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鎌倉・南北朝時代に想いを馳せてコミュの人物トピ♪

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皆さんそれぞれ個々に持つこの時代の人物の人物像をここで紹介してくださいぴかぴか(新しい)

■その人物を学術的に紹介してもいいですし、その人物に寄せる想いを書き綴っていただいてもいいですよ〜ぴかぴか(新しい)
■他のどなたかがその人物を書き込みしていても、重複して構いませんよ〜。あなたなりにその人物を語ってくださいウインク指でOK
■とにかくこの時代のメジャーからマイナーな人物まで、あなたの書きたいように思う存分書いてくださいねるんるん

多くの人物が紹介される事でチョットした人物事典のようになれれば、また、その人物について皆でお話しできたらいいなぁ〜と考えておりますウインク

コメント(49)

【北条時政】 [生没年:1138年(保延四年)〜1215年(建保三年)]

鎌倉政権初代執権。源頼朝の妻・北条政子の父。

この方は伊豆国北条(現在の静岡県伊豆の国市の韮山)に拠った在地の豪族で、出自は明らかになっていません。一説には桓武平氏の平直方の子孫とされていますが、父親も北条時方もしくは北条時家とはっきりしていません。
源頼朝が伊豆へ配流となった際、伊東祐親などと共に頼朝の監視役になりましたが、頼朝の挙兵に際しては共に参加しました。『平家物語』では“北条時政は世をはばかって伊豆の目代(※)・山木(平)兼隆に娘を嫁がせたりしましたが、近隣の武士たちの頼朝への支持が篤い事を見て、自身も頼朝に心を寄せていました。頼朝もまた時政を賢い者で謀に長けた者と見て、「大事を成すのに、時政はとても必要な人物だ」と思っていた”と書かれています。そのためか娘・政子と頼朝の結婚を認めています。(同じ監視役の伊東祐親は娘と頼朝の結婚を強く反対しました)

※目代・・・平安末期、任国から離れている国司(遙任国司)が代理人として私的に家人などを派遣して国を治めさせた代官のこと。

時政は頼朝の幕閣に常にあって、有力御家人の一人としてよく頼朝を支えました。また、北条氏はこの時政によって鎌倉政権における地位の基盤を築いて、次代に飛躍する基礎が固められたそうです。

1199年に頼朝が死ぬと、時政は将軍の外祖父として権力を振るい、梶原景時、比企能員を殺害。翌年には御家人初の国司にも就任しましたが、自身の権力を脅かす二代将軍・源頼家を修善寺にて殺害。そして頼家の弟・源実朝を三代将軍として擁立して自身は初代執権(将軍補佐)に就任しました。1205年には有力御家人の一人であった畠山重忠、重保父子を謀叛の罪という事で亡ぼし、しまいには後妻である牧の方の娘婿である平賀朝雅を将軍に擁立しようと謀りますが、これは息子・義時と娘・政子の大反対にあって失敗(牧氏事件)。二人に強制的に出家させられ、以後は隠居の身として生涯を終えたそうです。
ちなみに、『曽我物語』で有名な曽我兄弟の敵討ちは頼朝の富士の巻狩りの最中に起こった事件ですが、これは実は時政が頼朝暗殺を謀ったものではないかとも言われていますげっそり

この時政はどうやら権力に目が眩んで、晩節を汚してしまった格好になってしまっています。そのためか今でもこの時政は評判が悪く、北条好きの方でもこの時政は除く方もいるようですあせあせしかし、この時政の全面的な支援がなかったら頼朝は挙兵すらできなかったわけでそういう意味では鎌倉政権の生みの親といえるかもしれませんクローバー

[写真1:北条時政木像(伊豆・願成就院蔵)]
[写真2:大河ドラマ「義経」で北条時政を演じられた小林稔侍氏]
[写真3:北条時政墓(伊豆・願成就院境内)]
北条時政

