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ミイラ・ミイラ・ミイラコミュのイタリア

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イタリア(・∀・)イイヨー!!

イタリアはミイラ大国と思われるので、西ヨーロッパにまとめずに単独でトピックを立ててみました。

コメント(203)

オーリアの大聖堂のミイラ その5

>>58〜で紹介した、オーリアの大聖堂のミイラですが、↓のサイトにミイラの来歴が書かれていました。修道士と思ったら一般人、しかも人工的にミイラ化されていたとのこと。

Mummies in Oria
https://italiannotes.com/mummies-in-oria/

ミイラが安置されている地下墓地は、もともとオトラントの戦い(1480〜1481年にオスマン帝国とナポリ王国などヨーロッパ諸国が戦った)の犠牲者を追悼するために建てられた。

その後、この地は数世紀にわたって海賊などの略奪者に襲われ、それに対抗するために十字軍が組織された。
このような苦難を後世に伝えるために、住民の一部が遺体を保存して地下墓地に葬られることを希望した。

オリアのミイラは、僧侶や修道士ではなく、様々な時代の一般人であることが、その埋葬された衣服に表れている。

遺体の保存を希望した40人以上の男たちは、鼻の穴から脳を吸い出され、内臓は取り除かれて石灰と香りのよいハーブに置き換えられ、遺体はさらに石灰の中に少なくとも2年間は沈められた。これは非常にお金のかかる作業で、金持ちにしかできなかった。 2年間の脱水状態の後、遺族は遺体を洗浄し、服を着せて壁龕(壁のくぼみ)に置くことが義務付けられていた。

衛生上の理由から教会への埋葬を禁止するナポレオンのサンクルー勅令(ナポレオン法典のことらしい?)が1804年に出されたにもかかわらず、1700年代から1858年まで20〜30回にわたってミイラ化が行われた。現在まで残っているミイラは22体のみである。

この地下墓地は数年前に洪水に見舞われ、ミイラの半分が溶けてしまった。溶けたミイラの頭蓋骨は棚の上に並べられている。
(記事が書かれたのがおそらく2011年なので洪水に見舞われたのは2005〜2010年ぐらいではないかと。)
オーリアの大聖堂のミイラ その6

右側の空の壁龕にももともとはミイラが入っていたんですな。
オーリアの大聖堂のミイラ その7

骨じゃないのも並んでます。
オーリアの大聖堂のミイラ その8

11体のうち、一番右奥のミイラとその隣(奥から2番目)のミイラ。
オーリアの大聖堂のミイラ その9

奥から2番目のミイラ。
オーリアの大聖堂のミイラ その10

奥から3番目のミイラ。
オーリアの大聖堂のミイラ その11

奥から4番目のミイラ。
オーリアの大聖堂のミイラ その12

奥から5番目のミイラ。
なんというか、雰囲気がありますな(・∀・)
オーリアの大聖堂のミイラ その13

奥から6番目のミイラ。
オーリアの大聖堂のミイラ その14

奥から7番目のミイラ。
オーリアの大聖堂のミイラ その15

奥から7番目のミイラ、横からなど。
オーリアの大聖堂のミイラ その16

奥から8番目のミイラ。
オーリアの大聖堂のミイラ その17

奥から8番目のミイラ、手など。
オーリアの大聖堂のミイラ その18

奥から9番目のミイラ。
オーリアの大聖堂のミイラ その19

奥から10番目のミイラ。
オーリアの大聖堂のミイラ その20

奥から10番目のミイラ、顔のアップ。
オーリアの大聖堂のミイラ その20

奥から11番目(一番手前)のミイラ。
ポンペイのポルタ・サルノ(Porta Sarno)墓地のミイラ

>>163で紹介したポルタ・サルノ墓地のミイラですが、トカナでも記事が出ていました。

ポンペイで耳と毛髪つきの「半ミイラ」出土! 2000年前の激ヤバ死体から判明した衝撃史実と正体とは!?
https://tocana.jp/2021/08/post_219091_entry.html

「墓には古代ギリシア語で碑銘が刻まれており、死者の人となりまで特定されている。亡骸は死亡時で60歳のマルクス・ベネリウス・セクンディオという人物で、元奴隷ではあるが解放されてから演劇界でめざましい活躍を見せ、主な公用語がラテン語だったポンペイでギリシャ語の演劇をプロデュースするなど富裕な演劇人であったことが突き止められている。

 この時代、ポンペイでは火葬が通常であり、埋葬されるのは幼くして命を落とした子どものみであったことから、セクンディオはかなり特別な人物であったことが考えられるのだ。

