頃の人物のようですがよくわかりません。


上総介、上野介、常陸介はいわば地方役人のトップだとお考えいただいて構わないと思います。

じゅんこさんが説明してくださっていますが、少し付け加えると、昔の国々は「大国」「上国」「中国」「下国」の四つに分けられ、さらに「大国」の中の上総、上野、常陸の三国は「親王任国」という事で「大国」の中でも別格でした。「親王任国」とは“国守は親王がなるべき国”という意味です。ちなみに「親王任国」では国守とは言われず、太守と言われました。

しかし、その「親王任国」は親王(太守)自らが地方に下って統治するような事はなく、その国の有力な豪族に統治を任せました。その任された者が「介」です。だからその国の統治において実質上のトップはこの「介」という事になります。ちなみにこの「親王任国」の「介」は他の国の「国守」と同格の扱いだったそうですよウインク
>ほりきたさん

補足です。さっきの「親王任国」の「介」は他の「大国」の国守と同格になるため、従六位という事はまずありえません。従五位上くらいの官位だったと思います。
ありがとうございますわーい(嬉しい顔)
「氏朝」公が、お二人いらっしゃるなんてグッド(上向き矢印)げっそり

「結城氏朝」公は、結城合戦の「氏朝」公です。

「結城時房」公は、我が家系に嫁いで頂いた父親ですぴかぴか(新しい)
嫁いで頂いた父親の中に、「藤原朝光」公の名も有り、大変光栄に思いまするんるん他のコミで、お調べ頂いたのですが。この方は、鎌倉幕府では、要職に有った方で、北条義時卿の後妻の父親の様ですぴかぴか(新しい)「義時」公と、この娘殿の間に、御子は有ったのでしょうかexclamation & questionわーい(嬉しい顔)



祖の「清和天皇」の第六皇子「貞純親王」は、
「大守」と記載して有りますわーい(嬉しい顔)他にも、要職が書かれ折りますげっそり



人物名は、必ず、「名字」その時の「位」、守領主の所領地、「橘・平・藤原・源」が書かれ折りますげっそり
>ほりきたさん

北条義時の後妻の父親「藤原朝光」とは伊賀朝光の事でしょうか??確かに結城朝光の妻はこの伊賀朝光の娘とされています。
そして北条義時と伊賀朝光の娘の間には、のちの第七代執権・北条政村が生まれ、さらには金沢流北条氏の祖である北条実泰が生まれたとされています。
伊賀守・藤原朝光と書かれています〓
コミュニティーの皆様、ご挨拶が遅れました。
明けましておめでとう御座います。本年もこのコミュともどもよろしくお願いいたします(o_ _)o

早速ですが皆さんに質問です。

護良親王の名前についてです。少し前までは「もりなが」って読んでましたけど今では「もりよし」が主流なんですか?何で読み方が変わったんでしょうか?(何か史料などで読み方についての決定的な発見があったのでしょうか?)知ってらっしゃる方がいましたら教えてください。
ちなみに1990年初版発行の『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社)では「もりなが」「もりよし」の両方記載されているものの「もりなが」の方で詳しく解説されてました。

初歩的質問で恐縮ですあせあせ本などで調べればすぐわかる事なのかもしれませんが、このコミュには南北朝時代にお詳しい方がたくさんいらっしゃるようなので活用させていただきました^^よろしくお願いいたしますわーい(嬉しい顔)
明けましておめでとうございます。今年もヨロシクです。
ウィキペディアも両方記載ですね。私はどっかの首相のような読み違いしてましたふらふら.....お詳しい方、お願いします。
明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします

護良親王の読み方・・
少し前に直義コミュでも話題になっていたのですが、
いつから「もりよし」と読むのが主流になったのか、ちょっと気になりますね。

一定の年代以上の人は「もりなが」が多いように思いますし、私も「もりなが」に慣れていたのですが、
自分が使っていた日本史の教科書では「もりよし」になっていました。
佐藤進一先生も「日本の歴史 南北朝の動乱」では「もりよし」とルビを振っていました。
「大系日本の歴史」で永原慶二先生も「もりよし」ですね。
もっと以前の人では・・と思ったら山路愛山と佐野学の「足利尊氏」論があったので見てみましたが、ルビがありませんでしたあせあせ(飛び散る汗)
「私本太平記」では「もりなが」でしたね。
じゃぁドラマではどうだったのかな〜と気になるのですが、「もりよし」を採用していたような気がするのですけれど、思い出せません。
私がすぐに調べられる資料はこれくらいですが、私の親くらいの年代の人は「もりなが」に慣れていて、教科書的には「もりよし」と読ませているような印象を受けました。

昔の人の名前は、実際なんと呼んでいたのかわからないものも多いので、もどかしいですね。
>zakiさん

ず〜とコミュ放置しっぱなしでご無沙汰しております〜あせあせ(すみませんっ!)
その後、土肥実平の探究の方は進みましたでしょうか?わーい(嬉しい顔)
私も去年中に石橋山や実平の本拠地だった湯河原周辺を散策して、実平の足跡を辿ろうと思ったのですが結局行けずじまい。ぜひ今年こそは…!
今年もヘタレな管理人ともどもこのコミュをぜひよろしくお願いします^^



>じゅんこさん

あけましておめでとうございます^^「直義コミュ」ではやっぱ南北朝時代も色々奥が深いなぁ〜、と思いつつ楽しく拝見させていただいております。
こちらこそこれからもどうぞよろしくお願いします。