私のイメージでは、老獪なジイさんって感じです。
頼朝亡きあと、その孫達を手にかけ、あっさり幕府を乗っ取ってしまったんですものね。
平治の乱を生き抜き、やっとこさ守ってきた源氏の直系の血もここで簡単に終ってしまうなんて、頼朝も兄弟を殺めなければよかったのにぷっくっくな顔 なんて思っちゃいます。(判官贔屓なもので)

北条氏ファンにもそっぽを向かれる時政。 でも、私は嫌いじゃないんですよね。 

「義経」では、小林稔侍が時政を演じてたんですか! なんか、違うだろう!って感じです。

曽我兄弟の件は初めて聞きました。 そういう逸話もあるんですね〜。
>アポロさん

老獪なジイさんですか〜わーい(嬉しい顔)確かに生没年で計算すると77歳まで生きた事になりますね〜。今まで謀が得意なオッサンだと思ってましたが、77じゃあ確かにジイさんですね〜。ま、この人の謀によって良くも悪くも梶原、比企、畠山と有力御家人を次々に滅亡させてしまったんですから、北条家がこの後飛躍したのもこの時政のおかげですねあせあせ

頼朝にしても確かに兄弟殺しすぎですね。。。バッド(下向き矢印)平家追討軍であれだけ活躍した義経、範頼も結局は用済みとばかりに殺していましたし。特に範頼は富士の巻狩りで頼朝の消息がわからなくなった時、政子に「私がいるから安心してください」って言っただけで、謀叛を疑われて殺されてしまいますもんねたらーっ(汗)
タカピロさん

義経は、人気があり、将来自分の地位をおびやかすかもしれないので、わかりますが。
範頼は気の毒な気がしますね。 人のよい、従順そうな人だったのに。

でも、父を味方に裏切られて殺され、自分も幼少の頃から命の危険に常にさらされる配所暮らし。 
やはり、疑り深い、人を信じられない性格に人格が形成されるのもわかるような気がします。
幼少の頃の生活って、本当に大切ですね。
熊谷次郎直実

源氏方の中で、最も大好きな人物です。
「平家物語」の中での『敦盛最期』の段は涙無くして語れません。
息子をとても可愛がっており、戦争で傷をおったら心配で心配で、ずっと付きっきりで看病していたほどです。

勇猛で、情け深く、人望も厚いなどなど、とかく美談で語られる事の多い人物ですが、
敦盛の死で武士としての生き方に無常を悟り、出家したとあります。(多分そうじゃないと思いますけど) 

私事ですが、私が初めて文楽にはまったきっかけになったのは、この熊谷が主役の「一谷ふたば軍記」です。
スケールが大きい熊谷の人物像に、ますますファンになりました。 
>アポロさん

熊谷次郎直実の私なりのイメージは東国の武士らしい、素朴で実直で己の武勇のみを頼りとして多勢にも果敢に討ちかかる武士です目がハート

一の谷の合戦の敦盛最期の場面はよく古文の教科書にも出てくるので、有名ですね。それにこの場面は後の芸能文化にかなり影響を与えた場面でもありますね。能では「敦盛」が有名ですが、その中の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬものの有るべきか」がとても私には印象的でするんるん

チョット話が逸れてしまいましたが、とても直実という人物は私もとても興味があります。文楽の「一谷ふたば軍記」拝見してみたいものですぴかぴか(新しい)
タカピロさん

「一谷ふたば軍記」熊谷陣屋の段は

敦盛を討った直実が、義経に敦盛の首実験をする場面なのですが。 
昔、敦盛の母に恩義があった直実が、敦盛の替わりに自分の息子小次郎の首を敦盛と偽って差し出すというお話しです。

芝居中には、敦盛の母や小次郎の母も登場し。 殺す者、殺される者の悲劇、父母の悲しさなどが語られ、胸を打つ名作です。

ちなみに、直実の人形の衣装には、ちゃんと「向かい鳩」の家紋も入っているのですよ。

古典芸能では、こういう自分の身内を犠牲にしてまで忠義をたてる話が多いです。 
歴史を知ってる方からすれば、荒唐無稽な展開なのですが、それが芝居の面白さなのですよ。
滅びる者への哀れさをみんなが感じていて、こういう願望的な話が出来ていったのでしょうね。
>アポロさん