彼がいつ埋葬されたのかについては正確に特定されてはいないが、西暦79年のベスビオ山の噴火の数十年前ではないかということだ。今からほぼ2000年前の墓ということになる」
カターニアの「眠れる森の美女」アンジェリーナ・モッチョ
1911年、彼女は許嫁を押し付けられた末、居城から身を投げてしまう。死を受け入れ難かった父親は防腐処理して霊廟に安置した。近年墓泥棒にあい、表を板で仮に塞いでいるそうです。
https://catania.liveuniversity.it/2018/08/29/angelina-mummia-catania-storia-castello-leucatia/
https://www.newnotizie.it/2017/08/19/catania-scoppia-caso-della-cappella-mioccio-cosa-ne-sara-del-corpo-della-bella-angelina/
https://darkgothiclolita.forumcommunity.net/?t=61841297
>>[182]
おお、これまたすごい情報ありがとうございます(・∀・)

リンク先によると、以下のような経緯があったそうです。

"Angelina Mioccio"はシチリア島の都市カターニアの裕福なユダヤ人家庭の娘で、彼女が18歳の時に10歳年上の金持ちの弁護士と婚約させられました。
(婚約相手は父親の友人の30歳の弁護士で、彼女とは1度だけ会ったことがあったそうな。)
当時、彼女は従兄弟に恋をしていたのですが、その従兄弟は彼女の父親の会社に雇われていたので婚約に異議を唱えることができなかったようです。

1911年4月、19歳の彼女は結婚後の住居とするために建てられたLeucatia城から投身自殺しました。

彼女の父親は彼女を諦められず、遺体を防腐処理し、数年後にMioccio家の礼拝堂に移しました。

防腐処理された彼女の遺体は結婚のために用意されたドレスを着せられてガラスケースの中に安置されました。
(礼拝堂はカターニア記念墓地(Cimitero Monumentale di Catania)に建てられているそう。記念墓地というのはモニュメンターレと呼ばれ、富裕層や著名人の墓の集合墓地で、豪華な墓石が立ち並んでいるそう。)

しかしこの礼拝堂の相続人(遺族でしょうかね)は礼拝堂に無関心で放置していたため、礼拝堂は墓泥棒に荒らされてガラスケースも破壊されてしまったとのこと。

その後、2013年に、夢の中でAngelinaを見たという40歳の男性"Samuele Bombaci"が勝手に礼拝堂の掃除やAngelinaのミイラに花や人形を供えたりしていたそうです。
ただ、Bombaci氏はミイラを撫でたりもしていたそうで、ミイラの破損につながる行為ということで(ミイラに生花を乗せるのもよくないですね)、
カターニアの墓地管理者が墓を封印して司法に連絡したとのこと。


…どうも2013年にこのSamuele Bombaci氏の行為がニュースになって、礼拝堂の相続人の調査が開始される→相続人は相変わらず礼拝堂を放置→2017年にカターニアの墓地管理者が相続人に対して礼拝堂の権利の確認を求める通知を発行する(この通知を無視した場合は荒廃している当該区域をその上の建物も含めて市町村に全面供出し、遺骨は納骨堂に搬送する)、という流れだそうで。
その後については不明。
↓の記事によるとサムエレ・ボンバチ(Samuele Bombaci)氏の行動はかなりエスカレートしていたようですな(・∀・;)

https://www.newnotizie.it/2017/08/19/catania-scoppia-caso-della-cappella-mioccio-cosa-ne-sara-del-corpo-della-bella-angelina/

「近年『ベラ・アンジェリーナ』の物語が再び注目されるようになったのには、サムエレ・ボンバチという人物にまつわる不穏で病的な事件が決定的な貢献をしていると言わざるを得ない。

2013年、暴行事件で昏睡状態から回復したこの40歳の男性は、故人の夢を見たと主張した。アンジェリーナが夢に出てきて、お願いをするのだ。ボンバチは墓地に行き、礼拝堂を見つけると、許可なく勝手に礼拝堂の掃除と整頓を始めた。さらに悪いことにボンバチはミイラを触り、洗い、母親に新しいドレスを作ってもらおうと考えた。

その後、ボンバチはさらに病的なまでにミイラに執着し、アンジェリーナを訪れる人々によって一種の「カルト」が確立されたのである。

サムエレ・ボンバチは法律を破って騒動を起こしたが、その行為について起訴されることはなかった。逆説的だが、この男の行動は(おそらく黒ミササークルとも関連しているのだろうが)良い結果につながった。ついに多くの人がアンジェリーナに注目するようになったのだ」
同じ画像をUPしてしまった(・∀・;)
こちらはMioccio家の礼拝堂を撮影した動画。
2013年にサムエレ・ボンバチによって世間の注目を集めたアンジェリーナ・ミオッチョのミイラですが、↓の記事によると「2016年ごろまでガラス越しに見ることができた」とのこと。
この記事は2021年5月の記事ですが、「つい最近(ミイラを安置していた)礼拝堂が修復された」とあったので、現在もミイラは礼拝堂に安置されてるのかもしれません。
https://www.ilfattodicatania.it/2021/05/il-castello-di-leucatia-il-matrimonio.html


アンジェリーナが飛び降りたロイカティア城ですが、アンジェリーナの死後、未完成のまま売却されました。
新しい所有者は住宅として使用するために改修を始めたのですが、中央の塔で幽霊が何度も目撃されたり、夜中にうめき声や悲鳴が聞こえたりしたそうで、それで所有者は城を放棄してしまいます。