さて、護良親王の名前ですが、確かに「良」の字を“なが”と読むより“よし”と読んだ方が自然な感じはしますね。

wikipediaによれば“後醍醐天皇の皇子の読み”の項目で、護良親王はじめ懐良親王、尊良親王などの名称についての解説があって色々“よし”と読む史料の列挙がありましたけど、いまいちよく分かりませんで、どれも後世に写本された史料のルビを根拠としていて、決定打ではないような気がしました。

日本中世史における大家、佐藤進一氏や永原慶二氏は“よし”の字の採用をしているんですね電球(う〜ん、やっぱ“よし”と読むべきなのか…。)

私も“もりながしんのう”で覚えたものですから最近“もりよししんのう”という読み方に変わって少し違和感を感じたものですから、なんで?いつから??と思って質問させていただいた次第です^^

色々お調べいただき本当にありがとうございましたわーい(嬉しい顔)
>タカピロさん

は〜・・・きちんと研究している方はいるのですね〜。>ウィキ
ね〜・・日本中世史の大家は比較的以前から「もりよし」なのに、
こうなるとなぜ自分は「もりなが」だったのか?
って感じですねあせあせ
質問致しまするんるん


マイナーな千年史より


建武二年秋七月、北条高時の子時行信濃にあり。諏訪頼重と党故を招聚し、応ずる者五万人。進んで鎌倉に迫る。○○公、伯父○○公をして兵を率ひて鎌倉に赴き、大守成良親王を奉じ、足利氏を援けて、時行を討たしむ。○○公足利直義に従ひ、時行を撃つ。軍利あらず。親王を奉じて西に走る。


或いは

是より先元弘三年十二月、皇子成良親王を上野の大守と為す。左馬頭足利直義を相模守とし、之を輔けて鎌倉を鎮せしむ。時に護良親王、尊氏の寵を蒙り位階累進するを思ひ、之を討んとして兵を収めず。帝之を論す。


長くなりましたが、ここに書かれていますぴかぴか(新しい)「成良親王」ぴかぴか(新しい)とは、どなたのことなのでしょうかexclamation & question

(尊良、恒良、義良、宗良、懐良)親王 のどなたか、それとも、光厳天皇ですかexclamation & question
或いは、記述書、編集者なにかの書き間違えなのでしょうか


知っている方教え下さい宜しくお願い致しまするんるん
>ほりきたさん

『鎌倉・室町人物事典』(新人物往来社)にあった“成良親王”の解説を載せますね。

【成良親王】(なりよししんのう/なりながしんのう)
             [1326年(嘉暦元年)〜1344年(康永三年/興国五年)]

後醍醐天皇の皇子。母は新待賢門院阿野廉子。1333年(元弘三年)11月23日、親王宣下。同年12月14日、足利直義に奉じられて鎌倉に下向した。翌1334年(建武元年)1月14日の除目で、四品に叙し、上野太守に任じられた。1335年(建武二年)7月、中先代の乱が起って北条時行が鎌倉に迫ると、足利直義は成良親王を奉じて西走し、親王はそのまま帰京、8月1日に征夷大将軍に任じられた。同じ頃足利尊氏も征夷大将軍補任を希望しており、尊氏を抑えるために補任されたものと思われる。翌1336年(建武三年/延元元年)2月、征夷大将軍の号は停止された。なお成良親王は、将軍宮とも通称される。

1336年11月、後醍醐天皇が比叡山を下り、神器を持明院統・光明天皇に授与されたのちの11月6日、成良親王は皇太子となった。足利尊氏は両統迭立を図ろうとしたのである。しかし、12月21日、後醍醐天皇が吉野に走ったことで皇太子は停止された。

『太平記』は、1337年(建武四年/延元二年)3月、越前金崎城で捕えられた恒良親王とともに成良親王も幽閉され、ついで毒殺されたと伝える。しかし『師守記』は、1344年(康永三年/興国五年)1月6日、近衛基嗣邸に預けられていた「後醍醐院皇子先坊」の薨去を伝えている。「先坊」とあることから、この記事は成良親王を指すものと考えられる。

…という事だそうですわーい(嬉しい顔)この人もまた南北朝の動乱で翻弄された皇子の一人のようですね。
タカピロさん、色々と詳しいご説明ありがとうございますぴかぴか(新しい)


「成良親王」は、仮に、1344年まで生きておられても僅か18歳…なんと儚い人生なのでしようがく〜(落胆した顔)この時代は、皆一寸先は闇ですね涙

本当に、鎌倉後期南北朝時代は、政治の流れが複雑で、いつも争いごとが絶えない時代ですね涙
それに、「太平記」を今度、目を通す際、違う角度から色々な人物像を推理してみたいですぴかぴか(新しい)


この千年史には「良」は「なが」と平仮名をふっていますので、私の祖先も護良親王、成良親王とおっしゃっていたのかもしれませんねぴかぴか(新しい)


この時代、複雑過ぎますので、ご迷惑おかけしますが又質問致しまするんるん
たった今コミュニティに参加させていただきました。
執権は16代目の守時が最後ですが教科書等で14代目の高時が最後のような書かれ方をしてますよね。
それは高時が得宗であること、守時の戦死が高時の自刃より数日早い事によるのでしょうか?

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