すごい話ですね。敦盛の母に恩義を感じ、敦盛の変わりに自分の息子の首を差し出すとは。文楽が起こった江戸時代は歌舞伎などの芸能文化も隆盛を極めましたが、それらの芝居で度々テーマになるのは「義」だったと思います。あの旧主の仇を討つ忠臣蔵も「仮名手本忠臣蔵」として人形浄瑠璃(←文楽とほぼ一緒と考えていいのでしょうか?)や歌舞伎で大ヒットしたお話ですもんねわーい(嬉しい顔)

余談ですが、日露戦争終結の時、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領はロシアと日本の講和に際し、日本が優位になるよう斡旋してくれたそうです。そこで日本側全権大使の小村寿太郎がルーズベルトになぜそこまで日本に尽くしてくれるのか?と聞いたところ「忠臣蔵」の本を取り出し、これを読んで日本人がいかに義に勇む国民である事を知ったのだと小村に話したそうです。

これまた余談ですが、来年の大河ドラマは「直江兼継」ですが、この人もまた「義」を大切にした人物だそうです。「義」を大切にする心、これは日本人の心の財産なのかもしれませんぴかぴか(新しい)
タカピロさん

人形浄瑠璃と文楽は一緒でいいですよ。

歌舞伎に押されがちだった人形浄瑠璃を引き継いだ初代植村文楽軒が、大阪に人形浄瑠璃専門の劇場「文楽座」を開いた事
から、人形浄瑠璃=文楽と、定着したそうです。
私はこの文楽っていう字面と語感が好きなのですよね〜ハート達(複数ハート)


そうなんですか〜。 忠臣蔵に救われたのですね〜日本exclamation
実は私、「忠臣蔵」があまり好きではないのですが、アメリカ人でさえ感銘を受けたのに、
日本人の私がこれではいけないですねあっかんべー
【文覚】 [生没年:1139年(保延五年)〜1203年(建仁三年)]

文覚は俗名を遠藤盛遠と言い、上西門院(鳥羽天皇の皇女・統子[むねこ]内親王)に仕えるいわゆる北面の武士でした。ところが18歳の時、道心を起して出家し、その後諸国を行脚して修行を重ね、京都・高雄に住みました。
文覚は高雄にある神護寺の修復を目指して勧進を始めたのですが、勧進で後白河法皇に強引な態度で臨んだため、怒りを買い伊豆へ流されました。そして流刑先の伊豆で源頼朝と出会い、頼朝に平家追討を勧めます。


私はなぜ文覚が頼朝に平家追討を勧めたのかいまいちわかりませんもうやだ〜(悲しい顔)文覚が個人的に恨みの感情を抱くのは後白河法皇であって平家ではないはず・・・平家物語に何か書いてあるかなと思ったのですが、確たる理由は書かれていませんでした。ま、そもそも文覚が頼朝に挙兵を勧めたという事実自体、吾妻鏡にはチョロっと見たところ書いてありませんし、物語ならではの虚構なのかもしれません。。。あせあせ


文覚は頼朝が鎌倉に政権を建てると、頼朝の庇護を受け、神護寺をはじめ各地の寺院を復興させました。自身も鎌倉へ住んだりして、浄光明寺の前身である草庵を建てたりもしたそうです。(これは定かではありません。浄光明寺の開基は鎌倉政権第6代執権・北条長時とされています。)その後、頼朝が亡くなると、後鳥羽上皇に疎まれて今度は佐渡へ流され、そこで波乱の人生を終えます。


文覚はこのコミュで扱う時代の初期では、一番の怪僧だと思いますわーい(嬉しい顔)延慶本平家物語ではこの文覚に多くのページを割いています。当時にあってもかなり珍しい坊さんだったのでしょう。文覚は弟子に上覚、明恵らがいます。明恵はこの後台頭してくる鎌倉新仏教と対立して、従来の戒律を重んじた仏教で対抗します。師匠に似て反骨心旺盛だったのでしょうかクローバー