第二次世界大戦中はドイツ軍に接収され、周辺の建物が被害を受ける中、この城は無傷で残り、1960年にカターニア市に購入されます。
市が購入したものの建物はずっと放置され、ホームレスのたまり場になっていたのが、2001年に1階部分が「ロザリオリヴァティーノ」文化センター図書館としてオープンして現在に至ります。

2015年には、文化センターを城に戻してアンジェリーナのミイラを収容する博物館にしようというクラウドファンディングが行われたものの、100件の募集に対し30件しか応募がなかったそう。
また、ジャーナリストや人類学者のダリオ・ピオンビーノ・マスカリ博士などによるミイラの保護の要請があったとのこと。


画像は現在のロイカティア城(Castello di Leucatia)。
イタリアの城ですが、ユダヤ人が建てたのでユダヤ風の意匠なんだそうです。
モンサンポロのミイラ

イタリア、マルケ州アスコリ・ピチェーノ県のモンサンポロ・デル・トロントにある聖母マリアの被昇天教会(Chiesa di Maria Santissima Assunta)のミイラ。


2003年の地下墓地の修復作業中に20体以上のミイラが発掘されました。
ミイラは17世紀末から19世紀初頭にかけての労働者階級のもので、それらのほとんどは自然にミイラ化しており、また遺体が自然にミイラ化する環境で衣服もよく保存されていました。

地下墓地の修復後、ミイラをそれぞれ見つかった部屋(Cappella della Buona Morte(善き死のチャペル)と隣接する地下室)に安置して「モンサンポロのミイラの地下墓地博物館(Museo della Cripta – le Mummie di Monsampolo)」として開館しました。

地下室にはミイラ4体(5体?)と衣服などが展示されています。
モンサンポロのミイラ その2

胸の前で指を組んでいるミイラ。
モンサンポロのミイラ その3

地下室で展示されているミイラ、2体目。
モンサンポロのミイラ その4

こちらも2体目の画像。
モンサンポロのミイラ その4

地下室で展示されているミイラ、3体目。
モンサンポロのミイラ その6

こちらも3体目の画像。
モンサンポロのミイラ その7

地下室で展示されているミイラ、4体目。
モンサンポロのミイラ その8

こちらも4体目の画像。
モンサンポロのミイラ その9

クリーニングされる前のミイラ。
モンサンポロのミイラ その10

左から2番目のミイラは、展示されている1体目のミイラ(胸の前で指を組んでいるミイラ)、
中央(左から4番目)のミイラは、展示されている4体目のミイラですね。
モンサンポロのミイラ その11

地下墓地の入り口から通路を進むと、突き当たりに「善き死のチャペル」、右側に地下室があります。
モンサンポロのミイラ その12

善き死のチャペル。
幼児のミイラ

ミイラはパレルモのCimitero di Santa Maria dei Rotoli(サンタ・マリア・デイ・ロートリ墓地)のボナーノ・ホールという、倉庫として使われていた部屋に置かれていた木製のトランクに納められていたとのこと。

ミイラは2017年に発見されましたが、由来については、どうも1999年に当時の教区司祭がトランクを預けたらしいというぐらいしか判明していないそう。

トランクからは方眼のノート用紙に書かれたメモが発見され、そこには「S. PROSPERO 1977年9月25日」と書かれていました。
フランチェスコ・ロンギ

>>139-140でHugoさんに紹介していただいたフランチェスコ・ロンギですが、2022年7月にテレビ番組に登場していました。
番組ではフランチェスコ・ロンギは謀殺された説が採られていました。


「幽霊城」でミイラと暮らす一族 家族の狂気が生んだ悲劇とは:有吉の世界同時中継
https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/entertainment/entry/2022/026388.html

ローマから車で約1時間、いまなお中世の面影を残す小さな町・フモーネには、ミイラと暮らす一族がいる。一族は山の上にそびえ建つ城に住み、ある理由から長年ミイラの存在を隠し続けてきた。

歴代城主の肖像画が飾られた部屋には、ミイラになった人物を描いた絵もあった。3歳で逝去したその人物の名はフランチェスコ。1848年にロンギ家の長男として生まれた。7人の姉を持つ末っ子で、待望の後継人だった。ところが「長男が一族の財産すべてを相続する」という一族の掟をよしとしない姉らは、フランチェスコの毎日の食事にガラス片を混ぜて食べさせた末、毒入りジュースを飲ませて殺害したのだ。

その後、姉らは母エミリアに息子の死因は肺炎だと伝え、財産を分けあったのちに結婚して城を離れたという。こうして悲劇の真相は一族の秘密として闇に葬られた。

エミリアはフランチェスコを埋葬することに耐えられず、医者に死体の防腐処理を依頼した。
こうしてフランチェスコは約170年経ったいまでも、まるで生きているかのように美しい姿で眠っている。
フランチェスコ・ロンギ

画像1枚目がフランチェスコ・ロンギの肖像画とのこと。

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