[写真1]文覚肖像(集古十種[江戸時代、松平定信によって作られた博物図録集]より)
[写真2]文覚の描かれた絵(鶴岡八幡宮HPより)
タカピロさん

どうして文覚が頼朝に平家追討を勧めたのか。

吉川英治の「新・平家物語」を読むと、なんなくわかるような気がします。

この本の中では

盛遠はまだ極貧時代だった清盛の学友で、清盛の兄貴分。
勉強も出来て武勇にもすぐれ、遊びもうまい。 
そして、かなりプライドの高い、自惚れの強い自信満々タイプ。
夫婦仲が悪く食うにも困る貧乏一家の清盛をはなから馬鹿にして、説教をしたり、女遊びを教えたりします。

そんな無意識の上下関係の中、文覚は袈裟御を誤って殺害をしてしまい、山に逃れ、清盛たち北面の武士はその追跡の任にあたります。

そして時は過ぎ、清盛は、今までの武士ではありないほどの大出世を遂げ、位人臣を極め、天皇の外祖父にまで登りつめますが、かたや文覚はと言うと、罪は逃れたけれども世捨て人動揺の貧乏僧。

頭の良い俺がどうして、あの清盛がなんで。
と、自分の今の立場はわかっているけれど、なんかモヤモヤする気持ちがあるのでしょうね。
プライドの高い人にありがちな、いつまでたっても自分の方が上だいう優越感が捨てきれなかったのかな〜と思います。

最後には、病気で最期を迎えようとしてる清盛邸の門前で、昔の貧乏時代の事をむし返した、暴言ありありの文覚節でダメ押しまでしています。
現実でこういう人がいたら、かなりイタイ人ですよね。

文覚にも、平家の専横のせいで世の中が悪くなったとか、表だった大義名分があると思いますが、
とどのつまりは、文覚の清盛に対する嫉妬だったのではないかと思ったりします。
一説には、男性の嫉妬は女性の嫉妬よりすごいと聞きますしね。


と。 これは、完全に吉川文学のフィクションですが。
吉川英治もきっとタカピロさんと同じような疑問をもたれたから、こういうストーリにしたのではないですかね。
>アポロさん

吉川「新・平家」はそうなっているんですね〜わーい(嬉しい顔)お話ししてくださってありがとうございますexclamationなるほどね・・・
でもでも、吉川英治の清盛が貧乏だったって話なんか腑に落ちませぬ〜。。。がく〜(落胆した顔)だって清盛の父・忠盛は鳥羽法皇のために一千一体の仏像を安置した得長寿院という寺院を建てたぐらいですし、各地の国司を勤めてかなり財を貯えたと言います。清盛も青年時代決してお金には困らなかったんじゃないかなぁと思いますです。。。あ、でも忠盛は財力があるのに質素倹約に決して自分を飾ることには使わなかったとも言いますからね。。。どうだったのだろう??(悩)
タカピロさん

そうなのですよね。 他の書物によると普通の生活をしているようだし。
でも、吉川版ではこれでもかっ!!っていうくらいド貧乏に描かれています。
後の、大出世した姿と対比したかったからなのかな。

まぁ、吉川版は歴史小説ですからね。 どこからどこまで史実かわからないです。 かなり私情入ってますから。
でも、面白いですよ!  
こうだったら楽しいな〜という感じで描かれていますから。
>アポロさん
吉川版面白そうですね。戦国〜江戸の藤沢周平モノみたいな感じですか?
最近、老眼が進み本を買わずにすごしてきた私ですがタカピロ、アポロさんに触発され今日「武将列伝〜海音寺潮五郎」ってのを買ってきましたほっとした顔
明日ゆっくり読んで見ます。源平時代の6人の武将について書いてるようなのですが、頼朝から読んでみますねわーい(嬉しい顔)ウマ
>zakiさん

海音寺潮五郎の武将列伝ですか。源平時代の6人。頼朝とあと5人は誰なんでしょう?とても興味がありますぴかぴか(新しい)

こう言っては失礼かもしれませんが、老眼が進みつつある中で、字が小さく、しかもびっちり書き込んだ私の拙い長文を読んで、コメントを寄せてくれている事に非常に感謝を覚えました。本当にありがとうございますわーい(嬉しい顔)
もう少し読みやすいように、簡潔にしようと常々思っているのですが、なかなか次から次へと付け加えてしまい、つい長文になってしまいますあせあせzakiさんのこうして読んでくれる好意に応えるためにも読みやすいように、簡潔に努めたいと思いますウインク指でOKこれからもよろしくお願いしますねるんるん
>タカピロさん
武将列伝 源平篇(文春文庫)って本で新装版が出たばかりのようです。
悪源太義平、平清盛、源頼朝、木曾義仲、源義経、楠正成について書かれてます。まだ読み始めたとこですが、淡々と史実を探る感じで好感もてます本
タカピロさんの記述、読みやすいですよー。このままのスタイルでお願いしますわーい(嬉しい顔)ウマ
>zakiさん

わかりました〜わーい(嬉しい顔)それではこのままのstyleでいかせていただきますっ指でOK

六人の名前挙げてくださってありがとうございます。日本中世の英雄たちの中に源義朝長男、悪源太義平。正直私はこの悪源太はあまりよく知らないんです。その本、紹介してくださった事ですし、自分も久しぶりに本を買って読んでみようかな、と思いまするんるん
zakiさん

海音寺潮五郎という作家さん、初めて知りました。
武将列伝、面白そうですねexclamation  
私の好きな、平清盛も木曽義仲も載っていますし。 悪源太義平は、山田智彦の「木曽義仲」を読んで以来、非常に興味を持っていた人物なので楽しみですね。
早速、注文してしまいました! 

それと、「悪人列伝」というシリーズもあるのですね。 
古代、中世、近世と三部作、蘇我入鹿や藤原薬子などが載っている古代篇を一緒に買いました。 これも楽しみですわーい(嬉しい顔)

この「悪人列伝」。 タカピロさんには、中世篇がいいのではないですか?
梶原景時、北条政子、北条高時、足利義満などが載っていますよ。

zakiさん、良いご本を紹介して頂きありがとうございますわーい(嬉しい顔)
>zakiさん、アポロさん

つい先ほどホント久しぶりに本を買いましたわーい(嬉しい顔)買った本は海音寺潮五郎の『悪人列伝 中世篇』と司馬遼太郎の『義経(上)(下)』の三冊ですぴかぴか(新しい)
zakiさんの紹介してくださった『武将列伝 源平篇』はあちこちの書店を廻りましたが置いてなくて、今度オンラインで探して取り寄せようと思います涙
とりあえずはこの三冊を読まなくてはっexclamation
海音寺潮五郎の本も『天と地と』以来です。司馬遼太郎は好きな作家さんの一人ですが、これまで司馬遼太郎の描く「義経」は知らなかったので、司馬遼太郎独自の“司馬史観”で義経がどんな描かれ方をするのか、とても興味がありまするんるん
タカピロさん

タカピロさんも買ったのですね! 
面白そうですよね〜手ごろなお値段な文庫本っていうのがいいですよわーい(嬉しい顔)
zakiさんに感謝です手(チョキ)

司馬遼太郎の「義経」は人気ありますね。
私も持っているのですが、実はまだ読んでいないのです...。 買ったのは何年前なのか....。
ハードカバー物は、持ち運びには重いので読むのが億劫になってしまうんですよね〜ふらふら
>アポロさん

ハードカバーはなぜか?値段も高いし、持ち運びにも不便だし、本棚の場所も取るしで自分は結構倦厭するんですよ〜。だから司馬遼太郎も文庫本で出ていた「義経」を買いましたわーい(嬉しい顔)
そうですか。これ人気があるんですか〜、もう何年も前に出た本なのに、何にも知らないんですよ〜あせあせ

とりあえず「悪人列伝 梶原景時」を読みました。梶原景時、私は今まで結構チクリ屋オヤジってマイナスのイメージが強かったのですが(zakiさんごめんなさいっあせあせ(飛び散る汗))、この本で梶原景時に対するイメージが変わりましたよ。やっぱこの本買ってよかったです指でOK
>アポロさん、タカピロさん
ほぼ同時進行で読むようですねほっとした顔。読み終わるのは私が一番遅そうです。
「悪人列伝 中世篇」次に購入しますわーい(嬉しい顔)梶原景時はやっぱり悪人かexclamation & question
海音寺氏の史観、興味ありますウマ
>zakiさん

『悪人列伝 中世篇』の梶原景時はですね・・・。なんて、無粋な事はしませんよ〜わーい(嬉しい顔)ま、一言で感想を言えば、景時のイメージが変わりました。海音寺史観もなかなかです。果たしてzakiさんの感想はいかにるんるんゆっくり読んでくださいましウインク
>タカピロさん
粋な計らいアリガト目がハート
景時フリークあっかんべーとしては彼に関する記述で好きなのは揺れるハート
・善人とは言えないまでも悪人とも言えない。
・和歌を嗜み教養人である。
・官僚的素養を持った武人。
てなとこです。
私個人としては
・元々、源家に心から忠誠を誓ってた。(機会をうかがってた)
・洞窟で覚悟を決めた頼朝を見てこの男について行こうと瞬間に決めた。
・頼朝の命令ならあの上総介を双六やってる最中に殺すってな事もやる。
・戦の天才義経より部下を大事にした。
・北条らの策略にハマリ・・・・・梶原山での悲壮な最後。
なんて想いをめぐらしてますウマ
北条早雲 一族

先日の「その時 歴史はうごいた」でやっていましたね。
私は、この番組を見るまで恥ずかしながら、鎌倉幕府の北条氏と一緒だと思っていました...あせあせ(飛び散る汗)

番組を見てみると、初代だけでなく、5代にわたる100年の間ずっと民の事を思っていたなんて、本当立派な一族ですよね!
驚きました。 もっと、評価されてほしいですねわーい(嬉しい顔)
>アポロさん

私も北条早雲大好きです。それに二代・北条氏綱、三代・北条氏康も好きです!
早雲は四公六民の税率を設けたりしてホント民思いの君主でしたね。
それに!彼らの本拠、小田原城は城の中に町があったから、ホントすごいですよね。まぁ〜篭城する時に長く篭城できるようにする為の工夫だったんですけど、こういう発想はやっぱ民思いじゃないと起きないですよねウインク
佐藤兄弟の塚

先日、長野の善光寺を訪れたら、境内に佐藤兄弟の塚がありました。
今まで、2度ほど行った事があるのに、まったく気付きませんでしたたらーっ(汗)

佐藤兄弟は義経の家臣として有名ですよね。 
特に、弟の忠信は。 歌舞伎や文楽の『義経千本桜』で、「狐忠信」という、
忠信に化けたキツネが登場する人気の幕がありますし。
>アポロさん

長野の善光寺、いいですよね。今はまだ山門が修復中ですかね〜わーい(嬉しい顔)
ところで、なぜ善光寺に佐藤兄弟の塚があるのでしょうか??何かゆかりでもあるんですかね。

平家物語では、兄の佐藤継信は屋島の戦いで、平教経の放った矢から義経を守り、身代わりで亡くなった事になっています。義経の一党ファンなら泣かせる場面でするんるん
久しぶりに人物トピに書き込みをします。


【源 仲綱】(みなもとのなかつな)[大治元年(1126年)?〜治承四年(1180年)]


仲綱は摂津源氏・源頼政の嫡男です。母は源斉頼の娘という事ですが、一説には孫娘とされています。生まれ年もよくわかっていません。


仲綱の位は正五位下まで昇進して、官職は隠岐守や伊豆守などを歴任しました。特に伊豆守の時は、若干13歳の頼朝が蛭が小島へ配流された当時の事で、頼朝を伊豆へ送ったのはこの仲綱の郎党である渡辺氏だったという話もあります。


彼は治承・寿永の内乱のきっかけとなった治承四年(1180年)の以仁王の挙兵に際し、「以仁王の令旨」の奉者として名前が載っています。(『平家物語』『吾妻鏡』)
この「以仁王の令旨」については『平家物語』や『吾妻鏡』に記載されているものは物語の創作であって、令旨の発行の経緯も事実と違う、なんて言われていますが、その辺は話がさらに長くなるのでここではやめます^^

また、『平家物語』では頼政・仲綱父子の反平氏の挙兵の動機を、この仲綱の愛馬であった「木の下」(このした)を平宗盛が奪い、「木の下」を「仲綱」と改名して乗り回した私怨によるものであるとしています。
もちろん真偽のほどは明らかではありません。

以仁王の挙兵に参加した動機はともかく、結果的に仲綱は父・頼政と共に以仁王に賛同し反平氏の決起に参加しました。そして以仁王一行と行動を共にし、以仁王が南都へ遁れる途中に平氏方と戦いとなった「宇治平等院の戦い」で父・頼政と共に以仁王軍の指揮を執り奮戦しました。

しかし、衆寡敵さず、平氏軍の猛攻にかなわず、平等院境内で自害しました。一説には平等院の釣殿で自害したと伝えられています。



また彼は父・頼政と同じように優れた歌人でもありました。藤原俊成が編んだ勅撰和歌集『千載和歌集』にも何首か仲綱の歌が入撰しています。その中の二首を参考までに載せておきます。


山ざくら 散るを見てこそ 思い知れ たづねぬ人は 心ありけり

(山桜が散るのを見て思い知りました。(山桜を見に)訪ねに来ない人はかえって風情があるのだと)


身のうさも 花みしほどは わすられき 春の別れを なげくのみかは

(日々の辛いわが身の事も花見をしている時は忘れる事ができました。ただ春の別れをなげくのみ以外は)
源氏の嫡流「摂津源氏」は多くの歌人を輩出していますよねぴかぴか(新しい)
羨ましい限りですぴかぴか(新しい)

頼政公は、從三位に叙され、武門源氏始まって以来の公卿に昇進ぴかぴか(新しい)
仲綱公も立派な活躍をしたと思われますぴかぴか(新しい)


しかし、この世の先は、わからぬもの、平等院扇芝の地で平氏軍の前で自害する事になるとは…がく〜(落胆した顔)いつも歴史は…たらてばの世界


頼政公仲綱公がもし生きていたなら…
この先、「摂津源氏」が時代を築いたかもしれない

鎌倉幕府(河内源氏)は、無かったかも…

すみませんがく〜(落胆した顔)生意気な事を書き込みまして
ほりきたさん

全然生意気じゃないですよ〜。遠慮せずにどんどん言いたい事言っちゃってくださいわーい(嬉しい顔)

確かに摂津源氏は嫡流のはずなのに、河内源氏の方が武力的には強かったですね。やっぱそれと言うのも源頼義・義家親子の前九年・後三年の役をきっかけに東国に支配基盤を築けたのが一番大きな原因なのではないかと思います。

摂津源氏は京武士でありつづけ、皇族の警護に徹したため新たな支配基盤というものは築きにくかったんでしょうか。。。

こんな逸話がありまして。これは『平治物語』に描かれている場面なんですが、平治の乱の際、源頼政が源義朝から源氏でありながら平氏に付くのは恥辱ではないかと非難を受けた時、頼政は「弓箭をもって皇家に仕えるのが(武士の)務めであり、天皇に弓引く義朝こそ叛臣であろう」と応じたというものです。
なんかこの逸話がとても摂津源氏と河内源氏の性格の違いを表わしているんではないかなぁと思うんですウインク
そーでしたかぴかぴか(新しい)
頼政公・義朝公のお二人の間にその様なエピソードが有りましたかぴかぴか(新しい)

河内源氏、頼光公に始まる武門嫡流摂津源氏を凌ぎ、鎌倉・室町幕府の創始者を出して、武門源氏、武士全体の中心に至った要因にやはり「前九年・後三年の役」が…がく〜(落胆した顔)

この時、「大和源氏」も戦をしていますが…トホホ話題にもなりませんがく〜(落胆した顔)がく〜(落胆した顔)トホホ


話しは変わりますが、頼朝卿が「陽成天皇」の素行よろしからぬ…とか、ある本には、陽成天皇が摂政藤原基経に廃位された不名誉な天皇だったこと…と書いてありますが「陽成天皇」とは、どの様な方で、何が原因でその様な不名誉な天皇になったのでしょうかグッド(上向き矢印)ぴかぴか(新しい)
タブーなお話しなのかなぁグッド(上向き矢印)
『悪人列伝 中世篇』って本が出ているのですかあせあせ
梶原景時って、義経人気ですっかり悪役ですが見方を変えて頼朝から見ると
私には忠臣に見えますね。
本来なら主君の、醜聞になる話を自身が変りに背負うってイメ−ジがありますね。
頼朝が、自身の父である義朝の守護地でありその前に強大な政敵であった平清盛もそうであった播磨守に梶原景時に任じた事。
これは、頼朝が梶原景時を信任していた証かとも思えるんですふらふら
そして、頼朝亡き後、遺児二人の力を削ぐ為かに北条氏に早いうちに排除された
事を見ると坂東平氏内部でも源頼朝に一番肩入れしていた結果に思えますね。
物語ではなく史書から見るとそういう風に見えてきましたねウッシッシ
>クリリンJrさん
海音寺 潮五郎著  文春文庫です。
ぜひ読んでみてくださいわーい(嬉しい顔)
景時はおそらく江戸時代〜近代の文学、芸能の世界で史実から歪められて語られた人物だと思います冷や汗
最初に悪人のレッテルを貼ったのは北条政権だろうけど.....

>春三さん
若い歴史研究家の方に史実にもとずいた景時のイメージがあるのは嬉しいことです。梶原景時フリークの私としてはわーい(嬉しい顔)
「悪人列伝 中世篇」では彼の人格的欠点も語られていて面白いですよ目がハート
春三さん

>歴史は見方によって本当に変わりますよね。

私は、物語を読むか資料系本を読むかで変ると思いますね。
例えば、平家が貶められる材料の一つで「平家にあらずんば人にあらず」って言葉。これは、平 時忠だったと思うのですがこの人は確か平家滅亡後も文官だからといって助命されてませんでしたか・・。
また、清盛は頼朝を助命し後に義経と二人の兄も助命しております。
清盛が義経らの母が目当てだったからの助命だと物語では強調されますが、実質は源氏嫡流に一番近い頼朝を助命しておきながらその下の妾腹の子を殺す意味はさして無いとも思えますね。
こんな平家に対し、源氏は悉く伊勢平家一門を殺しておりますね。
頼朝からすれば自分と同じ様な人物が平家から後に出ない為の処置だったのでしょう。
これらを見てると、ただ源氏が正義で平家が悪だの多くの風潮は私は理解し難いただの頑固者ですウッシッシ

ZAKKI さん

教えていただき、ありがとうございますウッシッシ
機会があれば、読んでみたいです。

「物語」とは、面白いですがそのまま史実と捉えられると恐ろしいですねふらふら
北畠親房について、なのですが、明治になり、彼が持ち上げられたのは何故でしょうか?
北畠は村上源氏の流れであり。岩倉卿もまた村上源氏の流れ。


岩倉卿の思惑が関係したのでしょうか?
源為義・源義朝・源頼朝・源範頼

今更?て感じですが、前の大河ドラマがきっかけで、興味を持ちました。
為義は源氏の凋落を招いたようななイメージで描かれていましたが、義朝を東国へ送るなど、結果論からすると、実は先見の明があったというか、戦略的に考えていた可能性があったのではないか、とか。

玉木さんの義朝もかっこよく、直情型?の感じは、頼朝よりむしろ義経に受け継がれたか、とか。源氏再興のために頑張る姿に感銘。

伊豆で苦渋の時を過ごし、ついには挙兵する頼朝(伊豆時代に興味が出てきた)。

義経の影に隠れがちだが、大軍を指揮する能力に優れていたとされる、大手軍の将、範頼。


最近、今までとは別のベクトルから見るようになった&特に興味が出てきた四名です。

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